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第1話

その日は、昨夜の雨に打たれて、桜の花びらで地面が 覆い尽くされていた。春先の暖かい風が植物を揺らし、葉と葉のこすれる心地よい音がいつまでもなり続けていた。柔らかく照りつける陽の光が、水溜まりに反射して当たりは昼間の天気をよりいっそう明るくしていた。 みっちりと植えられた桜の木と、散ったその花びらで、一面桃色に染まった講義棟までの坂道には、人の歩きがまばらないつもと違い、たくさんの人で溢れている。 約5万人を収容できる県内で最も大きなドームで行われた入学式が終わると、真新しいスーツに身を包まれた新入生達は、これから4年間通うことになる場所へと、列を成して歩いていく。 入学式での理事長の話が長かったとか、付属高校から来たひとは美男美女しかいないらしいとか、随分前に買ったスーツが少しきついとかの会話や、期待や不安を抱えた新入生達の履きなれていないヒールの足音などは、彼らの声にかき消されていった。 「テニスサークルでーーす!未経験者歓迎ですぜひー!」 「駅伝部です!もう一度青春したい人は来てください!」 「証券研究会ですー!参加強制とかないゆるっとしたところですー!友達いっぱいできるよー!」 「落語興味ある方……」 入学式、それは新たな門出を祝うと共に、上級生達が挙って新入生をサークルや部活に誘う最も大きなチャンスであった。手作りのチラシを片手に、赤や緑の髪色をした人達が新入生達の行く手を阻む。その様子は、街の強引なティッシュ配りのアルバイトを連想させた。 喜多原夏梨(きたらはなつな)も、壮絶な受験勉強ののちに第1志望であった市立の大学に合格し、晴れてこの桜色の坂道を登っている中の一人になったのである。 「思ったよりすげぇな、夏梨」 勧誘の人の多さと勢いに押されて、こう話しかけてくるのは幼なじみの松本理久(まつもとりく)である。 「うん。もう両手いっぱいだよ。」 断ることも出来ないまま、坂道の両端から伸びてくる手から次々と渡されるチラシを受け取り続け、夏梨の手には20部ほどの紙がつかまれていた。 「あとこの坂きつ。どんだけ続くねん。」 母親譲りの関西弁を混ぜながら、理久は何とかして空けた左手で額の汗をふき取った。 市大の正門から講義棟までのこの坂道は、名物と呼ばれるほど長く、そして急である。4年間ここを登り続けると考えると、大学生活への期待より落胆が勝ってしまう。そこまで思わせるほど、坂道が永遠に感じたのだ。 「ガイダンスってすぐ終わるかな?昼ご飯食べに学食行ってみたいよね。」 入学式後に、大学内で行われる新入生ガイダンスは、市大ホールと呼ばれる大講義室で行われる。夏梨が所属する学部は、最も人数が多く、最も競争率が高い。 受験時に担任から倍率を聞かされて卒倒したほどに。 そして、学生食堂はキャンパス内に3つあり、他にもファストフードの店やコンビニもある。 学食の中でも1番気になっているレストランには、日替わりのランチセットがあり、某SNSで話題になるほど評判がいいのだ。 「んー、長そうだよなぁ。色々説明されて、クラス分けもあるし。」 「理久は第1志望何にしたの?語学」 「俺は韓国語にした。なんか簡単そうじゃん?アジア」 「でたでた理久の適当モード。まあ俺も韓国語にしたんけどさ。」 事前に行われた英語の簡単な学力テストと、第1から第3志望まで、受けたい第二言語を選び、それに沿ってクラスがAからIまでわけられるのだ。 そこで決められたクラスで、英語と第二言語を3年間受けることになるので、かなり重要であると夏梨は思っていた。 「あと、夏梨が韓国語にしそうだなと思って。」 真顔でこういう理久の顔を呆れた顔で見つめる。 夏梨がK-POPアイドルが好きで、沼にハマっているのを唯一知っているのが理久であり、韓国語を選ぶだろうというのも見透かされていたようだ。 「他にやりたい言語無かったの?また3年ずっと同じクラスとか飽きるんですけど。」 理久と夏梨は、幼なじみでもあり小学校から高校までずっと同じで、クラスも何度か一緒になっている。家も近かったので、家族ぐるみでの長い付き合いだ。 永遠に感じた坂道を登りきり、同級生達の波に流されるまま私大ホールになだれ込むと、中は既にほとんどの座席が埋まっていた。 辺りをくまなく見渡した後、辛うじて空いていた2席を見つけ出し、そこに腰かける頃には、ガイダンス開始のアナウンスがかかり始めていた。 新入生の中にも、赤や緑の髪色をした人はチラホラと見受けられたが、ほとんどが黒や茶などの控えめな髪色であった。 そんな中、夏梨の前方にいた銀髪の男に目がいくのはごくごく自然なことであった。 「ねぇ、銀髪いるんだけど。」 隣で、先程掴まされたサークルのチラシを真面目に読んでいる理久に小さな声で話しかけた。既にガイダンスは始まっていたからだ。学部長らしき中年男性がずり落ちそうなメガネを乱暴に押し上げながら、マイクを握りしめ何やら話していた。 「どれ?」 チラシからまだ目を離さない理久に、あそこあそこ、と左斜め前を指さす。 名残としそうに目線をずらすと、 「おー、すげー。なんかお洒落だな。」 とうわの空な返事が返ってきた。 銀髪よりチラシに興味があるようだ。 K-POPアイドルを追ってきた夏梨にとって、銀髪を維持するのがどれだけ大変なことかは理解していた。髪の毛のケアは毎日欠かせないし、何度も染め直したりして銀色を保つのはとても難しい事なのだ。 夏梨の推しグループであるLUK(ルック)のセンター、ヨンフンがいつかの生配信で言っていたのを覚えていたからだ。彼はカムバック(新曲のリリース)する度に奇抜な髪色にしていて、中でも銀髪は特に維持が大変だと話していたのだ。 「あれ相当手入れ頑張ってるよ。めっちゃサラサラ艶々だもん!」 人生で初めて、生で銀髪を見て少し興奮気味になった夏梨は、頬杖をつきながら銀髪の彼をうっとりと眺める。そして、夏梨と同じように彼に興味をひかれている女の子集団も、ひと通り騒いだのち(小声で)穴が空くほど彼を見つめるのであった。 なので、ガイダンスの内容は全く耳に入って来なかった。それは、隣にいる理久も同じだった。なにやら気になるサークルを見つけたらしく、先程からスマホで情報集めに勤しんでいる。 「えー、ですから、本学では海外留学も積極的に支援しておりますしーーー」 11時頃から始まったこのガイダンスは、開始から既に20分ほど経過したにも関わらず、学部長の話はとどまることを知らなかった。 夏梨も含めて学生たちは、徐々に集中力を切らしはじめ、ゴソゴソと動いたり、中には居眠りをしている人もいた。 夏梨はスマホで、本日のLUKの活動予定を調べていた。夜7時頃から韓国の歌番組に出演したのち、国民放送ラジオに一番の推しであるヨナとミンスが出る予定らしい。どちらも日本では見ることが難しいため、大人しくSNSに上がるのを待つことにした。 すると突如、けたたましいサイレンのような音がこの大講義室に響き渡った。一瞬にして、静かだった大講義室が人の声でざわつき始めた。 おそらく、誰かがマナーモードにし忘れていて、着信が来てしまったのだろう。 これにはさすがの学部長も、話すのをやめて注意した。 「静粛に。携帯はマナーモードか電源を切ってくださいね。こういう時はねえ。えーっと、どこまで話したっけ」 音の出処は、夏梨たちの左前方、つまり銀髪の彼の方から聞こえていた。 大講義室にいる全ての人の目を集めながら、銀髪の彼は荷物を座席に置いたままスマホだけを持ち、急ぎ足で講義室を抜け出した。 その時、夏梨のほんの数メートル横を通った彼からは、ほんのり甘い香水の香りがした。 「電話出るんや。普通でえへんやろ」 チラシ漁りを終えた理久が、少しだけ笑いながらも銀髪の彼が通った道を目で追いかけていた。 夏梨は、銀髪の彼が電話に出た事も、理久に話しかけられたことも気づかずに、ただ自分の高鳴る心臓の音を聞いていた。 ほんの一瞬見えた彼の横顔が、それはそれは綺麗で、少しだけ風になびく美しい髪が揺れる様は、現実のものとは思えないほどに優雅で、夏梨を一瞬で仕留めたのだ。 夏梨が好む、高い鼻や白い肌、切れ長の二重に薄目の唇を全て持っている顔立ちだった。

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