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第49話 気まずい一時
“き……気まずい……”
僕は頭を抱えてそっぽを向いた。
それでも視界の中に矢野君が入って来て、
僕をジッと見ている視線を感じる。
緊張で全身の毛穴から脂汗が噴き出てきそうだ。
「なあ、お前、確か…… 長谷川……」
と、予期せず、いきなり話しかけてきたので
頭の中が弾けてしまった。
“ギャーッ、僕? 僕に話しかけてる?”
思わず目が泳いでしまう。
「お前だ、お前、
長谷川って言ったよな?」
僕は垂直に座ると、
矢野君の方をまっすぐとみて
「うん、うん、陽向。
長谷川陽向って言うんだ」
と少し上ずった声で答えた。
矢野君は少し、しかめっ面をして、
「まあ、お前の名前なんでどうでも良いや」
と言ってトイレの方をチラッと見ると、
佐々木君がまだやって来ないのを確認する様にして、
「なあ、オレ達、ずっと前に合コンで知り合ったんだろ?」
と尋ねてきた。
ゲッゲッと思ったけど、
後の祭りだ。
佐々木君が席を外している今、
今更訂正するのも少し怖い。
“記憶をなくしてるんだし、
イエスと言っても何とでもなるか?!”
そう思うと、
「まぁ~ ずっと昔だったから……
そこまで覚えて無いかなぁ~?」
と頭を掻きながら、
矢野君と目を合わせないようにして答えた。
「でもお前、少なからずとも、
記憶無くす前の俺を知ってるんだろ?」
と来たので、
“えっ? そこ?”
と思いがけもしなかった質問に気が動転し始めた。
“一体何が聞きたいの?!”
とこれから飛んで来るであろう質問に緊張して眉をしかめていると、
「俺って記憶をなくす前は、どんな奴だったんだ?」
矢野君がソッポを向きながら気不味そうにして聞いた。
僕は矢野君が尋ねるその質問に少しばかりの愁いを感じた。
「え? 何でそんな事を?」
そう尋ねると、
矢野君はまたトイレの方を除いて、
佐々木君の姿が見えない事を確認すると、
「仁には絶対に言うなよ」
と僕に釘を刺した後、
「俺さ、記憶を無くして以来、
なくす前の友達が今まで1人も会いに来てないんだよ。
少しおかしいと思わないか?
実を言うと、お前が一番最初に会った家族以外の
俺を知ってると言う奴なんだよ。
なあ、俺って記憶を無くす前は友達は1人もいなかったのか?
お前の来た合コンでの俺はどんな奴だったんだ?
俺と一緒に来ていたのは仁以外にどんな奴が居たんだ?」
今までの僕に対する態度とは打って変わってしおらしい。
でも矢野君の目はとても真剣だった。
教えてあげたいのは山々だけど、
僕はあの夏の矢野君しか知らない。
お互いの熱でドロドロに溶けてしまいそうになった
あの日々の矢野君しか知らない……
そして熱の籠った声で僕の耳元で
“陽向”
と囁く矢野君しか知らない。
矢野君のその質問は否応なしに
僕をあの熱かった夏の日々へと引き戻してしまった。
“矢野君、僕の事本当に覚えてないの?
僕の名前を聞いても何も思わないの?
僕の声は?
聞いた事があると思わない?
ねえ、本当に分からないの?“
僕は何も言えずに矢野君の方をじっと見つめた。
ずっと素っ気ない態度をとっていた僕への気不味さから、
矢野君はバツが悪そうにずっとソッポを向いたままだ。
”少しでも僕の方を見てくれたら……“
そう思ったけど、
見つめられても緊張で体が硬直して頭が回らない。
今はこの距離が一番いいのかも知れない。
僕は少し前に来たチーズケーキに手をつけると、
平気な振りをして、
「あのさ、教えてあげたいのは山々なんだけど、
僕もあまり知らないんだ。
家族は何って言ってるの?」
と逆に尋ねた。
でもチーズケーキを食べるフォークを持った手が震えて、
お皿がガチャガチャと音を立てた。
矢野君はそれを横目でチラッと見ると、
何かを考えた様にして
「それがよく分からないんだ」
と答えた。
「それどう言う意味?」
彼の言っている事は意味がよく分からない。
僕の質問に矢野君は、
「教えてくれないんだ」
と一言答えた。
益々訳が分からない。
「教えてくれない?」
そう尋ねると、
「ああ、家族は何も教えてくれない。
記憶をなくす前の交友関係や、
恋人がいたのかさえも……」
そう言われた瞬間
僕は持っていたフォークを勢いよく床に落としてしまった。
フォークは静けさを割って、
ガチャーンと大きな音を立てて、
2、3度バウンスすると、床に着地した。
その瞬間、カフェの皆が一斉に
僕に視線を集めたような気がした。
その感覚が一段と僕を緊張の中へと誘った。
「ご…… ごめん……
ちょっと手が滑っちゃって……」
そう言うと、震える手でフォークを拾った。
でも何と言っていいか分からない。
僕はその場を逃げ出したかった。
矢野君の恋人……
僕にとって、
一番に矢野君に思い出して貰いたかった事……
「おい? 陽向?」
やっとの事で矢野君が僕の名を呼んでいる事に気付いた。
「おい! どうしたんだ? 急に黙り込んで」
「あ…… ごめん……
ちょっとトリップしてて……」
矢野君は変な顔をしていたけど、
「それで矢野君はどう思ってるの?
友達や……
恋人は居たと思ってるの?」
僕はドキドキして尋ねた。
「分からない……
何も思い出せないんだ」
「何も? 全く?」
そう尋ねると、
彼は頷いて、
「友達は分からないけど、
恋人はいた様な気がする」
と言った瞬間、大きな杭が胸に刺さった様に僕の胸が痛んだ。
「恋人は居たと思うんだ……」
「ああ、絶対とは言い切れないが、
絶対に近い確率で居たと思う。
でも、これまで俺に一度も会いに来てくれなかった……
そこが分からないんだ……
何故だろうと考えていて……
もしかしたら俺は本当は愛されてなかったのかも知れない」
そう言って矢野君が頭を抱えてテーブルにうつ伏せた。
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