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何も残せない僕らだけれど。
「もう……首は噛まないでよ。この間見えるところに噛み跡を付けられていたせいで、同僚に馬鹿にされたんだからね」
首筋にキスを落とし、真っ白なその肌に軽く歯を合わせたとき、身を捩って俺の腕の中から逃げた千春(ちはる)が眉間にシワを寄せ頬を膨らませた。三十路のやる表情としては相応しくないと思ってしまうけれど、千春がやると全てが可愛く見えてしまう。
「絆創膏でも貼って行きなよ」
「……首筋に付けられた噛み跡を見られた後に絆創膏なんか貼っても、もう何の意味もないでしょう?」
「意味はあるよ」
「えっ? 何の意味?」
「昨夜も愛してもらいましたって意味」
「……っ、だから、」
そういうことを言っているんじゃあないのと、千春は大きなため息をこぼし、俺に背を向けてしまった。少し骨が浮き出ていて透き通るようにきれいなその背中に、思いっきり傷跡を残したくなり、これで千春は完全に怒るだろうと分かっているのに、その手を止めることができない。しばらく切りそろえていないその爪で赤い模様を付けるのは容易なことだった。
「痛いよ」
「見えないところに付けただけ」
「勝手なことばっかり」
ぷくりと腫れ上がったその傷を指先で優しくなぞりながらまた、爪を食い込ませる。別にそういうプレイが好きなわけでも、本当に彼を傷つけたいわけでもないのに、最近の俺はどうしても自分を止められない。
……分かっているんだ。焦りと不安で押しつぶされそうなこの弱い俺の心のせいだって。
「もう本当にやめて」
「やめてあげない」
「自分がされたら絶対やめようって思うよ。どれだけ痛いか分かってる? 僕も君にやってあげようか?」
「いいよ。いくらでも俺を傷つけたらいい」
少しも笑うことはなく、落ち着いた声でそう言い放った俺に、千春は顔を歪めた。ふざけてやっているんじゃあないと気づいたのだろう。だとすればどうして、と戸惑っているに違いない。
「……隆史(たかふみ)?」
千春は、逃げるようにして空けていた距離を縮め、俺の顔を覗き込んだ。「泣きそうな顔をしてどうしたの?」と、まるで子どもをあやすように優しく柔らかく尋ねてくる。
あぁ、千春。君を手に入れる方法を知りたい。恋人になって何年も過ごして、君からの愛情は日々の中でこれでもかと言うほどに感じていて、それに対しては嬉しく思うし、ずっとこのまま続いていけば良いとそう願っているよ。
けれど、周りが結婚をしていき、「隆史、お前は?」と繰り返し言われるようになる中で、ずっと隠したままの恋人としてしかいられない俺たちは取り残されたような錯覚に陥る。それに二人の関係を形として証明してくれるものが何もないことが、時々たまらなく恐ろしくなるのだ。
千春を縛りたいわけではないし、たとえ結婚したところでその先ずっと夫婦として結ばれたままなのかと言えば、けしてそういうわけではないけれど、それでも、結婚というその枠に縛られてみたくなる。
「何度も中に出したって、俺たちには何の意味もない。見えるところに噛み跡をつけたって、背中に爪を立てたって、それはしばらくすれば消えてしまうし、俺たちには何も残らないじゃあないか」
初めて千春の前で弱音を吐いた。
「そうだね。君に何度も出されたって僕に子どもはできないし、見えるところに付けないでと騒いでいる噛跡だってこの傷だって、しばらく経てば消えてしまう。……君の言うとおり何も残らないね」
相変わらず優しく柔らかい口調で、けれどどこか寂しさを含んだその声に、自分が吐いた言葉は弱音ではなく、千春を傷つける言葉になっていたことに気づいた。
……違うんだ。確かに君の背中には傷を付けたけれど、さっきの言葉は心を傷つけるために言ったのではないと、訂正するつもりで顔を上げれば、全てお見通しだよと言いたげな顔で千春は、俺の頬に手を添えた。細くてきれいな指の形を頬に感じる。
はぁ……。俺はいつからこんなにも弱くなってしまったのだろう。たったこれだけのことなのに目頭が熱くなって、涙を堪えるのにも一苦労だ。
「隆史」
「ん……?」
「僕たち、結婚しようか」
「……っ、」
俺たちには叶わないと思っていたその言葉を口にする千春の意図が分からなくて、何も言えずに固まる俺に千春は、そっとキスをした。
「結婚したくてもできないのは分かっているよ。ただの口約束にしかならないし、それは脆いものだと思う。結局は目に見えて証明できるものはなくて、何も残らない」
何も残らない、というその言葉を言い始めたのは俺なのに、千春の口から聞くとまた重みが増す。同時に何も残せなくて申し訳ないと、そんな考えが頭いっぱいに膨らんでくる。
あぁ、千春は結婚しようだなんて、一体何を思っているのだろうか。
「僕たち結婚しているんですって、誰にも言えないよ。受け入れられない可能性は大きいし、そもそもただの口約束だ。それに両親にだって受け入れてもらえるかも分からない。きっと反対……されてしまうだろうね。だから約束をしても、そうした色んなことで傷ついて心が痛むことがあるかもしれない」
ゆっくりと紡がれていく千春の言葉からは、彼の覚悟を感じた。ずっと苦しかったのは俺だけではないのだ。千春だって苦しんでいた。でもそれを言わずにいてくれたのは、俺を傷つけまいとしてくれていたからだろう。言葉にして認めてしまいたくなかった俺とは違う。
「それでもその痛みだって君とじゃなきゃあ感じないものだ。君といるための痛み。君とでしか生まれない痛み。……今みたいに誰にも言えずにいるこの恋人関係でも時々苦しくなるけれど、どうせ苦しむのなら口約束でしかない結婚に縛られている甘い痛みの中がいいよ」
千春が何が言いたいのか分かってきたと同時に、自分自身を恥じる気持ちで消えてしまいたくなった。彼はこんなにも俺のことを、俺とのこれからを、真剣に考えていてくれたのだと思うと胸が熱い。
「僕は君とずっと一緒にいる約束をして色んな意味でそれに傷つくことになっても、君といればそれさえもきっと、時々靴に引っかかって歩くのを邪魔する小さな石ころ程度になると思うよ」
邪魔になったら蹴ってみればいい。踏んでみてもいい。石ころなら、怖くないでしょう? でも石ころにするためには、僕には君が、君には僕が、隣にいなきゃあいけないの。
潤んだ瞳を俺から一切逸らすことなく伝えられたその言葉に、俺はゆっくりと大きく頷いた。
「……そうだな。二人でいなきゃあね」
たったそれだけの言葉も、今にもこぼれそうな涙のせいで、震えてしまう。ぐすりと鼻を啜る音を誤魔化すように咳払いをすれば、千春はひだまりのような温かい笑みを浮かべた。
「ドレスを着たキレイな花嫁にはなれないし、結婚を祝ってくれる人たちもいない。君と僕との口約束で、今は指輪だって用意できていない。それでも僕と、……僕と、結婚してくれる? 何も残せないままだけれど、お互いの心に、愛情と優しさと幸せくらいは残せるんじゃあないかな」
「……ありがとう。お願いします、」
泣いてるの? と相変わらず可愛らしく笑って、千春が両手を広げた。さっきまで千春の瞳を濡らしていた涙は、頬をきらりと輝かせている。笑いながらもぼろぼろと泣いている千春を見て、たまらなく愛しさがこみ上げた。今までの何倍も、どれほどなのか言葉にできないくらいに。本当に彼に対しての愛情には底がない。
「僕の胸で泣いていいよ」
「そんな細い腕に抱きしめられて小さな胸の中で泣けるかよ」
「……じゃあ君が、僕を包み込んで」
広げられた手は、俺の背中へと回された。仕返しだと言って、背中へと爪を立てた千春がくすりと笑う。それなら俺もまた、と首筋に歯を当てれば千春は、少し怒った声をあげて俺を叩いた。冗談だと笑い返して、鎖骨を吸い小さく赤い花を咲かせる。そこなら一つじゃあなくていいんだよ、と甘えた声でそう言われたから、調子に乗って噛み跡を付けた。
俺の胸に頬を寄せて静かに目を閉じたまま、千春は穏やかな吐息を漏らす。俺はそんな彼の髪に指を絡めて遊びながら、「こうしているだけでいいの?」と、そう尋ねてみた。
尋ねたところで、いいはずがないのだけれど。俺にはそんな余裕はこれっぽっちもないのだから。
唇を重ねてみると、千春の目がぱっちりと開かれた。
「隆史は、こうしているだけでいいの? 噛み跡を付けたら満足した?」
「またそんなことを言う」
「したいことを言ってよ。ねぇ、僕をどうしたいの?」
「滅茶苦茶に……、は、しないので、触れたい」
「ふふっ、お馬鹿さん」
俺に寄りかかっていた体を起こし、膝立ちした千春はそのまま腕を首に絡めてきた。そうして耳元で一言、「今日は初夜ですか?」と。
「煽るのやめて。優しくできなくなる」
「すごく大きくなっているね」
「だからさぁ、」
「……いいよ。全力で愛して」
ぽすんと、千春は後ろに倒れ、ベッドへ寝ころんだ。からかうのもいい加減にしろよとそう言おうとしたけれど、見たこともない程に赤く染まった頬やら耳を見ていると言い返そうとしていた言葉はどこかへ消えてしまった。
「お馬鹿さんはどっちだか」
「……うるさい」
「余裕はないけれど、でも、全力で優しく愛するよ」
「……ずっと?」
「ずっと」
左薬指をなぞりながら、明日はお揃いの指輪を見に行こうとそう言うと、千春は恥ずかしさを隠すように小さく「僕の好みに合わせてよ……?」と言って笑った。
END
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