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そんなある日の事、ゼンがいつもの様にスズナリのいる川を訪ねると、桜千(おうせん)がひらりと現れて困ったように眉を垂れた。 「桜千、どうした」 「それがな…スズナリは今、集会に出向いていて留守にしているんだ」 「神社か」 「あぁ、私もこれから一度城に戻らないとならない」 「なら行ってくるといい、俺は少しここにいる」 「護衛もつけずに置いていけるわけないだろ」 「大丈夫だ、ここで死ぬような事があれば、スズナリや桜千に迷惑がかかる。何がやって来ても追い払うから」 「しかし、お前は今、力を制御されている。何かあった時、相手が小者なら良いが、もし強い力を持つ妖だったらどうする気だ」 「その時は腕輪を壊すだけだ。心配するな桜千、俺は母の故郷である人の世にまで迷惑を掛けたくないんだ、何者にも悟られないよう上手く対処する」 「…普段の力が出せるなら心配はないが…」 「心配症だな、桜千も。もしどうしようもなくなったらスズナリに助けを呼ぶ。お前は定例報告だろ、行った方が良い」 桜千は渋っていたが、ゼンに背中を押され、妖の世へ戻る為、桜の木へと戻っていった。 「…皆、心配しすぎだ」 口ではそう言いながら、その優しさに胸の内が温かくなる。ゼンは一息ついて桜の幹にもたれ掛かった。昼間の河川敷は人も少なく、遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえる。通り過ぎるのは、遠い土手の上を行く人々で、きっと桜の木に凭れるゼンの事など気にも留めないだろう。 この頃は今と違い、スズナリと二人で居る時は、人に見えないよう結界が張ってあるが、スズナリがいない時はそれもなかった。桜千も出掛けてしまい、力が制御されている状態で結界を張るのは一苦労だ。 だが、どうせ何も起こるまい。 「ここは、平和だ」 しかし、その慢心が命取りになってしまう。 ゼンが手元に本を置き、暫しぼんやりと川面を眺めていると、足にトン、と何かが当たった。目を向けるとサッカーボールだった。 「……」 一体どこからと、キョロキョロ辺りを見回していると、「すみません!」と、子供の声が聞こえてきた。声に振り返ると、小学生だろうか少年が手を振りながらこちらに駆けてくる。 少年の向こう、離れた場所にはグラウンドがあり、サッカーや野球をしている少年達の姿を見かけるが、この日はサッカーチームが練習をしていた。誤ってボールを飛ばしてしまったようだ。 随分飛ばしたなと、ゼンは駆けてくる少年にボールを渡そうと立ち上がった。 「ほう、本当に子供に戻ってやがる」 そんな声が突然、ゼンの頭の上から聞こえた。ゾッと背筋が震え、先ずゼンが目を向けたのは、駆けてくる少年だ。 「来るな!」 そう叫ぶも遅く、頭上の声は笑い声を上げ、その場から気配を消してしまう。姿を確認した訳ではないが、ゼンには確信があった。 ゼンは、怒鳴り声に驚いて固まっている少年の元へ素早く駆け寄ると、その腕で少年の体を抱き寄せた。側には空気のように姿を消した妖の気配があり、その気配は少年の首を掴む寸前だった。ゼンは少年を抱き寄せると、流れるように腕を突き出し、広げた手を固く握る。途端に、伸ばした腕からは青い炎が纏わりつくように現れ、それは瞬く間にゼンと少年の体を囲うように輪となり、大きく広がりながら弾け飛んだ。 「こ、これ、な、何、」 「大丈夫だ、俺はお前を傷つけない」 ゼンの声は落ち着いたものだったが、その表情には必死さを感じる。少年は何が起きているのか理解出来ない様子だったが、戸惑いつつもゼンの言葉に頷き、その服にしがみついた。 大きく広がり消えた炎の輪は結界だ。これでこの場所に人間は無意識で近づこうとしなくなるし、ゼン達の姿も見えない筈だ。 それと同時に、結界を作る途中、青い炎が気配でしかなかった妖の体を捕らえており、その姿を映し出していく。透明な体が徐々に色を持ち、妖の姿がはっきりと浮かび上がった。 大きな体を苦しそうに悶えさせているそれは、狼に似た顔を持っており、体は屈強な人型で、長身は二メートルはありそうだ。 「妖狼か…?」 先程姿を見えなくさせていたのは、何か術を使っていたのか、それとも周囲に味方が居るのか。辺りに意識を向けたゼンだが、狼がその巨体を持ち上げた事ではっと視線を戻した。ゼンが腕を大きく払うと、再び青い炎が現れ狼の周囲を取り囲む。動き出そうとすれば炎が身を焼き、狼がいくらその火を消そうともがいてもそれは消える事なく、一定の距離をもって狼の足を止めていた。 「くそ!力が使えないんじゃないのか!」 力を抑える腕輪の存在は、妖の世に広まっているのか。そう考えた時、ふとゼンの頭に嫌な考えが過った。 腕輪は妖狐の城とは別の技術者が開発している、もしかしてこれは、大きな力から妖の民を守る為ではなく、抵抗出来なくさせ、自分を始末する為に作られているのではないかと。 「……」 思わずその腕を下ろしかけた時、少年が不安そうな目で自分を見上げている事に気付き、ゼンは下ろしかけた腕を再び狼へと向けた。 「大丈夫、心配するな」 「…うん」 そうだ、今は自分の事などどうでもいい。今は犠牲を出さず人の子を守りきるのだと、決意を新たにする。 「お前、何者だ、何の為に俺を襲う」 「そ、そんなもん!世の為だ!お前が居たら妖の世で平和に過ごせねぇからな!」 それがこの場を乗り切る口実としても、胸が痛んだ。だがゼンは、その拳を強く握る。狼を取り巻く炎の円が僅かに狭まり、狼は悲鳴を上げた。 「そうか、それは願いが叶わなくて残念だ。ではお前をこのまま城の牢へ入れてやろう。強い鉄の檻ならば、恐ろしい俺の力も防げて安心して眠れるだろうな」 「な!勘弁しろよ!俺はまだアンタの命は取ってねぇだろ!」 「襲った時点で同罪だ。それに人にまで手を出した、そちらの罪の方が重い」 「そ、それは成り行きだ!俺は頼まれただけなんだ!もうアンタには手を出さない!見逃してくれよ!」 「誰に頼まれた、主犯は誰だ」 「そ、それは、」 その時、一陣の風が巻き起こり、ゼンの側を何者かがすり抜けていった。ゼンはとっさに両腕で少年を守るように抱き寄せ、その風に目を向ける。 黒い翼が優雅にはためき、見えた横顔は黒いマスクで覆われていたが、その瞳は鋭くゼンを見据えていた。 「待て!」 一瞬の出来事だった。 風は狼を連れて川の中へと飛び込んでしまった。そのまま追いかける事も出来たが、ゼンは追いかけはしなかった。腕の中には少年が居るし、それにあの黒い翼は天狗のものだ。天狗はカゲによって滅ぼされた、ゼンが知っている生き残りは、レイジ一人。 だけど、世界は広い。ゼンの知らない所で、天狗の生き残りがまだ居たのだと知る。それと同時に、その思いも知った。 天狗の者も、俺を恐れていたのか。 レイジは、ゼンが敵を取ってくれたと言っていた。けれど、天狗が皆同じとは限らない。 味方だった者の顔が浮かび、それらが信じられず崩れていく。呆然とするゼンを現実に引き戻したのは、腕の中の少年だった。

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