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第3話

職員棟四階の一番奥にある数学準備室。 デスクがが向かいあわせで四つほど置かれた小さなこの部屋は、どうやら今は木崎がほとんど独占状態で使っているらしい。職員室にも各教員の机があるため、他の数学担当者はわざわざ四階まで上がってこないのだそうだ。 だからといって職員室同様、整理整頓皆無で乱雑に使用していいわけではないと思うのだが。 とにかくここなら邪魔は入らないだろうということで、さらに念の為内鍵をかけてからこうして木崎と膝を突合せている。 ちなみに、準備室で忘れ去られ埃を被っていた制服を発見して一悶着あったことは、もう話す気力もない。 とりあえず制服を着替え、落ち着けと差し出されたホットコーヒーを一口。 遠くで一限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いていた。 「で、だ。櫻井。幼馴染様から色々聞かされてるが、お前あのsikiなんだな?」 「多分そのsikiで間違いない。」 sikiというのは俺が音楽活動をする際に使ってる名前だ。 親父の古い友人でもあるレコード会社の社長から誘われたのは、俺が中学に上がった頃の事だ。 人前に出なくてもいい。作りたい曲を作ればいい。自分の作った曲を世の人間がどう評価するのか知りたくないか。 大昔の人間が作った曲を弾くよりも、自分で一から曲を書くことに熱中していた俺はその言葉に首を縦に振っていた。 そうして始めた活動は、今では有難いことに一定の評価を貰ってsikiの名前はそこそこ世に知られている。 「あれだろ、シャンプーのCMのやつ。」 「あー、一番新しいのはそれかな。」 好きな曲を作ってみたり、最近では依頼を受けてイメージに合う曲を作ったり。 父親の存在を表に出せばもっと簡単に売り込めるだろうに、匿名でやらせてくれてる会社には感謝しかない。 お陰様で、世間ではsikiは正体不明の音楽家で通っている。 「お前がねぇ。」 「まぁな。でも親の事含め、できる限り周りに知られたくない。」 前の学校ではsikiの事は気づかれはしなかったが、親の事は見事にバレた。 周りは遠巻きにするか媚びを売るかの二つに分かれ、正直うんざりしていたタイミングでもあったからこそ、幼なじみのうちに来ればいいじゃんの一言にのったのだ。また面倒な事になるのは本気で勘弁してほしい。 数週間前までのことを思い出して無意識に重いため息が漏れた。 「ま、俺なんかには分からん苦労もあるんだろうな。心配せんでも、この学校でお前の事を知ってる教員は俺だけだし、あと二年くらいなんとかなんだろ。」 「…………は?」 いま、普通に爆弾発言しなかったか? 自分の耳を疑って思わず木崎の顔を凝視したが、当の本人は素知らぬ顔でコーヒーを啜っている。 「いや、それ大丈夫か?」 「ん?別に問題ないだろ。数学に関しては補講とかでフォローしてやっから、仕事だなんだがある時は予め声かけろ。」 「ありがたい、けど……それでいいのか?」 誰にも口外していないのはさすがにまずいんじゃないか?何かあったらどう責任取るつもりだ? けれど、木崎は俺の不安を鼻で笑い飛ばした。 「べつにいいんじゃねぇの?生徒の家庭の事情なんてそもそも教員内でペラペラ話したりしないしな。」 プライバシーとかそういう次元ではない気もするが、担任がそう言うならいいんだろう。 ……変なやつ。 木崎はマグカップのコーヒーを飲み干し、深いため息をついた。 「ま、感謝なら転入手続きやら、俺を脅してお前を俺のクラスに入れる手筈までぬかりなく整えやがった幼なじみ様に言え。」 「あー……それは、ご愁傷さま。」 ニヤリと笑う幼なじみの姿が容易に想像できて、俺はその当時を思い返しているのであろう木崎とほとんど同時に苦笑いをうかべた。

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