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第2話 酒と泪と弟と親友

  駅前通りを10分ほど歩いた所にある居酒屋のカウンターで、俺と隆之は数カ月ぶりに酒を酌み交わした。 俺の一週間の悪夢を、隆之は同情と可笑しさが入り混じったような複雑な表情で聞いていた。 確かに他人から見れば滑稽な話だ。 オカマの弟に彼女を追い払われ、会社では誤解され、ボロボロになったなんて情けなさ過ぎる。 笑いたけりゃ笑え、とやけっぱちになって言うと、まあまあ、とたしなめながら隆之は俺の御猪口に酒を注いだ。 「かわいそーに、お前も大変だったよな。疲れただろ、この一週間。まず飲んで鬱憤晴せや。」 ゴツゴツとした大きな手で、頭をよしよし、と撫でられる。 ツンと胸の奥に甘酸っぱい気持ちが生まれる。 自分が小さな子供に帰ったようだ。 同い年なのに隆之は器が大きいとでも言うのだろうか、安心してよりかかれるような懐の深さを持っている。 両親を亡くして以来、俺は人に弱みを見せまいと、必死で虚勢を張り、肩に力を入れたまま生きてきた。 そんな俺が唯一甘えられる相手が隆之だ。 おそらく裕樹も俺と似たような気持ちを隆之に抱いていたのだろう。 グレた裕樹が唯一心を開いて懐いていたのが隆之だ。 ちょっぴり不良っぽくて、だけど侠気があって正義感溢れる隆之は、裕樹の憧れだった。 隆之は忙しくて余裕のない俺の分まで、裕樹を自分の弟のように可愛がってくれた。 裕樹が性転換して家を出てからも、様子を見ては俺に連絡をくれていたのも隆之だった。 隆之は御猪口をくーっと呷ると、カウンターのオヤジに同じ酒をもう一本頼んだ。 「おやじさん、これ、うまいねえ。どこの酒?」 「ああ、お客さん味が分かるのかい、良い酒だろう。新潟の酒屋から特別なルートでうちに入れてるんだよ。実はメニューに載せてないけどもう一つうまいのがあるから、それも飲んでみるかい?こっちは秋田のだけど。」 「あ、うれしいねえ。ついでにつまみも追加ね。カラスミに揚げだし豆腐。おい、洋介、お前はなに食う?」 「う〜ん、お新香。」 隆之はちっとも気取ってないのに、動作の一つ一つが様になる。 そして何気ない一言にも気配りや思いやりがこもっていて、人の心を掴んでしまう。 すっきりとした喉越しの酒に、俺はついつい手を伸ばし、少し飲み過ぎてしまったようだ。 俺は麻痺しかかった理性で、徳利を俺の御猪口に傾けようとする隆之を制した。 「俺はそろそろ止めとく。明日も仕事に行かなきゃなんないしー。」 「何言ってるんだよ、休みだろ明日は。ダメだ、そんな毎朝6時に家出て終電まで仕事して、休みもとらないなんて。 」 「ん〜、でも遅れを取り戻さないと〜。」 「身体壊すぞ。とにかく明日は休め。疲れたままじゃ能率だって悪い。どうしても休日出勤するなら、せめて明日だけは休んで日曜にやれよ。」 「うん…」 これが会社の上司だったら、『いや、自分で蒔いた種ですから』と意地でも出勤する所だが、隆之の前では俺は小さな子供のように素直に頷くばかりだ。 隆之は、知識とか蘊蓄とかとは無縁の所で、直感的に真理を見抜く目を持っている。 たぶん隆之の言うことは正しいのだ。 俺は隆之に注がれた酒をくーっと呷った。 「お前はさー、仕事、どうなのよー?」 「ああ、ま、それなりにハードだけど、お前のとこみたいにうざってー人間関係はないよな。」 隆之は長距離トラックのドライバーだ。 いつも忙しくどこか地方に飛ばされている。 子供の頃はあれだけいつも一緒に遊んでいたのに、今じゃこんなふうに休みが重なることも滅多にないので、数カ月に一度くらいしか会えなくなってしまった。 「辛いこととかないのかー?なんか俺が相談に乗ってやれるようなこととかさー。」 あれ、どうも変だ。 耳が遠くなったような、舌がもつれるような、ふわふわした感覚が押し寄せる。 「お前、あれっぽっちしか飲んでないのにもう酔ったのか?」 隆之に比べれば蟒蛇だって下戸だろう。 とはいえ、情けないことに俺は御猪口2杯程度でも真っ赤になってしまうのだ。 「相変わらず弱いなあ。」 大きな手で頭を撫でられる。 その心地よさにぼーっとしながら、俺は呂律の回らなくなった口調でなおも食い下がった。 「なーあ、なんか困ったこととかー、俺が力になれるようなこととかー、なんかないのかよー。」 本当は人のことに構っていられる場合などではないのだが、俺は無性に隆之の役に立ちたくなった。 隆之は、いつもならきりっと切れ上がった眦を困ったように下げ、笑顔を浮かべながら『そうだなー』と首をかしげる。 「ずっと長時間座りっぱなしだろ。だから腰にきちゃっててさ。座骨神経痛気味ってとこ?それ以外は問題ない。好きなだけ車とばせるし、色んな所行けるし。そもそも俺みたいな人間を働かせてくれる所があるだけでもありがたいってもんよ。」 隆之は前科持ちだ。 数年前に傷害事件を起こして服役していた過去がある。 隆之は理由もなく人を傷つけたり、そもそも下らない連中に逆上するような人間ではない。 彼がなぜあんなことをしたのか俺には理解できなかった。 だが、人にはそれぞれの事情があるのだろう、硬く口を閉ざす隆之に俺は詰め寄ることができなかった。 一瞬流れた気まずい空気を振払おうと、俺は勢い良く立ち上がった。 「よし、お前の腰をこの俺がなんとかしてやろーお!!一晩中腕によりをかけてじっくり揉み解してやるからなー。おやじー、勘定だー。釣りはいらねえぜー。」 ばん、と万札をカウンターに叩き付ける。 「あのー、お客さん、足りませんけど。」 「なんだと?!」 よくよく見ると俺が出したのは千円札だった。 「うそだろ…」 昨日までは少なくとも3万円は入っていたはずの財布が、千円札1枚に減ってるなんてどういうマジックだ? 『洋介ー、俺、今月ピンチだから金貸して。』 そう言えば今朝方、俺がまだ半分夢の中にいる時に、裕樹の声が聞こえたような… 「ゆうき〜、あのやろお〜」 呪詛の言葉を吐く俺に、くっくっと肩を震わせて笑いながら、隆之がポケットから無造作に金を取り出した。 俺は自分のかっこわるさを忘れ、その仕種に見蕩れていた。  六畳一間の隆之のアパートは、実に質素でほとんど何も置いていない。 「たまに寝に帰るだけの部屋だからな。」 長距離トラックで地方に行っては、狭苦しいカプセルホテルやサウナに寝泊まりする。 自分の布団で寝るなんて、月に数えるほどしかないらしい。 「大変だなー。お前の方が全然休まず働き詰めじゃん〜。」 「俺はいいんだよ、体力あるから。それよりスーツ皺になるぜ。着替えろよ、着るもん貸してやるから。」 差し出されたスエットの上下を身につけながら、隆之の着替える様子を何気なく見守る。 きれいに日焼けした肌、肉体労働でついたのであろう、盛り上がった肩や腕の筋肉。 くっきり浮かび上がった肩甲骨、まっすぐ伸びた背骨の下にぎゅっと引き締まった腰。 そうだ、腰!!飲み屋での約束が甦る。 「マッサージ!!腰をマッサージしてやる約束だったよなー。ほら、隆之、横になって。」 まだ着替えている途中の隆之を無理矢理布団に引っ張る。 「おいおい、マッサージは明日でいいから、まずお前寝ろよ。」 「いやだ〜、マッサージする!!ほらほら、お客さん、俯せに寝てくださ〜い。」 やれやれ、という顔つきで隆之はランニングにトランクスのまま仕方なさそうに俺の言う通りにする。 俺は隆之の背中に跨がると、衝動的に隆之の美しい僧帽筋を撫でた。 びく、と組み敷いた隆之の身体が硬くなる。 「なんかさ〜、オイルとかあればいいのにな〜。」 「え゛っっ」 隆之がものすごい勢いで振り返り、俺はバランスを崩して落ちそうになった。 よろけると酔いが更に回り、くらくらする。 何だ、この過剰な反応は?変なやつ。 「前にさ〜、出張で北海道のホテルに泊まった時、ラベンダーのアロマオイルで足ツボマッサージしてもらったことあるんだよ。すげ〜気持ち良くってさ〜。腰にも絶対効くと思うんだけどな〜。」 「…うちにャそんなシャレたものはない。」 「しょうがないなあ。なんか代わりになりそーなもん、ないの〜?」 「…な、ないわけじゃないけど、ないっ。」 どっちなんだよ、はっきりしないやつ。 珍しく隆之も酒に酔ったのかもしれない、妙に顔が赤いし、こんなもぞもぞした態度を取るなんてらしくない。 ちょっと面白い。 俺は隆之の背中から腰にかけて、掌に少しずつ体重をかけて押したりさすったりしながら、囁きかけた。 「隆之、気持ちいい?痛いところはございませんか〜♪」 「ああっ、すごくいい、もう腰は治ったからやめていいっ」 「そうか?飲み過ぎて酔いがまわってるんじゃないか〜?すごい真っ赤になってる。」 すっきりと刈り上げられた髪から覗く、紅潮した耳朶が妙に可愛くみえて、甘噛みした。 唇から火傷しそうな熱さが伝わる。 隆之の身体は微かに震えていた。 「風邪でもひいたのかも。身体がすごく火照ってるみたいだし、寒気する?」 耳もとに囁きかけると、背中から俺を振り落とすように、隆之がガバリと身を起こした。 「そうじゃねえよ、ばか!お前、何考えてるんだよ、誘ってるつもりか?!それとも自棄になってるのか?」 「え?」 いつの間にか隆之のトランクスの前は、窮屈そうにテントを張っていた。 「お前が変なふうに背中撫で回したり耳舐めたりするから…」 「ゴメン…。そんなに溜まってたんだ…。」 隆之は深くため息をついてぐったりしたように頭を手の中に埋め、自分の髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。 「…お前はどうなんだ?」 「え?」 「突然彼女がいない状態になって、ムラムラきたりしないのか?」 「そんな元気、ないよ。」 ふいに喉の奥がきゅっと熱くなって痛みが広がり、目からは涙がぽろぽろと零れ落ちた。 変だ、俺。なんで泣いているんだろう。 よく考えると俺は、自分が振られたと言うのにそのことを実感する暇などほとんどなかった。 職場では他人の中傷に耳を塞ぐように仕事に没頭するのが精一杯で、家に帰れば裕樹と喧嘩するか寝ているか。 「そんなに好きだったのか、彼女のこと。」 隆之の言葉を反復しながら自分に問いかける。 俺はリカをどのくらい好きだったのだろう? 「さあ、今となってはよく分からないな。でも、結婚したいって言われた時はすごくうれしかった。俺にも家族ができるんだなって。」 隆之はがさついた大きな手で、俺の涙を拭った。 「ほら、俺の親って呆気無く死んじゃっただろ。弟はぐれちゃうし。親友のお前はある日突然遠い所に行っちゃうし。裕樹の奴、ようやく真面目になったと思ったら今度はオカマになって家は出ていくし。やっと戻ってきてくれたと思ったらこのザマだ。」 「寂しかったのか?」 大きな手が頭を撫でる。 「…うん。」 隆之は枕許に置いてあったティッシュを2、3枚取ると、鼻を啜ってる俺に差し出した。 「ほら、使えよ。」 「え、でも隆之が使った方がいいんじゃないか?」 股間を窮屈そうに膨らませたまま、手にしたティッシュを俺に寄越そうとする姿は、なんとなく笑いを誘う。 「いいなあ、元気で。」 思わずぽろりと言ってしまう。 「俺さ、彼女に対してどういうわけかいつも淡白になっちゃうっつーか、自分の下半身に自信なくてさ。実はセックスレスだったんだ。たぶんそういう不満もあって、裕樹に二股かけてるなんて言われたから、俺のこと信じられなくなったんだと思う。」 「元気出せよ。」 隆之の顔にニヤっと笑みが浮かぶ。 「なんなら俺が元気にしてやろうか?」 え? 「ほらほら、お客さん、仰向けに寝てくださ〜い。」 さっきの俺の台詞をそのまま引き受け、隆之が俺を布団の上に押し倒す。 あれよあれよと言う間に俺の下半身は剥かれ、俺の一物は隆之の大きな手に包まれていた(情けないことに、俺のは隆之の片手にすっぽり収まってしまうほど小さく縮こまっていた)。 「あ、んんっ」 掌の温もりと緩やかなリズムに、息が上がっていく。 根元から先へと繰り返ししごき上げ、尖端の敏感な部分を親指で弄られると、脳天まで痺れが走り、体中がびくびくと震えた。 ははしたない喘ぎ声を上げながら、隆之の手の中で絶頂を迎えた。

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