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媚薬編 7 罠

「えー、じゃあ、全く俺と同じなんですね。花の名前なんてちんぷんかんぷんで」 「もう全然、最初、講師の人が何を言ってるのかちっとも分からなくて大変だったくらい」 「それも同じです」  思わず、笑ってしまった。  席が隣同士だったこともあったし、男同士だからかな、気兼ねしなくていい分、気が楽で会話が弾んだ。傘が必要ない日も持ち歩いていてくれたんだろうかと尋ねると、いつ会えるかわからないでしょう? と。この間、偶然、遭遇したのだから、三度目もあるかもしれないって。  一時間のレッスンが終わる頃には、人見知りだった俺も全然戸惑うことがなくなって、もうすっかり打ち解けていた。 「いや、君が隣ですごく楽しかった」 「こちらこそ」 「また次の教室にもいるのかな」 「あ、多分」 「本当に?」 「えぇ」  レッスンが終わり、まだ講師を務める加藤さんのところに質問をしに行く人、自分の生けた花を写真に撮っている人、もう帰らなくてはと早々にいなくなった人。  これが敦之さんだと人がもっとすごくて、レッスン終わりなんて、それこそ俳優のサイン会みたいになるんだ。ほとんどの人が生花を習うというよりも敦之さんに会うためにレッスンを受けているんじゃない? と、少しへそを曲げてしまいたくなるくらい。敦之さんにとって当主として大事な勤めなのに、それでもチリチリって。  もう……敦之さんは仕事、終えたかな。  まだだよね。腕時計に目をやった。敦之さんの仕事が終わるまで、あと一時間……二時間はかからないだろうけど。早く会いたいなぁ。 「また会いたいな……」 「え?」  敦之さんのことを考えて、自分の気持ちがぽろりと口から溢れてしまったのかと思った。 「君に……」  けれど、それは俺じゃなくて、彼が言った言葉だった。 「……え?」  俺たちはゆっくり片付けをしながら話をしていた。  テーブルの上に置いていたスマホを手に取ったら、その手の甲に彼の指先が、ちょん……って。 「ダメかな」  触れた。  少し、なんとなくその指先が。  いや、そんなわけないけれど。俺相手に、なんて。でも――。 「あ、会えると思います。次も加藤さんが講師の時の教室、受講しようかなって」 「そう? じゃあ、俺もそうしようかな。やっぱり女性ばかりより同性がいると気が楽っていうか」  気のせい、かな。片付けをしている最中だから手が触れてしまっただけかもしれないし。 「俺も、はい、すごく気が楽でした」 「それはよかった。嬉しい」 「……い、いえ」 「じゃあ、これ」 「あ……」  傘。 「本当にあの時は助かったから。ありがとう」 「い、いえ」 「お礼に一杯奢らせてもらえないかな」 「え?」 「ここのバーでもいいし、どこか場所を変えてもいいし」 「い、いえっ! あの、そんな傘一本にそんなことしていただいたら恐縮なので」 「本当にあの日は助かったし。こうして再会できたのも嬉しいし。何より男同士で同じ生花教室、気が合うと思うんだ。だから、ぜひ」 「あ……ご、めんなさい」  時間はあるけれど。でも。 「この後、人に会う、ので……」 「……」 「お気持ちだけで」 「そっか……残念」  その人は大きく溜め息をついて、肩をすくめた。そんなに残念がられると申し訳ない気がするけれど、でも、やっぱり。 「じゃあ、そこの自販機でジュースを奢らせてくれないか?」 「あ……」  そのくらい、なら。  まだ、時間は一時間は、あるし。また断ったら、なんだか、失礼すぎる気もする、し。 「ね?」 「えっと……じゃあ、それ、なら」 「やった。嬉しいな」  その人は顔をクシャリとさせて笑うと、軽やかに席を立った。まだ教室となっている会場の前方では加藤さんの周りに人が集まっている。けれど席にはほとんど人が残っていなくて、こうして話をしているのは俺たちくらいだった。 「じゃあ、行こうか」 「あ、はい」  それくらいなら、いいよね。バーとかじゃないし。すぐそこの自販機なら、別に。 「買ってくるからそこ座っていて」  俺なんかって思うけれど、でも、常に意識はしてるんだ。上条家の当主のパートナーとして。スキャンダルの類に巻き込まれたりしないように。俺の生活自体はとても地味だし、別にどこにもそういう魅力みたいなものはないけれど、でも敦之さんの迷惑にはならないように。女性じゃないから巻き込まれるトラブルなんて早々ないとは思う。でも――。 「はい。ペットボトルで構わない? お茶とジュース」 「あ、はい。すみません。じゃあ、ジュースを」 「むしろこちらこそ、足止めさせてしまって」 「いえ」 「あ、それ、いい靴だね」 「え? これですか?」  靴は新しくしたんだ。前まで履いていたのは営業の外回りでたくさん歩いて、もうボロボロだったから。けれど流石にそれじゃあ敦之さんの隣に立つのは少し恥ずかしくて。もちろんあの人はそんなこと気にせず微笑んでくれるけれど。 「はい、どうぞ」 「あ、すみません、開けてもらってしまって」 「いやいや」  会釈をして受け取ると、彼は隣に座ってお茶の方を一口飲んだ。 「いただきます」  生花教室は満席だった。少し暑くて、ひんやりとしているジュースがすごく美味しく感じられて。 「はぁ……美味しい」 「それはよかった」 「ありがとうございます。ジュースいただいてしまって」 「……いいんだ」 「会場、暑かっ……」 「確かに暑かったね」  あれ? 「暑くて、たまらなかった」  何か……。 「君も、暑かったんじゃない?」  何か、これ。 「どう? 気分は?」  変……だ。 「……」  世界がぐらりと揺れて。 「体調、悪いのかな?」  ねっとりと身体にまとわりつくように熱が肌を舐めたような、心地の悪さに――。 「あっ……ン」  自分の口から、勝手に、変な声が溢れた。

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