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媚薬編 3 無自覚天然はタチが悪い

 営業の仕事は以前に比べるとずいぶん忙しくなった。前までは部長の八つ当たりから逃れるために外回りをしているフリをしたりもしていたけれど、最近はそんな暇はあまりなくて、今日はこっち、明日はあそこって営業活動のためにちゃんと忙しく外を走り回っている。  ちゃんと、なんて、言い方としてはおかしいけれど。 「わ、珍しい、カラルナだ」 「小野池さん?」  綺麗な淡いサーモンピンクの薔薇に足が止まった。  今、外回りの帰り道、製造の立花君にも同行してもらって、貴重な現場からの意見も混じえての打ち合わせだった。 「あ、ごめん。珍しいバラの品種があったから」  薔薇とは思えないくらい花びらがぎっしり詰まっていてとても豪華なんだ。ボリュームがあって、敦之さんが生けたのを見たことがあるんだけれど、とっても素敵でいくらでも眺めていられるほどだったから。 「カラルナっていう花なんすか? バラ?」  訳がわからないと立花君が首を傾げた。 「そうバラの品種で名前がカラルナ。花びらが詰まっていて、ボリュームもある見た目も豪華で」 「バラ、カラルナ……やっぱ花とか詳しいんすね」 「あ、うん。生花教室通ってるから」 「へぇ、すげぇ。さすが」  最近、イメチェンをしたいと髪を伸ばしてるんだっけ? ちょっと邪魔みたいで、それを面倒そうにかき上げた。 「すごくなんてないよ。花の名前すらまだ全然覚えてられてないんだから」 「俺にはバラとバラじゃない花の区別もつかないっすよ」 「俺も前はそうだったよ」  でもそれじゃあ、上条家の当主のパートナーとしてはいかがなものか、だからさ。 「生花かぁ、なんか、オホホホって笑ってる女の人がいっぱいっぽくて、いづらそう」 「オホホホって笑う人は見たことないけど、いづらさは……どうだろう。でも少しだけ目立つかな。たまに視線が痛いこともあるよ。でも、一応、上条家のとかは内密にしてるから、なんか身バレ? とかじゃなくて男性がいるのがただ珍しいんだろうね」  今日は久しぶりの晴れ間だった。明日からまた雨って言ってたっけ。俺、少しクセのある髪だからなぁ。雨の日はあんまり好きじゃないんだ。髪のクセが出ちゃうから、不恰好で。 「? 立花君」  俺が雨の日になるとどうしてもうねる髪に一つ溜め息をつくと、そんな様子を立花君がじっと見つめていた。 「どうかした?」 「……いや、なんでもないっす。たぶん自覚ないんだろうし」 「?」   自覚? ってなんの?  立花君がこちらから視線を外して、なぜか笑って、その最近伸ばして邪魔で仕方ない髪をまたかき上げる。   「俺、次、誰かと付き合う時、無自覚天然系じゃない女の子にします」 「? う、ん」   そうだね、と小さな声でとりあえず返事をするとなぜかとても大きな溜め息を零されてしまった。 「あの、立花君?」 「大変っすね。カミジョーさん」 「え? あ、はい」   花の名前をまだちっとも覚えてないこと、かな。本当にまだ全然、敦之さんがよく扱うバラくらいしか覚えられてないんだ。あまりにもたくさんあって、勉強しないとなぁって。こういうの、勉強するっていうの高校以来で少し懐かしかったりして。  あ、そうだ。  単語帳とか作ろうかな。花の名前の単語帳。  バラだけでも相当な数だし。できたらその花の特徴なんかもしっかり書き込んで。って…………その単語帳ができあがるのいつになるんだろ。 「とにかく、小野池さんが目立つのはそういう意味じゃないと思いますよ」 「え?」  生花教室で? 目立つ理由? 「にしても、今日は暑いっすねー」   言いながら、立花君がグンと両手を高く空に向けて伸ばした。   「作業服、そろそろ夏服っすね」   もう五月だから。 「ネクタイ」 「?」 「緩めないんすか? もう帰るだけだし」 「!」   帰るだけだからと仕事の帰り道でネクタイを緩めたりなんてしないけれど、でも「ネクタイを緩めないのか?」と尋ねる彼の悪戯を楽しむような顔には別の意味がある、気がして。  俺のネクタイの辺りを指し示すように立花君の作業着の襟元を指すその指先は別の意図を指している、気がして。  気のせいなのに。  俺が意識してるだけのことなのに。  つい、真っ赤になってしまったと思う。  頬がとても熱かったから。  そして答えに困ってしまった。   「これ、は」  ネクタイは緩めないよ。例え帰り道であっても仕事途中だし。  それに、どちらにしても緩められないんだ。  だって、この見えないところにはたくさん、あの人がくれたキスマークがある。  ――拓馬。  たくさん、昨日、可愛がってもらえた証が、たくさん。 「あーやっぱ、無自覚天然は絶対にやめとこー。あざといくらいのほうがマジで安心できそうっす」 「ぇ? なんで? 急にそれ」  今は暑いからネクタイは窮屈なんじゃないかって、そんな話をしていなかったっけ? なぜそこまで話題が遡ったのかわからなくて困る俺に立花君が笑っていた。 「やっぱ大変っすねー」 「?」  そして意味がわかっていない俺に笑う、立花君のその前髪の少しパサついた毛先をまた明日から雨降りの、その合間、とても貴重な夕日が鮮やかに照らしていた。

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