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第25章ー第220話 誠意ある男
結局、母親にはメールで断りの返事を入れた。『急な案件が入り、春まで動けない。年度末は異動もあるから、忙しい』と送ったのだった。
一月三日の市役所。文化課振興係以外でも、あちこちの部署は動いている。特に忙しいのは秘書課や観光系だろう。正月でも様々なイベントがある。いつもよりはひっそりと、だけど静かでもない市役所内。事務所の扉を開けるといつものメンバーが顔をそろえていた。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」
保住の挨拶に一同は頭を下げ、口々に挨拶を述べる。文化課振興係は三月までのラストスパートの時期である。残り三ヶ月とは言え、年度末のオペラ開催も控えていた。今回は予算が少ないところでの開催なので、出演者は地元のセミプロが多い。昨年の出来栄えとは雲泥の差になることは目に見えているが、継続していくことが大事なのだ。
なにせ、三年後に控えた市制100周年事業でも花を添えてくれる企画だからだ。なんとしても繋いでおきたいというのが、保住の思惑だった。
先日、そう説明されて、オペラの重要性について認識をした田口は、今年のオペラの準備に取り組んでいた。しかし、忙しい時に限って携帯がうるさく鳴る。
母親だろう。お断りのメールを一方的に送ったから怒っているのか、仕事中でもなんでも電話を寄越すのだ。しかし無視だ。無視しておけばなんとかなる。そう思っていたからだが、その無視が裏目に出るとは思っても見なかった。それが明らかになったのは、一月も中旬過ぎであった。
***
雪の多い年だった。道路が見えきたかと思うとまた雪。積もっては解けの繰り返しは路面を氷化する。「ぎゅーっとコートの背中を握られても……」と、田口は苦笑した。
「庁舎前まで車でお送りしますけど」
後ろで田口にしがみついている保住を見下ろして苦笑する。
「そ、そんなみっともないことするか」
「そうは言いますけど。そんなにしがみつかれても……」
「誰もいない間だけだ。近くなったら手を離す」
雪道で転倒してから、怖いと思うようになったのだろう。ツルツルの路面で悪戦苦闘している彼は面白い。
「保住さんって、本当。躰の感覚が鈍いですよね」
「鈍い言うな。コントロールが難しいだけだ」
「そうそう。それですね。あ、そうか。感覚が鈍いわけではないか。むしろ敏感です」
軽く笑って退ける田口が憎たらしい。保住はむーっとする。
「冗談に聞こえない」
「すみません。冗談ではないのですけど」
飄々と歩く田口。普段は何事も勝っているはずなのに。雪道だけは完敗だ。悔しいけど田口がいなければ、また転倒しかねない。
「見ている分にはいいが。通勤があるから雪は嫌いだ」
「そうですか。おれは雪、大好きなんですけどね……?」
もう少しで市役所。そんなところで、田口のポケットに入っている携帯が鳴った。保住のことに気を取られていた。大して相手を確認することもなく、応答してしまったのが運の尽きだった。
「もしもし」
『銀太! もう。何度も連絡しだんだから』
――しまった。油断した。
母親である。
「今から仕事だから」
切ろうとすると、向こうから聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。
『今日、行くから』
「は? はあ!?」
田口の反応に、コートを握りしめていた保住は顔を上げた。
『先方さん、もう待てないって言うし。ともかく。その子と一緒に義一郎さんと私とで行くから』
「!?」
――困る。来るって。
『大丈夫。日帰りにする予定だから』
「おれ、仕事だし」
『なんとかしなさいよ。午後からくらい休み取れるんでしょう? どこかいいところでお茶して。会ってみなさい』
「……ッ、無理。無理だからね! じゃあ」
強引に通話を切ってやる。勘弁して欲しい。なんて身勝手と思うと、軽く憤りを覚えた。珍しく不機嫌になった田口を、不思議そうに保住は見上げてきた。
「田口?」
「……母です。お見合いの件、お断りしたっきり無視していたのですが。今日、先方さんと梅沢に来ると言ってきました。勝手なんだから……っ」
「今日?」
保住は目を丸くする。
「どうするのだ」
「無視しますよ。どうせ。来たっておれの家だってわかりっこないです」
「そうなのか?」
「そもそものマンションの住所なんて教えていませんし。無視します」
やっとの思いで玄関に到着。雪のない場所に出、保住はほっとするが、それよりもなによりも、田口の問題が大きすぎる。
「田口。そんなこと言わないで、ちゃんと時間を取らないと」
「保住さん」
田口は「また、そんなこと言うの?」と不安げな視線で保住を見るが、彼は首を横に振った。
「おれは大丈夫だ。お前のこと信じている。だから。ちゃんとして来い」
「でも」
「あんまりそんな態度では、相手の方にも失礼だろう? それに、お前のお母さんだってわざわざ梅沢までいらっしゃるんだ。無視なんてしてはいけない」
――わかっている。わかっているけど。でも、嫌なのだ。
ぽんと肩を叩かれる。
「お前は誠意ある男だ」
「……保住さん」
「大丈夫。ちゃんと待っているから」
彼はふと笑みを見せてから歩き出すが、その瞳には不安の色が見て取れた。保住だって心配している。不安にさせてはいけないのだ。しっかりしなくちゃ。田口はため息を吐いて、保住の後ろを追った。
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