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新入社員
発情期が無事に過ぎて、安心したのも束の間。
係長から「また、新しい人が入るから」と伝達を受けた円は、「またか」とため息をついた。
勤務先の中堅医療機器メーカーは円の自宅から駅2つ離れた場所にあり、社員数は約100名。
円は品質管理課の在庫係に所属していて、データ入力、搬入、搬出が主な仕事だった。
日によっては一日中倉庫内にいることもあり、力仕事も多い。
会社規模に対して人手は少なく、軽井沢のような従業員も多いから、人の出入りが激しいのが常だった。
「大木知成 です!今日から、よろしくお願いします!」
新しく配属されてきた若手が、大きな声で元気よく挨拶した。
短く刈られた黒い髪といい、浅黒い肌といい、いかにもスポーツマンといったタイプだ。
背が高くてがっしりしていて、ワイシャツ越しでも胸板の厚さがわかる。
「おっきいわねえ、身長いくつ?」
大木より頭2つ分背の低い知智さんは、驚いた顔をしている。
「185センチです!」
「何かスポーツやってたのお?」
ケミーちゃんはあからさまに興味津々といった様子で、大木に歩み寄ってきた。
「高校ではバスケ部でした!」
ケミーちゃんの好意になどまるで気づいていない様子で、大木が答える。
「あ、やっぱり?バスケかバレーやってると思った!」
「イケメンよねえ」
「まだ22歳ですって!」
知智さんとケミーちゃん含める複数の女性たちが、大木を見るなりキャッキャッと騒ぎ出した。
無理もないことだ。
元気で明るい振る舞いもさることながら、なかなか整った顔つきをしている。
黒目がちの大きな瞳、太く平行な眉、高い鼻、大きくて形の良い口。
俳優でもここまで整っているのは珍しいかもしれない。
──モテるだろうなあ。
女の子とトラブル起こさなきゃいいけど……
円は半年前、女性関係が原因で辞めていった若い男性社員を思い出した。
2股騒ぎを起こしてトラブルとなり、女同士で社内で揉み合いになるまでに発展し、その後処理が本当に大変だった。
「ねえ、悪いけどトミーくんが仕事教えてくれる?一応は俺が教育係なんだけど、俺、別件が大変だし…女性陣だと教育にならないと思うし。」
小市さんが円に頼んできた。
──ああ、これは押しつけてきやがった
な
小市さんのこういうところにウンザリするが、先輩命令だし、何より小市さんは指導が上手とは言えない。
新人の間違いを指摘すると「小市さんがこうしろって言いました」と返ってきたのも、一度や二度ではなかった。
「トミーくん?」
大木が首をかしげる。
「彼、富永 さん。わからないことあったら、彼に聞いてね。トミーくん、すっごく仕事できるし」
「はい!富永さん、よろしくお願いします!!」
大木が大柄な体を折り曲げるようにして、お辞儀をしてきた。
「うん、よろしくね。じゃ、こっち来て」
「はい!」
「在庫係って力仕事が多いんだ。女の人は重い荷物持つの大変だから、なるだけ手伝ってね。」
「わかりました!俺、力だけは自信ありますんで!どんどんやっていきます!!」
大木は甘えん坊の大型犬のように人懐こい様子で円の後をついていき、円の教えに対して逐一、「はい!」「わかりました!」と元気よく返事をした。
「富永さん、下の名前はなんていうんですか?」
そして、仕事の説明が終わると、円にあれこれ聞いてきた。
他人と話すのが好きなのだろう。
円はどちらかといえば、こういうタイプの人間が苦手だった。
「円」
大木の顔も見ないで、そっけなく答えた。
160センチ50キロの小柄な体で、いちいち大木と顔を合わせて話していたら首を痛めてしまいそうだ。
「富永円さんって名前、何か縁起がいいカンジしますね」
「そう?」
「ええ、名字も縁起いいし、円さんって名前もおめでたいカンジしますよね。ほら、円満とか、大団円とかいうでしょ?円って漢字には「欠けたところが無い」とか「満ちている」とかそういう意味あるんです」
「そう」
円は最低限の返事しかしないのに、大木は延々と話しかけてきた。
そんなだから、昼休みが来るまでに円はそこそこ体力を消耗した。
「大木くん、食堂こっちだよ」
ケミーちゃんが大木を食堂まで案内して、隣の席に座るように促した。
昼食はいつも知智さんとケミーちゃんと3人で摂っているが、今回は大木が混ざったことで他の女性社員まで寄ってきた。
別の部署の人までいる。
みんな、若くてイケメンな新入りが気になって仕方ないのだろう。
もっとも、それは円には好都合なことだった。
「彼女いるの?」
「結婚は考えてるの?」
「どこに住んでるの?」
「好きなタイプは?」
女性社員が大木を取り囲むようにして座り、矢継ぎ早にアレコレ聞いてくる。
離れた席に座っていれば、そのスキにゆっくり食事ができる、と円は安心しきっていた。
しかし、持ってきた弁当を食べようとしてマスクを取ると、穴が空くのではないかというほどに、大木がこちらをじっと見つめてきた。
「ねえ、ボクの顔に何かついてる?」
少しの侮蔑を含んだ目で、大木を睨んだ。
頼むから、自分なんか見ずに女性社員との会話に集中して欲しかった。
「いえ…その、キレイな顔されてるなーって。その、なんでマスクしてるんですか?」
大木が照れくさそうな顔をした。
「ホントホント、トミーくんったら年中マスクしてるのよ。夏でもつけっぱなしなの。」
知智さんが話し出すと、他の女性社員の何人かが、自分も自分もと言わんばかりに話に割って入ってくる。
彼女たちが話を脱線させてくれたおかげで、円はゆっくり食事にありつくことができた。
「なんでマスクしてるの?」と何度聞かれたことだろう。
本当に面倒くさい。
それならマスクを取ってしまえば済むことだが、顔に水滴が飛ぶのは、やっぱり耐えられない。
雨が降ったときや汁物を食べたとき、顔にピッと水滴が飛ぶと、反射的にあの光景が頭に浮かんでくる。
カーペットの上に転がった死体、その下に広がる真っ赤な血だまり、すでに死んでいる相手に向かって恨み言をこぼし続ける女……
幼い円は、それを放心状態のまま見つめていた。
大木が入社してきて3ヶ月が経った。
「あの子、きっと長続きするわね。」
少し離れた場所で、在庫確認表にチェックを入れている大木を見つめながら、知智さんは嬉しそう耳打ちしてきた。
「そうですね。」
この3ヶ月間、大木はその人好きする態度と熱心な仕事ぶりで、早くも周囲に打ち解けていった。
「誰かさんとは大違いね。」
知智さんがジロリと軽井沢の方を見た。
それに対する小さな仕返しのつもりなのか、軽井沢も一瞬こちらを見た。
そして、こちらを見た後は知智さんの言うことなど何でもないとばかりにそっぽを向き、ノロノロと気だるげな手つきで搬入作業を続けた。
「まあ、ボクが2年半かけてやったことを3ヶ月でやってますよね、大木くん。」
軽井沢から話題を逸らしたかった円は、知智さんに同調するようにして大木を褒めそやした。
もっとも、これはとっさに思いついたお為ごかしなどではなく、本心だ。
嘘偽りのない、円から見た大木の評価だ。
「やだー、トミーくんだって十分に優秀よ。」
知智さんがくすくす笑って、円の頼りない肩をポンと叩いてきた。
──知智さんはそう言うけど、大木くん、長続きどころかボクを追い抜かして出世しそう。
わずかな敗北感を噛み締めつつ、円は搬出作業を続けた。
商品の納期が近いのに、全然片付いていない案件が山ほどある。
だから今日も残業だ。
結局、この日は2時間くらい残業することになり、帰りがうんと遅くなった。
それでも、明日は仕事が休みだからゆっくり眠れるし、何ら問題はない。
──作り置きがあるから今日はそれを食べて…
あ、10時から見たい番組あるんだった。
それ見たらお風呂入って、ネット動画とか見ながら遅くまで起きて過ごそう。
会社から駅までの道をひとり歩きながら、円は頭の中で今夜の予定を練っていた。
歩いていくうち、首のスカーフが緩んで拘束具が見えそうになったので、あわてて巻き直すと、体に異変が起きた。
全身が沸騰したように熱くなってきて、下半身がじくじく疼き始める。
疼きが強すぎて立ってもいられず、その場にうずくまった。
──しまった、発情期が来た!
3ヶ月に1回、必ずやってくるこの厄介者とは、もう10年以上付き合ってきた。
だから、発情期がやってくる周期はもちろん、時間帯もある程度は把握していた。
しかし、今回は予想より1日早く来てしまった。
オメガの発情期は女性の月経と同様、日がずれることもあるのだ。
迂闊だったと自省しつつ、円はバッグの中をゴソゴソ探って抑制剤を出そうとした。
水は無いが、口内に唾液を溜め込んでしまえば、錠剤を飲み込むことはできる。
しかし、体にうまく力が入らないせいで、薬を取り出すことすら今は難しい。
こういうとき、つくづく自分の性を忌々しく感じてしまう。
「あの、富永さんですよね?大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
大木だ。
──どうしてこんなタイミングでこんなところに?
先に帰ったはずなのに。
と思ったが、この辺りはカフェや居酒屋なんかがたくさんあるし、そこに寄り道していても不思議ではない。
おそらく、寄り道してから帰る途中で様子のおかしい先輩を見かけて、気になって近づいてきたのだろう。
「く、くすり、だして…」
円は力を振り絞り、バッグを大木に差し出した。
自分がオメガだとバレる危険性はあるが、今はそんなこと言っていられない。
このままでいたら、フェロモンで暴走した知らないアルファに嗅ぎつかれて、同意なく番にされるかもしれない。
拘束具はしているが、無理矢理はずされるなんてことも考えられる。
「お、おきくん……早く…」
息が荒くなって、言葉も上手く紡げない。
下腹部がジンジン熱くなってきて、自分の意思とは無関係に脚がもじもじと動く。
──はやく、はやく薬を出して!
そう訴えようと口を開いた瞬間、大木がスカーフを引きちぎり、うなじに噛みついてきた。
「え、お…おおきくん?」
一瞬、何が起きたのかわからず、円は体を硬直させた。
ガリガリガリガリ、拘束具の鉄芯に歯が当たる音が響く。
その音を聞いて初めて、自分が何をされたのか気づいた。
大木が自分のうなじを噛もうとしている。
たとえフェロモンにあてられても、ベータはこんなことはしない。
──大木はアルファだったのか!
円は氷水を浴びせられたような感覚と同時に、ドッと汗が吹き出るのを感じた。
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