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番外編SS 薔薇のために

 ルーの屋敷の薔薇園では昔と同じようにハナバチが唸っていた。 「こっちだよ、見せたいものというのは……」  ルーは俺とアーロンの前をすたすたと歩いている。俺たちは帝都に行ったついでに屋敷を訪ねたところだった。使用人が茶菓を用意するのを待っているとき、ルーは突然、最近薔薇園で起きた椿事を教えたいといい、庭に出たのだ。  屋敷の庭園はあいかわらず見事なものだった。頭上のアーチは真っ白の薔薇の花びらに縁どられ、小路の左右の花壇にはピンクや黄色の大輪がひらく。  ルーのあとを追っていると、昔に戻ったような気分になる。前を行くうしろ姿も、初めて彼を見たときからそれほど変わっていない。俺は谷を襲った帝国軍の兵士に捕まってルーのテントに連れていかれたのだが、そこにいたのはやけに優雅な物腰の貴族的な男だった。 「やはり子供か」  たしかルーの第一声はこれだった。俺は返事をしなかった。たしかルーが|矯正施設《キャンプ》に俺を入れるつもりがないとわかるまで、だんまりを貫いていた。この屋敷に最初に足を踏み入れたとき、俺はまだルーを完全に信用していなかった。  薔薇に囲まれた小路の先には小さな泉とあずまやがある――いや、前に来たときはたしかにあった。ところがルーが立ち止まったここには砕けたタイルや崩れたブロックが積み重なっているだけだ。泉は瓦礫に埋もれている。 「ごらん、見事なありさまだろう」  ルーが手を広げ、アーロンと俺は顔を見合わせた。 「何があった? 暴徒に襲われでもしたのか?」 「暴徒? いやいや。暴れたのは人ではなく竜だ」 「間隙からあらわれたんですか?」  俺より先にアーロンがたずね、かがんでタイルの破片を拾った。 「 〈萌黄〉の竜だ」  ルーはあっさり答えた。俺は罪悪感――とまではいかなくとも、そこはかとないうしろめたさを感じながらあたりを見回した。〈地図〉から解放された帝国軍の竜が起こす騒動は近ごろは減ったはずである。よりによってここにあらわれなくても。 「最近は再調教も進んでこの手の事件はとんと聞かなかったが、一種の事故だからな。〈萌黄〉の団長からは丁重な詫び状をもらったし、あずまやは皇帝府が弁償するそうだよ」 「薔薇は大丈夫だったのか?」 「ああ、それが奇跡のようだった。そこの花壇を見てくれ」  ルーは瓦礫で埋まった泉の向こう側にまわった。一段高くなった花壇のタイルに竜の爪痕がくっきり残っている。 「間隙から飛び出した竜はここで踏みとどまったんだ。薔薇の香りを嗅いだみたいにね。なかなか器用じゃないか? 誰かさんとちがって」  さてはルーめ、これを見せたかったのか。 「さすが帝国軍の竜だな。俺より洗練されている」  何とも答えようがないのでそういうと、ルーは人の悪い顔でニヤニヤ笑った。アーロンだけが意味がわからないままぽかんとしている。 「何のことだ?」  俺はしぶしぶ答えた。 「ここに来たばかりのころ、薔薇の木を何本かへし折った。その……花壇に駆けこんで」 「竜のように暴走したわけだ。庭師をかんかんに怒らせて、大変なことになった」 「あの時はそれなりに反省したぜ、ルー。だから休暇のたびに薔薇の世話もした」 「そうだったな」  ただし反省したのはずっとあとになってからだ。というのもあのとき俺は、花壇を乗り越えて逃げ出そうとしたのだから。だが棘が生えた薔薇の枝に邪魔されたあげく、怒り狂った庭師に追いつめられて、ルーの前に連行された。ルーはあずまやのベンチに座り、俺が戻ってくるのを待っていた。そして淡々と、俺を養子にするつもりだと告げた。  あのときのルーの決断が本当にルーひとりだけの決断だったのか、今の俺は気にしないようになっている。たとえ彼の決断が〈神〉に操作されたものだったとしても、この世界にはもう神々はいない。  俺とアーロンがアニマ・ドラコーの胎からもう一度この世界にあらわれたとき、ルーは反帝国と通じていた。いつどんな経緯でそうなったのか、彼はまだ話してくれない。今の政治状況や皇帝府との関係をかんがみて、当分は自分ひとりの胸のうちにしまっておくという。ルーにはまだ、じっくり話を聞きたいことがたくさんある。  何よりも、ルーが俺をこの屋敷に連れてこなければ、俺はこの薔薇園でアーロンと出会うことはなかった。たしかそこは――  ふいにルーは目尻をゆるめ、俺とアーロンを交互にみた。 「こうしてみると、ふたりとも大きくなった」  ふたりとも? たしかにルーはアーロンのことも子供のころから知っているが、俺たちはどちらもいい年だ。こんなふうにいわれるのも面映ゆい。  もしかしたらルーにとっては、俺もアーロンも息子のようなものなのだろうか。 「そろそろお茶の用意ができたころあいだな」  ルーは小路をふりかえった。でも俺は崩れたあずまやのさらに先を見ていた。 「ちょっとあっちを回ってきても?」 「ああ、かまわないが」 「すぐ戻る」  俺はあずまやの瓦礫をまたいだ。  ひとりで行くつもりだったのに、アーロンがすぐ後ろにいる。俺が目指している場所がわかっているみたいに大股でついてくる。  いや、ちがう。この男はわかってついてきているにちがいない。  俺は大輪の薔薇に見守られながら小路をたどり、何度か曲がって、薔薇園のはずれまで行った。ぐるりを取り囲む低い石塀の前に古い石のベンチが置かれている。腰を下ろすと薔薇の木のあいだをすりぬけた風が首筋を撫でていく。  そう、ここだった。  アーロンが静かに俺の隣に座った。肩と腕の、重なって触れたところがだんだん熱くなる。 「覚えているか? アーロン」と俺はたずねた。答えはすぐに返ってきた。 「ああ。ここでおまえをみつけた」

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