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イヴの肋骨

 俺の心は、もうここにはいない人で占められている。  俺自身の話をまずはしようと思う。世間に名を馳せる財閥の後取りとして産まれた俺には、兄がいた。  兄さんについての記憶を思い返そうとすれば、いつも決まって兄さんの自室のベッドの上だった。兄さんはあのベッドから滅多に出たことがない。体が弱く、激しい運動を医師から禁じられている。それゆえに体力もなかった。いつもやつれた顔をして、自信なさげに俯いてばかりだった。  そんな兄さんを、俺は慕っていた。  というよりも、助けなければならないと思っていた。  兄さんのことを気にかけていたのは、俺くらいだった。  両親は跡取りと望めない兄さんのことを居ないものとして扱っていたし、使用人たちもそんな兄さんに対し、ぞんざいな扱いをしていたように思う。  だから、兄さんには俺しかいなかった。  兄さんは、俺が何かしてやるたびに「ありがとう」と礼を言うし、俺のことをいつも褒めてくれていた。両親や使用人たちは、勉強ができた時や、学校で表彰された時にしか褒めない。  そういえば、両親のためにと幼い頃似顔絵を描いたこともあった。しかし、それは見向きもされなかった。  けれど、兄さんは褒めてくれた。兄さんだけだった。俺のことを認めてくれるのは。本当の俺を認めてくれるのは。  いつも自信なさげでおどおどとしていて、そんな兄さんを認めてやれるのも俺だけだ。俺たちは世界に二人きりの存在だった。  そう、二人きりの存在だったんだ。      兄が死んだのは突然のことだった。  死因は、病によるものなどではなかった。  兄さんの死体を最初に見つけたのは俺だった。  その時のことは、今でも鮮明に思い出せる。      その日は、兄さんの二十歳の誕生日だった。  はじめに、兄さんの部屋に入ろうとした時、扉の隙間から漂う異臭に気がついた。  糞尿が混じり合ったかのような不快感を催す異臭が、俺の鼻腔をついたのだった。  俺は不審に思いながらも、ゆっくりと扉を開いていく。  俺の視界を侵食するかのように、映り込んだ景色に、俺は絶句した。  ゆらゆらと揺れる、何かがあった。それが人のものであると悟るまでに大分と時間がかかった。ようやく理解したころ、俺は絶叫した。  それは、兄だった。  兄さんと繰り返し叫びながら、首を吊っている兄を下ろそうとしがみついた。全身が震えていて、うまく下ろすことなんてできやしなくて、足元に流れていた糞で足先が汚れるのも気にならず、ただただ、兄に縋りついた。  兄は事切れていた。首を吊って、事切れていた。兄は二十歳の誕生日にそうやって、逝ってしまった。  俺が十八の頃の話だ。  その後のことはよく覚えていない。俺は気がついたら、風呂に通されていた。一人で風呂場で、生温いシャワーに打たれていた。        その日の出来事が、今も頭からはなれない。  あれから四年経つ。俺は父の会社の後を継ぎ、若社長として日々の激務を過ごしていた。  心に大きな穴が空いたようだった。兄がいないという事実に、ただただ俺は耐えることしかできなかった。もう、いないのだ。会えないのだ。  何度も隠れて泣いた。四年経ってもあの日の出来事が今日のことのように、褪せないのだ。  一般的にみて、俺の未来は明るいものだったと思う。結婚の話だって舞い込んできた。 しかし、俺の中には絶望しかなかった。  そんな折だった。俺がそれと出会ったのは。        いつもは使用人に仕事が終われば送迎されているのだが、その日は断ったのだった。予定があるからと言い、後で迎えが必要ならば寄越すように連絡すると言い含めたのだった。実際には予定などない。ただ、屋敷に帰る気になれなかっただけだった。  普段通らないような薄暗い路地を選んで俺は一人でふらふらと歩いていた。どこへ行くあてもない。ただただ帰りたくないという一心だけで歩いていた。  歩きながら、俺は今日が兄の命日であることを思い出した。  道理で帰りたくない訳だと思った。  毎日がいなくなったものを思う日々で費やされていたが、今日は一際それが深くなる日だった。  俺は歩いた。歩いて歩いて歩いて、気がつけば、その店の前にいたのだった。  その店のショーウィンドウの中にあったものに、俺は思わず見入ってしまった。  最初、そこに本物の人間がいるのだと思った。しかし、違った。人形のようだった。  あまりに精緻すぎるその人形に見入っていると、店の入り口が開いたのだった。  スーツ姿の男だった。男は、「いらっしゃいませ」と言い、俺を中へと手招いた。  何をしているのだろうと思いながらも俺はその手招きに従ってしまう。そうして中へ通された俺はさらに驚愕した。  中には人と見紛う精緻な作りの、等身大の人形たちで埋め尽くされていた。八畳ほどの狭い店内を埋め尽くす人形たちは今にも動き出しそうで、その異様さをさらに増長させていた。 「いらっしゃいませ、お客様、私どもが取り扱う『自動人形』の館へ」 「自動人形?」  聞き慣れない単語にそっくりそのまま言葉を返せば、「左様でございます」と男は返した。鼻の横にある大きな黒子をいじりながら、男は続ける。 「この人形たちは、人と同じように食事をし、眠り、動く、自動人形と呼ばれる代物でございます。私たちは、お客様の望む姿の人形を、作り、お届けすることを商売としております」 「動くだと、この人形が」  そんな馬鹿な話があるものかと俺は鼻で笑ってみせた。そんな俺の態度を意にも介さず主人は、「左様でございます」と再び機械のように応え、後ろに控えていた人形に呼びかけた。 「マリア、ご挨拶を」  中世を思わせるドレスに身を包んだ女性の人形だった。その人形が、突如として俺の方を見たのだった。眼球がしかと俺を捉え、首が動く。細く淑やかな指先が胸の前で組まれていく。まるで人のように自然な動作に俺はただただ息を呑んでいた。 「いらっしゃいませ、お客様」  人形から発せられたとは思えないその涼やかな声に、俺はただただ聞き入ってしまった。 「もうお分かりでしょうお客様。私の言っていることが夢物語などではないことを」  そう言いながら、男はマリアと呼んだ自動人形に俺に触れるよう命じた。  硬直したまま動けないでいる俺の元にマリアはやってきた。そうして、「失礼いたします」と告げたのち、俺の手のひらに触れた。  俺は目を見開いた。  あたたかい。  マリアという自動人形の掌は確かに暖かかったのだ。  俺は男を見た。  男は妖しく笑みを浮かべながら、俺に問うた。 「して、お客様、お客様が望まれるのはどんな人形ですかな?」  俺は、咄嗟に問うていた。 「どんな、姿でも、作れるのか」 「はい、勿論にございます」  喉が渇く。渇いて仕方なく、俺は生唾を呑んだ。  そうして、やっとのことで主人に告げていた。 「もうこの世にいない人間を、作りたい」  浮かんでいるのは兄の姿だった。  首を吊って、ただただ揺られている兄の姿。ああ、あの姿から、解放される。  生きた兄を、今、再び取り戻すことができるのだ。 「かしこまりました」  主人がそう応えた瞬間、俺の胸は高鳴ったのだった。      後日、自動人形を作るために必要な写真を数枚主人の元へ届け、支払いを終えて待った。  支払いには法外な値段が必要だったが、そんなものは関係ない。ただただ、兄に再び会いたい一心で俺は待った。  自動人形を一体作るのには半年かかるそうだった。  いまかいまかと待ち続け、そうしてようやくその日が来たのだった。  俺は屋敷から近くに内密でマンションの一室を借りた。そこに家具を運び込み、死んだ兄の部屋を模して配置していく。  全て、家の者には一切知らせずにやり遂げる必要があったのだ。なんとかそれらをやり遂げた俺は、人形が運び込まれるのを待った。この部屋に届くように手配していた。人形は、来るはずだ。  そうして待つうちに、インターフォンが鳴らされた。  配達員が二人がかりで運び込んできたその大きな大きな縦長の箱を見た瞬間、胸は再び高鳴った。  サインを手早く済ませて配達員を送り返した後、俺はその箱を開いていく。  中にはクッションのかわりのようにドライフラワーが敷き詰められていた。  その中に、いた。 「あ、あ……」  目の奥が熱くなっていく。俺は人形の白い頬に手を触れた。日に焼けていない肌、少し痩けた頬、目の下の隈、自信なさげにいつも下げられていた眉毛、少し低い鼻――俺が望んだ兄そのものの姿で、その人形はそこに佇んでいた。  人形の頬に涙が零れ落ちていく。  その瞬間、人形の睫毛が震えた。  暗褐色の瞳が開かれていく。その瞳はみっともなく泣いている俺自身の姿を捉えた。 「はじめまして、ご主人様」  人形は兄そのものの声音で一言そう告げたのだった。      2LDKの室内、その一室に入れたベッドの上に人形を横たえながら俺は命じていく。 「いいか、お前は今日から俺の兄さんだ」 「私は、ご主人様の兄さん」 「ご主人様はやめろ。俺のことはシンと呼べ」 「はい、シン様」 「違う、シンだ」 「はい、シン」  生きた血の通った雰囲気はしているものの、いまだ人形はぎこちない様子だった。これから、この人形を俺の兄として躾けていかなければならない。  人形のことは自由にしていいと、店の主人は言っていた。そして、人形を自分の望むものにできるかどうかは、俺にかかっているとも。  だから、命じていく。根気強く命じていくつもりだった。 「そうだ、お前は俺の兄さんだ」 「私は、何をすればよいのでしょうか」 「それから、お前は自分のことを『僕』といえ」 「はい」 「お前は何もしなくていい。このベッドの中で静かに過ごせ。俺が来たときは、俺が望むように受け答えしろ、今はそれで十分だ」 「シンの望む、通り……」 「今のお前に、俺の兄さんらしさなどはわからないだろう」 「はい」 「だから、今はそれでいい」  俺がそう告げると、人形は、否、兄さんはあの暗褐色の瞳で俺を見つめてみせた。  兄さんだ。俺の、兄さん。  俺はそっと、横たわる「兄さん」の上に覆い被さった。そうして、抱きしめた。  あたたかい。本当に、兄さんが帰ってきたんだ。  俺は、その事実に涙した。  兄さんは、俺を抱きしめ返すことはなく、ただただ芒洋とした瞳で俺を見つめていた。       仕事を終えて、兄さんの元へ通う日々が続いていた。   しかし、人形を兄さんにするという目論見はうまくいってはいなかった。  部屋に入ると、ベッドから立ち上がり、台所に兄さんはいた。  俺は弾かれたように動き、その手を掴んだ。細く骨張った手首は、作り物とは思えないほど精巧だ。 「お前、ベッドにいろと言っただろう!」 「申し訳ありません。ですが、私、いえ、僕はシンに何かできないものかと」 「お前は何もしなくていいんだ!何度言えばわかるんだ!」  そう、人形は兄さんに未だなれていないのだ。勝手に行動する日々が続いている。俺のためだ、俺のためだといいながら、したこともない料理をしようとしたり、掃除をしようとしたりする。そんなことは望んでいない。兄さんはそんなことをしなかった。兄さんらしくあってほしいだけだというのに、人形は聞かない。  それに、言葉遣いだって治らない。  僕といえと言っているのに、私だという。  俺のことを未だにご主人様と言い間違える。俺は早速人形を買ったことを後悔しかけていた。あの男に文句を言いに行こうとあの店のあった場所へ行けば、店は跡形もなくなっていた。  狐に包まれたかのような心地になりながらも俺は帰るしかなかった。  この人形をどこかに返すこともできない。当然だ、見た目には人形だとわからない。人そのものなのだから。  それに、どうしても、兄さんと同じ姿形をしたこの人形を捨てることなどはできなかった。  俺の中に苛立ちが募っていく。 「ですが、シン……私は、役割がなければ……私は……」 「うるさいっ」  鈍い音が響く。  それと共に、棚の上に置いてあったグラスが落ちていく。ガラスの割れる音。  自分が今何をしたのか理解するまでに数秒かかってしまった。  俺は、殴ったのだ。この人形を、兄さんを。  人形、いや、兄さんは、自分の頬を抑え、蹲っていた。うずくまり痛みにうめいている。  そうして告げた。 「もうしわけ、ございません」  ぞくりと、腑がうずいた。アドレナリンが駆け巡っていくのを感じる。  奇妙な感覚だった。  愛する兄。兄さんの姿で、怯えたように謝罪するそのまなこが、俺を捉えている。兄さんが、怯えたような表情で俺を捉えている。兄さんが謝罪を繰り返して、痛みに身を丸めている。  俺の中心が、屹立していくのを確かに感じていた。  冷や汗がつと流れた。  こんなことは異常だ。殴られて謝る兄さんの姿に欲情するなどと。  しかし、事実だった。俺は事実として、俺に情けなく謝罪をしながら蹲る兄の姿に、欲情していた。 「おい、お前」  しゃがみこんで、頬を抑えている人形に触れる。人形はびくりと肩を跳ね上げた。 「兄さんは、もうしわけないだなんて言わないんだよ。ごめんなさいだ」 「ごめん、なさい」 「そうだ」  ごめんなさいと腫れた頬で告げた兄さんの顔は、惨めったらしく、そして、愛おしかった。      その出来事以来、俺はタガが外れたかのように、人形を、兄さんを殴るようになった。  人形は何度も「やめてください」と「ごめんなさい」を繰り返した。  しかし、俺はやめることなどはできなかった。  そうして、数ヶ月が過ぎていった。  表向きは仕事に励んでいた。以前に比べて憑き物が落ちたようだと周囲からは評されていた。俺は笑ってその理由についてはごまかしている。  その一方で、あの部屋に足を踏み入れ、兄さんの顔をした人形を目にするたび、殴る、蹴るの暴行を加えていた。  今ではおとなしく人形がベッドの中にいる日でさえ、難癖をつけては殴る日々が続いている。  止めなければ。  そう思っているのに、痣だらけになりながら、俺を見つめるあの暗褐色の瞳が忘れられない。  あの瞳が見たくて、見たくて、仕方なく、俺はまた手を出してしまう。  俺はどこかおかしいのかもしれない。元々おかしかったのかもしれない。わからない。  ただ、いえることは、あの部屋の中で兄さんは、俺だけのものだということだった。  今日も、俺は兄さんの元へと向かう。 「兄さん、ただいま」  そう言いながら部屋の扉を開く。  部屋に入ると、その日は少し様子が違っていた。  玄関口に入った途端、兄さんのいる部屋からは啜り泣く声が聞こえてきたのだった。  不審に思いながら部屋の扉を開くと、人形がベッドの上ではらはらと涙を流している。  俺の方を見つめて、痣だらけの手と、頬を濡らして、人形は俺を見つめている。見つめながら、告げた。 「もう、解放してください」 「解放、何を」 「わかっているくせに、はぐらかすんですね」  人形は諦めたようにそう告げた。  壊れたように涙を流す姿に、俺は心臓が凍っていくのを感じていた。 「……シン」  人形は涙をこぼしたまま、俺の名を呼んだ。 「こっちに、来てくれないか」  人形は流暢に兄そっくりな口調でそう告げた。張り詰めた空気。その中を俺は歩いていく。  ベッド脇に膝をつく俺の両頬を、痣だらけの手のひらで兄さんは包んだ。  そうして――俺の唇に自身の唇を寄せたのだった。  目を見開く俺は、その唇を拒絶することなどはできなかった。戸惑う俺の唇に触れるだけの口付けを終えた兄さんは、告げた。 「ずっと、こうしたかったんでしょう、僕と」  途端、俺は人形を突き飛ばしていた。  人形はベッドの上に倒れ込む。俺は後退っていた。  人形は、兄さんは、笑っていた。  泣きながら笑い、告げていた。 「僕と、こうしたかったんでしょう」  人形を殴りながら、それは俺が押し隠してきた感情だった。否、殴ることで、人形を、兄さんを殴ることで昇華してきたつもりの感情だった。  俺は、実の兄弟でありながら、兄さんを愛していた。その事実を突きつけられ、俺は動転していた。  人形はどこか挑発的な瞳で言葉を紡いでいく。 「僕を、抱きたかったんでしょう」  違うのとでもいいたげに、壊れたように涙を流しながら首を傾げる。兄さんが、俺を責めている。一度も俺を責めたことがなかった兄さんが、俺を。 「やめろ!」  俺は人形に飛びかかった。ベッドの上に押し倒す形で首に手をかける。  人形は微笑んでいた。頬が腫れているせいか歪な笑みになっていたが、人形は微笑みながら俺に告げる。 「抱かないの?」  そう告げる声音がどこか蠱惑的に響く。乱れた野暮ったい前髪、濡れた頬、薄い唇。腑が沸騰していく。俺は、欲情していた。 「兄さん」  兄さんと呼びながら、俺は気づけば人形の薄い胸に掌を這わせていた。  兄さん。兄さん。  そう告げながら衣服を弄る俺の背に、人形は両手を回した。  人形は何も言わなかった。  俺は人形の体を撫で回しながら人形のズボンをくつろげ、脱がせていく。足から引き抜いて床に放り投げる。  潤滑剤の存在などすっかり忘れていた。けれど、その後孔を犯したいという欲望で満たされてしまっていた。  俺は人形の口内に指を差し入れておざなりに唾液を絡ませていく。指を引き抜いて、後孔に指を突き入れていく。 「っ」  人形は呻く。しかし、一切抵抗をしなかった。一切抵抗をせずに人形は、俺の指を受け入れていた。  おざなりに後孔をほぐした後、俺は屹立している自身を人形の後孔にひたりと充てがった。  入り口が恐怖にひくついている。それが、俺の欲望を増長させていく。 「い゛[#「い゛」は縦中横]っぎぃっ」  ひきつれた悲鳴が上がる。後孔に先端を突き入れた途端、ぷつりと音を立てて、皮膚が裂ける。後孔からは血が伝っていた。それがまるで破瓜の血のようにも見えて、俺は興奮していた。  そのままずりずりと、内部への侵入をしていく。裂けた部分の皮が捲れて奥へと擦れていくのを感じながら、俺は腰を進めていく。 「兄さん、兄さんっ」  ただただ人形は悲鳴を上げ続けていた。上げながら俺を見つめ、はくはくと喘ぐ。  その様が愛おしく、俺は人形を掻き抱きながら最奥へと欲望を叩きつけていた。  人形は、兄さんは、目をひん剥きながらも絶叫する。  兄さんの中は暖かかった。  俺は気がつけば笑っていた。笑いながら、兄さんをようやく手に入れられたことに、ひどく高揚していた。  俺は律動を始める。 「おっ、あ、ぐっ……!」  性器が膨張していくのを確かに感じていた。最奥へと叩きつけるようにして、俺は律動を続け、そして――。 「〜〜〜〜〜〜〜っ」  中へと吐精した。兄さんは、びくびくと体を痙攣させていた。はあはあと、互いの荒いいきが室内に漂う。  そんな中、人形はうわごとのように、一言こぼす。 「かわいそうなひと」  その言葉が心臓を撫ぜた。  その真意を問いただす間もなく。人形は意識を失った。  意識を失ったその瞼の上に口付けた。  俺のものだ。  兄さんは、俺のものなのだ。  そう繰り返しながら。  ――かわいそうな人。  その言葉への不安を誤魔化した。      いつの間にか、疲れて眠っていたらしい。  俺はベッドから身を起こす。ベッドの中には兄さんがいない。ベッドはまだ湿り気を帯びていて、性交の痕が確かに残されている。  俺は苛立ちまぎれに立ち上がる。  またベッドから抜け出したのかと。  拳を握りしめながら立ち上がり、リビングの方へと向かった俺は、その光景を目にして、立ち止まった。  そうして、絶叫する。  天井に吊るされたその姿を見つけて。  絶叫しながら、縋り付く。  人形は、首を吊っていた。部屋の中で、首を吊って、静かに、事切れていたのだった。         「××月××日 イヴの手記」      個体識別番号「イヴ」でございます。  ご主人様に、こうして自身の言葉を綴るのは初めてのことですね。あなたはいつも、私に、もうここにはいない兄の存在を重ねようとしていました。  ご主人様にとっては私は人形なのですから、それは当然でしょう。  しかし、私は、ただの人形ではないのです。私には心がございました。けれど、ご主人様はきっと最期までそのことを理解されることはありませんでしたね。  私はそのことを少しだけ、残念に思います。 あなたは私があなたに嬲られている時の惨めさを、痛みを理解してはくれませんでした。 私はなんとなく、あなたのお兄様本人も、このような惨めな気持ちを抱えながらベッドの中に来る日も来る日もいたのだろうかと思いました。  おそらく、それは間違ってはいないでしょう。  前置きが長くなってしまいました。  私がお伝えしたいことは、ただ一つでございます。    あなたの兄も、私も、あなたを決して愛しません。  あなたの身勝手さゆえに、私はあなたを憐れみこそすれ、愛しはしません。    それでは、さようなら、シン。          

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