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【第1部 竜の爪を磨く】6.笑う葦の原

「べつの世界の生まれ変わり? エシュは面白いことを考えるな」  シャナンが笑う。ラースの茎を指先でくるくる回している。ラースは川筋に生える多年草で、太い茎は枯れると固くなるが、若く青い茎は齧ると酸っぱくて甘い液体が飛び出す。辺境の子供にとっては口寂しいときのオヤツがわりだ。しかしシャナンはそろそろ子供と呼ばれなくなる。あと少しで十六歳になるからだ。十六になると俺やタキと一緒に竜の世話をしなくてもいいし、大人の部隊で飛べるようになる。  風が吹き抜けてラースの茎がざわざわと鳴る。音が前世の記憶を呼び起こし、俺はビルのあいだの雑踏、狭い空間に反響する笑い声や話し声を連想する。 「仮にそうだとしたら、エシュはどんな世界にいたと思う?」  タキが聞く。俺より一歳年上――といっても、谷では一年のはじまりが来れば一歳と数えるので(いわゆる数え年だ)実際はそんなに離れていないが、ここ最近急に背が伸びた。タキと俺はいつも一緒にいる。彼はシャナンとちがい、俺の話したことを馬鹿げた思いつきとして片付けはしない。もっとも信じてもいない。 「どんな世界って――」  俺は口ごもる。どう説明すればいいのか見当もつかなかった。転生前の記憶がもたらす語彙はタキやシャナンには通じない。うっかりたずねなければよかったと後悔する。生まれる前はべつの世界で生きていて、一度死んで生まれ変わった、そんなことがあると思うか、などと。  この世界には『転生』という観念そのものがないのだ。谷では、死んだ人間は巨大な竜の翼によって世界の果てへ行くと信じられている。その竜は支配の〈法〉や〈地図〉をもたらした神と同等の存在だった。  ところが聞くところによると、帝国では谷の人間が信じる竜は悪の象徴となっているらしい。神の導きにより人間が竜を征服したというのだ。もちろん支配の法と地図をもたらした神は谷でも崇められているが、竜もまた信仰されている。そしてそんな俺たちが暮らす辺境に、帝国はいま軍隊を送りこんでいる。 「そんなことがあるとしても、つまり『神のわざ』さ」  シャナンがそういったのは俺への助け舟だったのかもしれないし、話を打ち切りたかっただけかもしれない。彼はもうすぐ大人の部隊の仲間入りをするから、帝国の動向や防衛作戦について聞きかじったことを披露したいにちがいない。 「神がいなければこの世は人の愚かさで朽ち果てるところだった。〈法〉と〈地図〉をもたらした神は全能だが、俺たちにその意図は計り知れない」  俺はシャナンの言葉をうわの空できく。死んだ俺がいた世界には〈法〉や〈地図〉という観念はない。もし俺があそこへ戻ったとしても説明できるだろうか。 「エシュが変わったことを思いつくのは赤ん坊の時からだ」とタキがいう。 「なあ、エシュは上の学校へ行ってもいいんじゃないか。読み書きだって、シャナンよりうまい」 「俺はこれ以上学校へ行く必要なんかないね。〈法〉を磨いて帝国と戦えればそれでいい。あいつらには絶対に、この土地の竜や鉱脈を支配させないからな」  シャナンが誇らしげにいった。  俺たちの岩山にはあちこちに火焔石と飛雲石の鉱脈が露出している。父たちは竜の背から山肌を観察し、竜の唸りの反響を聴いて鉱脈を発見し、繊細な鉱物を手と〈法〉の技で切りだす。ひとが竜の背に乗るといっても、俺たちの騎乗竜は人間に支配されているわけではなかった。谷の人間は子供のころからさまざまな竜と距離を縮め、友となる存在を探す。すべての子供が自分を背に乗せ、ハーネスをつけさせてくれる竜――翼あるものを見つけ出せるわけではない。  ところが帝国は一方的に鉱物の過剰採掘を禁じ、すべての野生の竜を〈地図〉化するよう通告してきた。谷は従わなかった。帝国も辺境も、信仰するのは同じ神だ。しかし帝国は〈地図〉も〈法〉も誤って使っている、とこの地の人々は信じている。竜を支配するなどありえなかった。  俺だって生まれてからずっとそれを当たり前だと思っていた。だが竜の背中から落ちて以来、前世の記憶が俺の「当たり前」を邪魔するようになっている。たぶん俺が日本人だったせいだ。谷の人間が疑いなく信じる『神』に時々、どうしようもなく違和感を覚える。  とはいえ俺が辺境の谷間で暮らす少年なのに変わりはなかった。一年もたたないうちに前世の記憶と今の世界の記憶はなめらかにつながっていった。『神』が何であれ、ヒトのいる空間や時間を超えた存在が俺をこの世界に連れてきて、俺はいまここにいる。  前世の記憶は夜の夢にあらわれ、おかげで俺はこの世界の人間には届かない知識を思い出した。そのせいか、まわりの人間――父やタキも含む――にはときどき「変わり者」と呼ばれたが、前世とちがって孤独になることはなかった。俺は〈法〉の才能があり、竜をあつかうのもうまかった。このふたつは辺境でもっとも重宝される能力だ。  夜の夢に出てこない事柄がひとつあった。前世の俺が死んだ瞬間、こちらへ転生した瞬間だ。そのとき神が何を告げたのか、俺は思い出せなかった。  前世の記憶と今の現実が違和感なくつながったといっても、ごくまれに、自分自身が「離れる」のを感じた。今の自分ではない自分、外見も年齢もちがう「自分」が驚いたようにこの世界をみている瞬間が起きるのだ。  そんなとき「自分」は透明な薄膜につつまれてこの世界を他人事のようにみつめている。足元がふらつくような、遊離するような恐怖が襲ってくると、俺は世話をしている竜に触れ、そばにいるタキに腕を絡ませた。  帝国の軍隊に追われるように谷の人間は竜とともに山地の奥へ移動した。帝国軍は人をけっして殺さなかったが、問答無用で捕虜にして連行したから、歯が欠けるように人は減った。  タキの母親が消えたあと、俺はタキと夜も一緒にすごすようになり、自然に抱きあって眠るようになった――谷ではよくあることだ。俺より少し先に生まれたタキは俺にくらべていろいろなことが少しだけ早かった。もっとも俺の中にはとっくに大人になった人間の記憶があったから、彼とキスをして、たがいの手で慰めあうようになったときも、驚きはしなかった。  十三歳のとき、父が死んだ。帝国軍の竜に追われ、岩山の裂け目に墜ちたのだ。  そのころ谷の人間は帝国軍に狩られたり、みずから帝国へついたりで、どんどん減っていた。防衛作戦に参加したシャナンはめったに谷へ戻らなくなり、十六歳は何年も先なのに俺は飛雲石の採掘と哨戒飛行をこなすようになっていた。あのときは父が墜ちたという知らせを受けてすぐに急降下したが、間に合わなかった。  遺体の指から指輪を抜いた夜、谷の大人に囲まれたまま俺はずっと混乱していた。しばらく忘れていた「離れる」感じがよみがえり、透明な膜につつまれたように周囲の出来事が遠くなって、ぼうっとしていたのだ。何もかもが現実感をなくし、自分の体も手のひらも声も、自分のものではないような気がして、気分が悪かった。 「エシュ、もう行こう」  気がつくとタキが俺の手を引いていた。いつもふたりで眠る部屋にはいって、ぴったりと扉を閉める。暗闇で彼は俺の頭を撫で、背中を撫でた。骨ばった少年の腕に抱きしめられて俺はやっと息がつけるようになり、心の底から安堵した。タキは俺のひたい、眼尻とキスをした。若い体は勝手に反応し、俺たちはいつの間にか床に転がっていた。  背後から抱きすくめられてタキの股間の熱を感じる。指が服の下に入りこみ、俺の尻をさぐり、そっと押し広げた。俺たちはとっくにその行為がどんなものかを知っていた。実際にやったことはなくても、大人たちが何をしているのか谷の子供にはわかっていた。ここには帝国式の潔癖な道徳はなかった。  ふたりでハッハッと短い息をぶつけあう。布団の上で抱きあい、裸になる。タキはどこかでくすねてきたオブラを俺の中へ入れ、指でほぐす。この体がはじめて知る感覚に、俺の意識を包んでいた透明な膜がざわざわと揺れた。背中に覆いかぶさったタキが俺の中にゆっくり入ってくる。うつ伏せにされ、つながったまま揺すられ、こすられる。  一点を突かれたとたん、心を覆っていた膜がぱちんとはじけた。 「あっ――ふっ、あ、あぅ――」 「エシュ……これで大丈夫だから……大丈夫……」  タキは俺を揺さぶりながら何度もそうささやいた。体のなかの質量は圧倒的で、隠れた場所をこすられるたびに眼の奥に白い火花が散る。タキが荒い息をつき、激しく動いて果て、俺も彼の手の中で達した。ふたりともぐっしょり汗をかいていた。脱ぎ散らかした服でたがいの体をぬぐい、冷える前にひとつの毛布をかぶって、とろとろと眠りに落ちる。  その夜、俺は夢の中ではじめて『神』と出会った。

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