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第21章ー第189話 眠れぬ夜

 田口がいない夜はなかなか経験のないことだ。いつも一緒――朝から晩まで。どちらかが飲み会や、会議で遅くなってしまうことは多々ある。だがまったく一晩、相手がいないということはない。  一緒に住むようになって一人暮らしの頃の感覚が鈍っている。一人で過ごす夜が思い出せないのだ。仕事以外には無頓着な性格が、こういうところにまで影響をするものだろうか。  ――夕飯はどうしようか。  一人だと思うと、やる気も出ないものだ。彼がここに転がりこんでくる前は当然の如く、こうして一人で過ごしていたはずなのだ。なのに思い出せない。これもまた田口という人間と一緒にいるようになって知った感覚。  今朝、「研修頑張れ」と送り出したばかりなのに。まだ一日もたっていないというのに、田口がいない生活は時間がすぎるのが遅い。なんだかそわそわして居心地が悪かった。口煩くてお母さんみたいな男がいないともの寂しい気持ちになるものだった。   「寂しいのか?」  ――変な感じ。  自分の気持ちに気がつくと、なんだか心がざわざわした。  ――自分には田口が必要なのだ。それは、きっと、好きだから? 好きってなんだ。大事ってこと? 大事ってなんだ。……良くわからない。  だが確実に言えることは、田口がいない生活は考えにくいということ。なのだ。田口は自分の隣にいるべき人間なのだ。  こんなにも人は、誰かに依存するものなのだろうか。今まで経験したことがないことだから。人に頼って寄りかかって生きていくなんて到底、信じられないことでもあった。  ――それなのに。 「とんだ腑抜けか」  保住は自嘲気味に笑った。滅多に買うこともないコンビニの弁当を見下ろしてため息を吐いた。 「食べる気にもならないって、相当重症だな」  ソファに弁当を投げ出し、ワイシャツのボタンを外そうと手をかけると携帯が鳴った。こんな時間に個人的な携帯に連絡を寄越すのは、母親に決まっている。面倒だと思いながら持ち上げると、発信元は澤井だった。とんだタイミングだ。なにかを見計らっているかのようで気味が悪かった。    ――田口がいないことを知っているのか。出ないつもりで無視をしようか。  しかしいつまでもその呼び出し音は鳴り止む気配がない。こういう時に、留守番電話設定をしておけば良かったと後悔した。  保住は留守番電話が大嫌いだ。後から用件を聞くのが面倒だから。用事があるなら、またかけて寄越せばいいと思うのだが。今日ばかりは後悔だった。いつまでも鳴り止まない携帯を見つめて、通話ボタンを押した。 「はい。保住です」 『遅い。居留守を決め込むつもりだったのだな』 「当然です。勤務時間外まで、あなたと会話する義理はありません」 『田口がいなくて寂しい思いをしているかと思ってな』  保住は言葉に詰まる。 「……冗談はやめてください」  保住の息遣いで『図星』と勘づいた澤井は愉快そうに笑い声を上げた。 『図星か! しおらしくていい』 「……からかうために電話をしてきたのであれば、切ります」  むっとして声を潜めると、澤井は愉快そうに笑いを含んだ声で続ける。 『業務のことだ。明日の午後は時間を空けておけ』 「どういうことなのですか?」 『詳しいことは明日伝える。だが最優先事案だ。絶対に空けておけ』 「上司命令ってわけですか。会議が入っていましたが、別な者に代わってもらいますよ」 『そうしてくれ』 「要件は以上ですか?」 『そうだな。例の件。ある程度決めたのか』  例の件――。 「――人事の件ですか。そんな暇ありませんよ。自分の仕事で手一杯なのに。人の部署のリサーチまで出来る訳ないじゃないですか」 『だから、こちらでやるから指示して来いと言っているのだろう』 「そう言わても。皆目見当もつきませんから」 『やる気の問題だ』  そう言われるとそうだろう。大して興味もないから後回し。そういうところを澤井は見抜いているのだ。 「そうですね。あなたの言う通りだ」 『認めるのか。素直でよろしい。お前がやる気が起きるように考えているところだ』 「じわじわ攻め立てるのはやめてくださいね。おれ、打たれ弱いです」 『知っている』  ――澤井は愉快そうに笑っているのだろうな。  彼の相手も疲れるものだ。保住はため息を吐いた。 『明日は楽しみにしていろ』 「明日の用事はその件なのですか」 『明日になれば分かる』 「意味深な言葉ですね。気になって眠れませんよ」 『そういう質でもないくせに。では、明日』 「失礼いたします」  一体、なにを考えているのか、澤井の腹の中はよくわからない。手駒の一つである自分と、大局を眺められる位置にいる彼とでは、物事の理解の度合いが違いすぎるのだ。澤井を負かしたいと思っているわけではないが、いつも翻弄されるのは悔しいものだ。  こうして、いつまでも乗り越えられないのだろう。父親も然り。澤井も然りだ。立場も年齢も追いつけない。  一人で過ごすと悪いことばかり考える。田口と過ごしているときは自分の負の部分を考える時間はない。だから心地いいのだ。  ――そうだな。一人でいるときは、こうして自分のことばかり思い起こし、父親のことを思い起こし、嫌な気持ちになるから仕事ばかり夢中になっていた。 「よくないことだ」  過去を振り返るなんて、バカげていることを理解しているのに。やめられないのだ。久しぶりに眠れない夜になりそうだ。

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