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第6話
振り返った晴人の顔を見たその人物は目を見開き「え……」と小さく声を溢した。
柔い風に乗ってもう感じることはないと思っていた、チョコレートのような甘くほろ苦い香りが晴人に届く。
(何で。何で今更そんな香りを纏ってるんだ──)
その人――植原 隆博 に会うのは、彼が高校卒業して以来だ。
最後に遠くから見た彼は肩につくくらいに伸ばした明るい茶色の髪を後ろ手に無造作に束ねていたが、今は髪型こそあの頃のままだが、髪色は昔より幾分が暗い色になっていた。。
チャコールグレーのスーツ着ているからか、昔のようなやんちゃな印象はなく落ち着いた雰囲気を纏っている隆博に晴人の胸が早鐘を打つ。
こんな思いを抱いても無駄だと晴人は何でもないような顔を取り繕う。すると、隆博は微かに肩を揺らし一瞬の動揺を見せたがすぐに神代の方へ視線を移した。
「義兄さんとこんな所で会うなんて思ってませんでした。もしかして姉さんとデートですか?」
隆博の動揺に気がつかなかったらしい神代が、揶揄うような口調でそう尋ねた。
「そう。これから仕事終わりの京子と落ち合ってディナーに行く途中なんだ。もうすぐ京子の誕生日だからね。彼女が前から行ってみたいと言っていたレストランの予約をとったんだ。それより、柊真君は?」
「俺は、大学時代のサークルの先輩と一杯やってきた所です」
隆博はもう一度晴人に視線を戻し少し驚いた表情を向けた。
「そうだったんだね……。結城、久しぶり」
意を決したように隆博が晴人に声を掛けた。その声は高校時代に晴人のことを「ハル」と呼んでいた時のような優しい響きを孕んでおり、晴人は思わず動揺が顔に出そうになる。
(なんで、そんな優しい声で話しかけるんだ……)
「え、もしかして義兄さんと結城先輩って知り合いだったんですか?」
まさか晴人と隆博が知り合いだとは思っていなかった神代が目を大きく開いて二人を交互に見やる。
先に答えたのは晴人だった。
「まあな。高校の先輩だ。演劇部が学園祭で使う背景を美術部に依頼したとき、描いてくれたのが植原先輩だったんだ」
「結城先輩って義兄さんと同じ学校だったんですか? て言うことは、俺の姉と同じ学校なんですね。神代京子って知りませんか? 先輩と同じ学年なんですけど」
神代が口にした名前を晴人は復唱しながら記憶を探るが該当する人物を思い出すことはできなかった。「――覚えてない」と告げれば、「先輩って決まった人としか話さなそうですもんね」と返される。
神代のいう通りであるが肯定するのも癪に触ったので晴人は何も答えなかった。
ふと隆博をチラリと見やれば、「本当に言っているのか?」とでも言いたげな目で見られたが、やはり晴人には心当たりがない。
「そういえば義兄さんは、姉さんとどこで待ち合わせしてるんですか?」
晴人と隆博の間に微妙な空気が流れた瞬間、何も気づいてなさそうなのに神代が話題をかえた。
「駅前広場だったけど、京子の会社まで迎えに行こうとおもってね。二人はこれから梯子するのかい?」
「偶然会って飲んだだけなので、この後の予定は特に決めてないですが、どうします? 結城先輩」
神代は少し期待した目で晴人を見る。
「悪いがやる事があるから俺は帰る」
晴人はまだ遊び足りないというような神代の視線を無視して断れば、神代は「そうですか……」あからさまに落ち込んでみせた。
肩を落とす神代に隆博も苦笑いを浮かべている。
「中々ハッキリ断るんだね。結城は、柊真君と学生時代の頃から仲がいいの?」
「いや、学生時代はほとんど話したことはない。今日も偶然会った流れで飲みに付き合っただけだ」
隆博の問いに晴人がそう答えると、神代が「……先輩冷たいです」と言ったので「今日付き合ったんだから文句ないだろう」とこちらにもそっけなく返した。
しかしあんな別れ方をすることになったのは隆博のせいだったはずだ。
にも関わらず、なぜ隆博は今更未練があるような素振りを見せるのだろうと晴人は思う。考えた所で答えは出ないし、本人に聞くつもりもないが心中モヤモヤしていた。
「隆博さん。待ち合わせは駅前広場だったと思うけど、こんな所で何してるの? ……って柊真もいたのね」
「京子、おかえり。お疲れさま」
近くのビルから出てきたと思わしきハキハキと明るい女性が隆博と神代に気がつき早足に近づきながらそう言った。
その声の主が自分の奥さんであると気がついた隆博はゆっくり振り返り彼女に労いの言葉をかけた。
隆博の影に隠れている晴人には気がついていないらしい。
同級生と神代が言っていたが、名前を聞いてもピンとこない相手と話すこともないと晴人は空気になることに徹した。
「姉さん、お疲れ。これから義兄さんとデートなんだって?」
「そうよ。隆博さんに、私がずっと気になっていたレストランへ連れて行ってもらうの」
「いいなぁ。って言っても今日は俺も大学の時の先輩とデートしてきたんだ。しかも先輩、義兄さんと同じ高校だったらしいから姉さんと同学年だよ。知ってるかな?」
隆博の後ろで空気と化していた晴人を神代が笑えない冗談を言いながら、自分の前に引き寄せた。
無駄口を叩く強引な後輩に文句を言おうとした晴人だったが、二人の前にいた女性が不機嫌そうな声色で「結城晴人……」と呟いたのでそちらを振り向かざる終えなかった。
その人物を晴人はよく知っていた。
隆博と付き合っていた晴人に苦言を呈してきた人物だったからである。
当時、名前も知らない同学年の女生徒に1時間も自分を否定するような言葉を投げかけられ続けたのは晴人にとって少しトラウマになっていた。
晴人と京子の間に重たい空気が流れる。
そんな空気から逃れようと晴人が一歩後ずさると、無表情を貼り付けたような顔をしていた京子が口を開いた。
「いい歳した弟にこんなことは言いたくないけど、付き合う人間は考えなさい」
自分の姉からいきなりそんな人を侮辱するような発言が出るなどと思いもしていなかった神代は一拍置いて「姉さん」諫 めた。
出遅れた隆博は京子を窘 めながら晴人に謝る。その様子を見て京子は一層機嫌を悪くした。
晴人は高校の時から変わっていない彼女に対して、思わずため息が漏れた。
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