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【第1部 竜の爪を磨く】8.絶対に勝てる賭け
食堂に入ったとたん、周囲のざわめきが一瞬おさまった。俺の左側にいたフィルが怪訝な眼つきでテーブルの方を見回したが、そのうしろにいたシュウはさっさと追い越してカウンターへ向かう。
「なんですか?」
「〈黒〉は目立つんだ」
俺がそう答えたのに、いち早く皿を乗せたトレイを両手に持ったシュウは遠慮のかけらもない声で「エシュのせいさ。高級士官用の食堂へ行けばいいのに」という。
「人のせいにするなよ」
「またまた。団長と副官、あちこちの基地でそろって顔が売れてるの、知らないの?」
「知らん」
〈黒〉のほとんどは次の作戦の前の待機中だった。シュウはシュウで、昨日地図化した竜の解析待ち。俺はこのあと作戦本部のブリーフィングなので、その前に飯をすませようと誘ったのだ。
窓はないが、淡いクリーム色の壁は最近塗りなおされたらしく染みひとつなかった。この基地は規模が小さいので食堂は各軍団の共有である。といっても、構成員が好き勝手な時間に食事をすませるのは〈黒〉ぐらいで、ほかの軍団は食事時間を定め、他とかぶらないようにしていた。今は〈萌黄〉のお食事タイムらしい。下士官連中が俺をじろじろ見ている。きっと〈黒〉を見たことのない兵士なのだろう。規模の大きな軍団にはそういう者もそれなりにいる。
ぶしつけな視線を無視して俺たちは壁際のテーブルにおさまった。俺はフィルが自分のトレイの横に置いた|新聞《ジャーナル》に眼をやる。
「そうそう、シュウ。顔が売れるっていうのはその手のやつに載ることだ」
帝国では軍人をターゲットにしたジャーナルや雑誌が何種類も発行されている。軍人需要だけでなく、一般に販売されているものもある。内容は戦略や兵站といった専門分野に特化した雑誌から娯楽色の強い日刊紙までさまざまだ。軍団の規模が大きい〈青藍〉〈紅〉〈萌黄〉に至っては、それぞれ自前のジャーナルを発行している。
フィルが持ってきたのは帝国一の最大発行部数を誇る『守護者』で、紙面には政治情勢から娯楽小説まで揃っていた。どこの兵営にも置いてあって、前半は手堅い政治や軍事報道、中盤は各軍団に取材した記事が並ぶが、終盤三分の一は軽い読み物や芸能関連、帝都の社交界ゴシップで埋められている。
「軍人ゴシップ欄には〈黄金〉がよく載りますね。週一回のコラムで紹介されるのも」
フィルはトレイの横にジャーナルを広げた。ゴシップ欄に取り上げられるのは皇帝一家や貴族、芸能人や富豪といった連中だけではない。軍の高官の子息や帝都にいる〈黄金〉の連中、それに〈紅〉〈萌黄〉のトップ周辺も頻繁に記者の餌食になる。
「詳しいじゃないか。フィルが『守護者』を読むなんて意外だよ」
シュウが顔もあげずにいった。薄くスライスされた黒パンにバターを塗りつけるのに忙しいようだ。雑穀混じりの黒パンに厚めのバターの層を作ると、その上にハムとチーズをのせ、スプーンですくった金色の液体を垂らす。この地方の特産で、俗に「蜜竜」と呼ばれる竜種の分泌物だ。濃厚な甘みだけでなく、粒胡椒のようにぴりっとした風味がある。
フィルはシュウのうつむいた顔をみつめながら生真面目な声で「子供のころから読んでるんです」と答えた。
「悪い、ただのイメージだ。『戦術情報』とか『月刊騎竜』みたいなのしか読まないと思ってた」
「昨日ここへきた黄金の士官、今日の「栄光あれ、気鋭のひと」に載ってますが」
「へえ?」
シュウは完成したオープンサンドを片手に俺をみた。
「エシュも読んだ?」
「いや」
俺はシチューを掬う手を止めないように努力する。フィルがジャーナルを持ってきたのはこのせいだろう。このあとの作戦で〈黄金〉が俺たちの指揮をとるという情報はすでに伝えてあった。
「ダストデビル、黄金のアーロン。彼が載ってんの?」
「すごい見出しですよ。悪竜の殲滅者として立つ新たなる英雄、だそうです」
「どれどれ」
シュウは手をつきだし、ついで指と手首についた蜜に気づいてあわてて舐め、やっとジャーナルを受け取った。フィルがわずかに眉をひそめているので俺は可笑しくなったが、当人はけろっとした顔で「あ、ごめん。気になる? あとで洗うよ」といっただけで、すばやく紙面に眼を走らせる。
「東で成功した作戦は彼の案らしいですね」
「地図を使う天才ってところだな」シュウはたいして面白くもないといった口調だった。
「地図を作る天才はこっちにいるけどね」
こちらへ顎を向けるので「おだてても何も出ないぜ」と俺はいう。
「しかし僕は地図を知る天才だからな。そう考えるとやっぱりゴシップ欄を黄金の連中にだけまかせておく必要はないよ。皇帝の宮廷だの社交界だのはお断りだけど」
「ああ〈黄金〉クラスになると誰と交際したかまで書かれてしまうみたいです」フィルが社交欄を指さした。「ここにも出てますよ」
「アーロンが? 誰とつきあってんの?」
「行政官ですね。セラン・ジリアン・ラングニュール・サン・バトモス…」
フィルは口ごもり、俺は笑った。
「貴族の名前は長すぎるからな」
「一年前から公認の仲だそうです」
セランは士官学校のころからアーロンのシンパだった。俺の記憶にあるのはほとんど非の打ち所がない美少年の風貌だけだ。同性とはいえヴォルフ家の嫡男との組み合わせはつりあいもとれて妥当だろう。周囲も大喜びだろうし、くそ真面目なアーロンのことだ、一途にセランに尽くしているにちがいない。
この世界では同性のカップルに子供ができないことは問題にならない。さまざまな事情で生家を離れざるをえなくなった幼児をひきとり、自分の後継として最高の教育を与えるのは上流階級のステータスでもある。ルーもそんな背景があったからこそ俺を引き取ったのだ。
「エシュ? どうした?」シュウが怪訝な眼つきで俺をみた。
「いや」
俺はゆっくりシチューをかき混ぜた。フィルが社交欄を閉じ、ジャーナルの一面を上に向けた。紙面の端に帝国の領域図がみえる。何でもない口調を保っていった。
「これからブリーフィングだからな。どんな無理難題が降りかかるか考えていた」
「お手柔らかに頼みたいね」
「まったくだ」
〈辺境〉はあいまいな概念だ。
建国神話によれば、この世界の破壊と混沌の原因である竜クルールを英雄ルゴスが倒したとき、神は支配の〈法〉とその道具である〈地図〉の業を人の手に預けた。ルゴスは帝国の中心部で皇帝に即位し、〈法〉と〈地図〉の能力者を見出し、力の領域を周縁へ拡大した。だが帝国が世界のすべてを地図化したとき、周縁にまたも竜があらわれた。
辺境が帝国の歴史に登場するのはここからだ。ふたたびルゴスが率いた〈地図と法〉の部隊が竜の討伐に向かい、それが現在の帝国軍の礎となった。二回目の竜討伐の結果〈地図化〉された竜たちが、現在の帝国軍の主力をなす竜種だといわれている。帝国の英雄は竜を退治する騎士で、竜を手懐ける騎士でもあるのだ。
数千年前と伝えられる起源伝説や歴史はともかく、俺が実際に知る範囲では、帝国はつねに辺境の民、つまり地方の反帝国主義者と戦ってきた。一度帝国に〈地図化〉された地域も、反帝国化した者に地図を奪取されるとまるごと失われるのだから、戦わざるをえない。
現在では土地に固執し、帝国の正統な管理を無視して破壊的な地図の改変や生成を行う反帝国主義者は悪しき竜にたとえられる。帝国と辺境の対立はシーソーゲームに似ている。
もっとも辺境の勢力が帝都に向けて進軍するような存在になったことは一度もなかった。実際の戦いもチェスの対戦のようなところがある。帝国軍は人や生き物を故意に殺すわけではなく、捕虜にして再教育、あるいは〈再地図化〉し、その戦力を反乱の鎮圧へ投入する。
ただしここ二年ほど、俺は状況に多少の変化を感じていた。帝国軍はあいかわらず圧倒的な物量で反乱を制圧していたが、近頃は都市部にいたわずかな反帝国のアジテーションが辺境の反乱分子と結合し、モザイクを置き換えるように辺境――反帝国の領域を増やしているからだ。そんな新しい反帝国の代表が、反乱分子の間で「虹」と噂される組織だった。
「今回の作戦は虹の本体を暴くことが目的だ。急襲を伴う陽動作戦と撤退、再突入をくりかえして現れるモグラを徹底的に追う」
〈黄金〉の司令部が加わって、ブリーフィングにはこれまでより緊張した雰囲気が漂っている。アーロンは空中に投影された地形図の前で各部隊の動きを説明している。ほとんどの者がアーロンを注視する中で、俺はイヒカの斜めうしろに控えて、投影図に視線を集中していた。アーロンも俺の方を一度も見なかった。ありがたい。今後の作戦でも同じように頼む、と俺は心の中でつぶやく。
説明の進行にあわせて投影図が切り替わる。前世の会議そっくりだが、3Dホログラムのような投影もここでは〈法〉を使って行われている。この世界でテクノロジーの成果にみえるものは、実際は〈法〉の成果なのだ。
アーロンの説明は簡略にして要点を心得たものだった。これまで作戦を主導していた紅の師団長には必ずしも首肯できないところがあったから、俺以外の全員がアーロンが加わったことを喜んでいるかもしれない。俺だって〈黒〉でさえなければ――いや、俺が俺でなければ喜んだだろう。
(彼を殺して英雄になりなさい)
頭の中を声が横切った。
前世の記憶に覚醒してこのかた、俺はこの命令を先回りで拒絶しようと努力してきた。理由は単純だ。殺したくないからだ。たとえ事故のようなものであっても、俺が原因で何者かを――「彼」を死なせるのはごめんだった。
そもそもこの世界でも、人を故意に殺めるのは神が与えた禁忌のひとつだ。だから夢で俺に話しかける「神」を自称する存在が、俺に殺しをけしかけるのは矛盾している。俺は「神」を自称する存在に騙されているだけかもしれなかった。
それにしても、あの執拗な命令を拒むためにアーロンから何度距離を置こうとしても、そのたびに引き合わされるのはどういうことだろう。
この世界で生まれた人間にとって「神」は、超自然的に、しかし確実に存在する何かである。神は人の因果を操れるのだ。この神はしかし、この世界の原初には存在していなかった。神が現われる以前のこの世界――〈地図と法〉をもたらす以前の歴史は、書物の中に残っている。
俺はそれをアーロンに出会ったあとに知った。
それは前世の俺がいた地球に似ていた。前世で「科学」と呼ばれた知識が高度に発達し、人が人と争い、殺し、他の生き物も棲む環境を人の都合で破壊し、あらゆる資源を食らいつくして、破滅に向かっていく歴史に、よく似ていた。
実際に破滅しかけたこの世界に降臨した神が人間に与えた力が〈地図と法〉だ。これは使い方はわかるのに原理が不明な超科学テクノロジーとも受け取れる。未完成でいい加減な魔法はテクノロジーと見分けがつかない——こんな冗談を聞いたのは、いつだっただろうか。
「偽情報をばらまいてモグラをすべておびきだしたら、反乱分子が破壊する前に〈黒〉を投入して調査を行う」
突然アーロンの言葉にざわめきが起きた。師団長クラスにはすでに知られている情報だが〈萌黄〉や〈紅〉の分隊長には伝わっていなかったようだ。
「〈黒〉は〈黄金〉の直接指揮とする。各軍団の作戦部隊とは別行動だ。イヒカ殿、現場の統率は……」
「このエシュだ」イヒカは座ったまま俺を指さした。
「私はコントロールに徹するよ。よろしく、エシュ」
「了解しました」
上官のこんなやり方には慣れている。にもかかわらず今回は急に神経がささくれだった。表面上は冷静に受け答えしながらも俺は苛々し、その理由に気づいてさらにうんざりした。周囲の視線のせいではない。アーロンだけが俺をみなかったからだ。
おまえは馬鹿か、と俺は自分自身にあきれ果てる。一瞬前はあいつがこっちを見なくてよかったと思ったくせに。いいかげんにしろ。ブリーフィングの最中に下らないことを考えるな。俺がくだらない葛藤を続けるあいだも話は続いているのだ。
「奪取された地図は一度〈黄金〉預けとする。調査、修復、再地図化、すべて私の指揮のもとで〈黒〉に一任する」
すると今度は師団長クラスからざわめきが起きた。最初に口を開いたのは〈紅〉の師団長だった。
「アーロン殿。そんな話は聞いていないが」
「私は各軍団の権限に踏みこむつもりはない。これはあくまでも作戦のために必要な対応だ」
「地図師ならこちらにもいる」
〈萌黄〉の師団長が不満そうに言い放った。
辺境制圧で奪った〈地図〉の管理はデリケートな問題だ。たとえ一時預かりであっても〈地図〉を手中にしていることはすなわち力を手にしていることで、〈黄金〉に取られるのは癪に障るだろうし、鬼子も同然の〈黒〉が扱うなどもってのほかというわけだろう。実際、その通りの言葉が〈萌黄〉の口から出た。
「だいたいどうして〈黒〉なんかに……」
「きまってる。うちが地図の扱いに一番長けているからだ」
間髪入れずにイヒカが挑発する。
俺は内心ため息をついた。まったく、うちの団長ときたら……
「みせてあげようか? エシュならこの場で何でもできるよ。修復、深部分析、再地図化。どれがいい? なんなら新種の竜を持ってきてもいい」
「たしかに見せてもらいたいね」
イヒカにさらなる挑発をうけ、いまや〈萌黄〉は完全におかんむりだった。
「こっちの地図師より下手な仕事しかできないなら、預けるなんて不可能だからな」
「だったらさっさと出したまえ」
〈萌黄〉の師団長はイヒカを睨んだが、結局杖を取り出した。指揮棒のような形をした短い杖で、〈地図〉は握りの部分に空間を折りたたむ〈法〉で格納されている。軽いひと振りと共に師団長の手のひらに立方体があらわれる。対角線状に大きなひび割れのある〈地図〉だった。
「アーガマだ」
師団長は地名をいった。
「修復が完了するまで地区ごと凍結処置中だ」
制圧時にミスったのだろう。行政区の管理を担う〈地図〉を破損してしまうとその地区の環境に予想できない影響がある。普通は即座に修復するべきものだが、萌黄の地図師は棚上げにしたようだ。
「エシュ?」
呼ばれて俺は前に出た。貸しですよとイヒカに目くばせすると、彼はわかったとばかりに人差し指を曲げる。
「どうする?」
〈萌黄〉の師団長がいささか困惑した眼つきで俺を見た。
「そのままで」俺は指輪を抜いた。
処置は一瞬――と行きたかったがそれは無理だったし、デモンストレーションの意味もある。三つの輪が組み合わせられた指輪を俺はひとつひとつ開き、みずからの〈法〉を開放した。
割れた〈地図〉を満たす|媒体《メディウム》を埋めながら、浮かんでいる|精髄《エッセンス》を正しい位置に戻していく。修復が進むにつれて〈萌黄〉の手のひらの上で〈地図〉は乳白色の輝きを発する。しまいに生き物のように脈打ちはじめ、〈萌黄〉の手のひらからわずかに浮いたようにみえた。
はい、一丁あがり。デモンストレーションとしては地味すぎたか。
「どうぞ」
師団長は何度かまばたきをした。
「これで終わりか?」
「はい」
クックック、と小さな声が聞こえた。イヒカが笑っているのだ。まったく、我が上司ながら感じが悪い。
「これ以上の異議はないかと思うが」
不意にアーロンの声が響いた。他には誰の言葉も聞こえない。
俺は指輪を元にもどし、また指にはめた。何年も前、アーロンにこの指輪について質問――というか、問いただされたことがある。父の形見の法道具だと俺は答え、手品めいた小技を披露したものだった。俺は指を曲げ、指輪をこすり、顔を上げた。アーロンと眼が合った。
唐突に頭の中に裸の背中がよみがえった。アーロンの背筋、肩の骨のでっぱり。俺の眼の前にあるそれがもぞもぞと動き、ふりむいて、こちらを見る。俺の髪を触り、俺の眼をみつめる。
(エシュの髪、金色の筋が混ざってるな)
(白髪を探してるんならやめろよ)
(いや、たしかに金が混ざってる)
このやろう。どうして今思い出す? 俺は自分自身に悪態をつき、平然とした表情を保とうとする。ブリーフィングの最中に昔の男の裸を思い出すなど、ちゃんちゃらおかしいというべきだろう。
自分が生まれつき淫乱なのはわかっていた。もしかしたら生まれる前からそうだったのかもしれない。誰かと体を重ね、内側を貫かれるだけで、ともするとふわふわと「外」へ流れ出しそうになる俺の精神はこの地上へ繋ぎとめられる。
セックスは俺にとってそんな行為だった。逆にいえば誰でもよかったのだ。アーロンは俺にとって大勢の中のひとりだ。けっして特別な存在じゃない。
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