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第23章ー第210話 意見の相違は埋められる

 野原への印象を変えながら、田口は必死に自分の気持ちを言葉にする作業に没頭した。彼は自分の上司なのだ。失礼なことを言っているということは、自分自身が一番理解している。  だがしかし――。彼はきっと、自分の気持ちを理解してくれるのではないかと思ったのだ。 「澤井副市長を蹴落としても、また次が控えていますよ? 蜥蜴の尻尾切りだ。もっと性悪が副市長の座に座るかもしれない。安田市長の任期は来年までですよね? 安田市長の続投はあり得ないと言われていますし、そうなると槇さんは来年の冬にはいなくなるのです」 「そんなことは重々承知。だからこそ――」 「だからこそ、そんなことさせていいのですか? 槇さんに。あなたは止める役目がある。それを放棄して槇さんと一緒にいられるのでしょうか?」  野原は田口に視線を戻した。彼の白緑(びゃくろく)の瞳に迷いが生じているのが見て取れた。田口は続ける。 「おれだったら――もし保住さんがそんなこと仕出かすと言い出したら。おれは全力で止めます。誰かを蹴落とす、陥れるなんてこと、あってはいけません。保住さんがそんな道を踏み外す行為を行うと言い出したら。命に替えてもやめさせます」 「田口……。お前は保住のなあに?」  まっすぐに見つめ返されると、田口はたじろぐ。保住との関係性を勘ぐられるだなんて、墓穴を掘ったと思ったのだ。でも引き下がれないし、引き下がる気もない。 「おれは、あの人が大切です。あなたもそうでしょう? 槇さんが」 「……お前になにがわかる」  野原の声は小さい。しかし田口は怯まなかった。自分の心が決まれば、後は自分を信じて話をするだけだ。野原は迷っているはずだ。これでいいのかって。  ――だって困惑しているだろう? 「わかりますよ。多分……おれが保住さんを大切に思うように、あなたも槇さんが大切なのです」 「……っ」  田口の言葉は、無感情である野原に届いたのだろうか? じっと黙り込む野原は、なにを考えているのか伺えるほどの表情はない。だが彼はふと口を開いた。 「槇は昔から自分の思い通りになる世界に固執していた。自分は弱いから権力が欲しいって。そう言う。それを手に入れるために、努力してきたのもわかる。そばで見てきたからだ」  野原は目を細める。なにかに想いを馳せているのか。 「おれは、ただそれを叶えてやりたいとしか思ったことはなかった。あいつの夢なら、おれもそれを夢にするんだって。ずっとそう決めてきたから。――だが田口」  そこでふと田口に視線が向く。ぶつかった視線の先の彼は、いつもの野原だ。いや。違う。無機質なAIロボットのような彼ではない。優しい瞳の色で田口を見返していた。 「お前のような捉え方をしたことはなかった」 「は、はぁ……すみません」 「謝るべきことではない。新しい発見だ」 「えっと」  野原は無表情で何度も頷いた。 「なるほどな。下らない野心などにかまけることなく、足元を見ろと言ってやるのも一つ」 「いや、そこまでは……」 「確かに下らないのだ。澤井副市長を下ろしてもなんの解決にはならないことは知っている。槇は幼い。おれもだ。おれたちには、澤井副市長《あの人》に敵う力も、情報も、人脈も足りない。もう少し慎重になればいいと思っていた。それは当然のこと。お前に指摘されて気がつくなんて、おれもまだまだ」 「野原課長……あの」 「人を引き摺り下ろすのではなく、自分を高めろと言ってやろう」  人の話を聞く耳など持ち合わせていないところは、保住より質が悪い。スタスタと歩き出す彼の後ろを追いかけて、田口は内心気まずかった。自分の意見にここまで感化されるとは予想外。大丈夫なのだろうかと不安になったのだ。 「槇は怒るだろうな」 「わかってくれると思うんですけど」 「そういう男ではない。多分、泣いて喚いて大騒ぎをして怒るのだ」 「あの、大丈夫なのでしょうか?」 「多分、大丈夫ではない。……保住はどうだ? お前がそんな事を言ったらなんと言うのだろう?」  急に問われて、田口は思わず答えてしまう。 「保住さんも怒るかも知れません。だけど、わかってくれます。あの人はそういう人だ」 「――そうか。しかしあの寝癖はいけない。あれはお洒落ではない。明らかな寝癖。素行を正すことがお前にできるなら、寝癖くらい治せ」 「お、おれが治すんですか」  ――いや。そうなのだ。あれは、自分は朝から怒らせたらか、直させてくれない寝癖だ。  責任は自分にあるとずっと思っているのだが。 「喧嘩中なんです。野原課長は槇さんと喧嘩……してそうですね」 「喧嘩? 槇はすぐ怒る。訳のわからないことを言って人のせいにする」 「それって結構ひどい人間ですけど。よくお付き合いしていますね」 「そんなものだと思っている。昔から。お前もひどい扱いされている?」  仲間だと思われるのだろうか? 野原は興味津々なのだろう。緑の瞳の色が濃くなる。そう食い入るように見られても……。  ――ああ、今気がついた。  彼の場合、顔全体の表情が変わらない分、目で語ってることが多い。 「ひどい扱いなのかどうかはわかりませんが……今日だって朝から喧嘩です。おれにとったら特別な日なのに」 「特別?」 「いや。あの。こんな大人になって、特別なんて恥ずかしい表現ですけど」 「なに? 特別ってなあに?」  さらに彼の瞳がキラキラする。答えないわけにいかない。 「た、誕生日なんです」 「誕生日? 誰の? お前の?」 「そ、そうです」 「誕生日。それは特別」  ――特別って思うの? このAIロボでも?  田口は目を瞬かせるが、彼はすぐに瞳の色を暗くした。  ――あれ? 興味を失ったらしい。  それはそうだ。部下の誕生日なんて、興味がないに決まっている。 「すみません」  もう返答はない。野原は方向を変えると駐車場に歩き出した。田口との会話に興味が失せたということだろう。田口はそれを追いかけた。 「野原課長の瞳の色って不思議ですね。ご両親は日本人、ですよね?」 「よく言われる。両親は日本人。母の話だと目の色は育った環境でも左右されるようだ。昔から読書が好きで引きこもっていたからだと言われた。日照時間と目の色は関係があるのだそうだ」 「そ、そうなんですね。お母様はお詳しいですね」 「眼科医だ」  彼は大して興味もなさそうに公用車の助手席に乗り込んだ。今日の外勤は果たして良かったのだろうか?  ――きっと良かったのだ。  野原という男を少しだけ理解した気がする。そしてきっと、反応は薄いけど彼もまた自分のことを少し理解してくれたのではないかと思ったからだ。

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