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炎が消えた川に、春翔(はると)は覚悟を持って飛び込んだ。 川の中はとても暗く静かで、どくどくと自分の心臓の音が大きく聞こえてくる。 春翔は震える手を握りしめた。体の内側で、カゲが暴れ出そうとするのを感じたが、気持ちを落ち着かせてどうにか止める。 きっと、次に意識を引きずり下ろされたら、もう自分が表に出る事は出来ないだろうと感じていた。長い間、カゲは春翔の中にいた、体は春翔の物なのに、今は春翔の意識の方が、この体にとって紛い物のような感覚さえする。震える手もその証かもしれない、春翔の体はカゲのものになりつつあるのだろうか。 それならその前に、僕がカゲを止めなくちゃ。 カゲはゼンに手をかけようとしている、カゲの憎悪は深く、誰かがカゲを止めなければ、ゼンはその憎悪を受け入れてしまう。なのに春翔には、ゼン達のような力はない、誰かの助けを待つしかないなら、春翔に出来る事は限られていた。 春翔は、唇を噛みしめる。春翔が体の奥底に閉じ込められていた間、カゲの感情が断片的な記憶と共に見えていた。 あれはどこかの屋敷だろうか、暗い影の中を勢いよく進み、カゲが表へ現れると、黒い翼を持った妖達が次々と血を流し倒れていく。カゲが黒い翼の妖を襲っているのが分かる、それも、カゲ一人だけではない。別の場所からも次々に悲鳴が上がり、恐れ逃げ惑う足音が絶え間なく聞こえてくる。 視点は動き、カゲはとある部屋に入った。真っ直ぐと進む先には、ゆりかごに揺られて眠る赤子がいる。カゲの口元が緩むのが分かる、カゲは小さな黒い翼を生やしたその体を抱き上げた。 次に見えたのは、どこかの深い森の中だ。カゲの前には大勢の仲間達が倒れており、絶望にくれる瞳が、その中で一人佇む少年を見つめる。振り返った少年の姿はカゲの記憶の中で憎悪に焼かれ、少年の長い銀色の髪が靄に隠れていった。 その少年が誰かは春翔には分からないが、カゲはゼンのせいで、ゼンさえ居なければと奥歯を噛みしめる。カゲという妖の一族は、その日、そのほとんどが失われてしまった。カゲはその日から自分の名前を捨て、種族の名前を背負う事にしたという。一族の復讐を果たす為に。 カゲの仲間が失われたのは、カゲ達が黒い翼の妖を傷つけた事と関係があるのだろうか。だとしても春翔には、ゼンがカゲの仲間達の命を奪ったなんて信じられなかった。確かに、ゼンの事を怖いと思った事はある、鈴鳴(すずなり)川で蛇の妖に手をかけようとする姿も見た。それでも、優しいゼンを知っている、ゼンを慕うユキ達がいる、ゼンを信じたかった。 何かの間違いではないかと、春翔は閉じ込められた心の奥底で、何度もカゲに訴えてきたけれど、カゲが春翔の声に耳を傾ける事などない。そして、カゲがゼンに手をかけようとした時、春翔は夢中でカゲの意識を押し退けていた。 必死だった。カゲの仲間を失った悲しみは、春翔には計り知れない。だからといって、ゼンが傷つくのを目の前で黙って見ている訳にいかなかった。ゼンは憧れの人で、好きだと気づいてしまった人で、ユキ達が必要としてる人で、それに、沢山のファンがまだ小説の続きを待っている。 僕が守らなくちゃ。 カゲの憎悪は、自分やゼンに向けられただけで終わらない、その憎悪はゼンを囲む皆にも向けられている。自分と同じ思いをさせようと、ゼンの大事な者を全て奪うつもりだ。今ここでカゲを止めなくては、春翔にとっても大事な人達がいなくなってしまう。そんな事は、耐えられない。 水分を含んで重たい服の上から、両腕でしっかりと自分の体を抱き締める。指の隙間から、しゅるしゅると黒い影が伸び始め、カゲが春翔の体から出ようとするのを押し止めた。 もうやめよう、こんな事しても何にもならないよ、だからお願い。 何度も訴えてきた、訴えるくらいしか春翔には出来なくて、それでも声は届かない。必死に掴んだ体の主導権、春翔に出来る事は、もう一つしか思い浮かばなかった。 体の奥底で、カゲがもがいているのを感じる。 この体は、カゲにとっては入れ物だ。だから、体を傷つけてもカゲに痛みは感じない。けれど、入れ物の蓋を閉じてしまえば、カゲは外には出られない。いくら春翔の中にいたって、水の中で呼吸が出来ないのは、カゲも同じだ。 春翔がカゲの意識を押し退けられたのも、長い年月、カゲが春翔に取り憑いていたせいもあるのかもしれない。先程は、春翔にもカゲの力が使えてしまった、体の内側に、ぴったりとカゲの存在が貼り付いているのを感じる。この体の主導権は今、春翔にある。自分が意識を強く持てば、カゲは自分の中から出られない。 春翔の意識が失われる前に、カゲが心変わりしてくれたら良いが、それで何も変わらなくても、時間稼ぎ位にはなるだろう。時間があればきっと、レイジ達がゼンを守ってくれる、カゲを止めてくれる。 それに、守る対象がいなくなれば、ゼンだって自由に動ける筈。 春翔は、この命が尽きるまで、カゲをこの体に閉じ込める覚悟だった。

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