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エピローグ
黙り込んでいる保住の横顔を見つめて、田口はハンドルを握っていた。後部座席にはそれぞれの荷物が積まれていた。農業振興係からダンボールを抱えてやってきた文化課振興係。その時よりも荷物は少し増えただろうか?
あの日――階段上でおろおろとしていた時に出会った保住。年下だと思っていたのに、まさかの上司。だらしのない格好で寝癖だらけ。古めかしい話し方。こだわりのある仕事っぷり。書類に10点を付けられたこともある。
いい加減で受け入れられない人だと思った。女性に対しては王子様みたいな印象だし。運動もできないし。自分の身体の管理もできないし。熱中症にはなるし。圧迫骨折もするし。素直じゃないし。意地っ張りだし。上司には食って掛かるし。自分勝手でわがままだし。プライベートはいい加減で、異性関係も同性関係もだらしなくて。自分の気持ちにも疎くて。副市長の澤井とも寝てしまうような破天荒な男なのに……。
笑顔はとびきり素敵で自分の人生を彩ってくれる。彼がそばにいるだけで自信が持てて、なんでもできてしまう気がする。
怖いものなんてない。
――そう。彼がいてくれるだけで、自分は嬉しさで溺れてしまいそうなのだ。
「ニヤニヤしているぞ」
ふと気がつくと保住がこちらを見ていた。
「そうですか」
「気味が悪い」
「だって。すみません」
「お前は、本当に面白いな」
「え?」
保住は愉快そうに笑い出した。
「普通、新しい部署での業務の重圧を感じるとか、今までの部署への愛着があるとか、ないのか?」
「え? それはありますけど」
「軽い言い方だな」
「だって……」
信号が赤になり、止めた車の中。田口はハンドルから手を離すと、そっと保住の首に添えて引き寄せた。
「え?」
フェイント。まさか、こんなところでキスされるとは思っていなかったらしい。軽く唇を合わせて田口は笑う。保住は目を見開いたまま固まっていたが、はっと我に返り田口の肩を押し返した。
「な、なんだ。急に」
「すみません。だって。キスしたかったから」
「運転中だろう!?」
耳まで真っ赤にしている保住を横目に、青になった信号の指示通り車を走らせる。
「これからも一緒に仕事をするのに……先が思いやられるな」
照れ隠しか。田口は笑う。
「じゃあ、おれを秘書課に飛ばしますか」
「そ、そんな意地悪を言うな。天沼のこと。すごく気にしている」
「すみません。でも。天沼は向いていますよ」
「おれもそう思うのだ。多分、市制100周年室に置いたら、逆に辛いのではないかと」
「同感です。おれもそう思います。だから。あなた一人で背負わないでください」
「お前……」
「保住さんのことだから、気にしているのではないかと思って」
ずっと保住が気に病んできたことを田口は感じ取っていた。保住のことだから天沼を澤井の元にやったことを気にしているのではないかと思っていたのだ。
彼の反応を見ると、あながち外れではなかったらしい。保住はふと笑った。
「本当に! お前には敵わないな」
「え? そうですか」
「そうだ」
車は自宅駐車場に到着した。エンジンを止めた田口だが突然、保住ネクタイを引っ張られ彼のところに体を持っていかれて慌ててしまった。
「わ、な、なんです?」
今度は逆だ。ねだるように田口の唇に、顔を寄せるてくる保住の仕草に心臓が跳ね上がった。だけど嬉しい。誘われるがままに田口はそっと保住の唇にキスを落とした。
「どこへでも連れていってください」
そっと囁くと保住のネクタイを握る手に力が入る。
「地獄への門出だ。心してかかれ」
「承知しました」
軽く微笑を浮かべて、そのまま保住を座席シートに押しつけて口付けを繰り返す。田口の後頭部に回された左手中指には金色の鈍い光を放つリングが収まっていた。「薬指では誤解を招く」とか恥ずかしそうに言っていた彼。
『では、他の指にはめていただけますか?』
そんな田口願いを彼は叶えてくれる。
『左手中指にリングをするということは、アイデアが湧くらしい。気に入った。そこにしよう』
誕生日の夜。そんなことを言い訳がましく言っていた。素直じゃないのだ。
この人は。
文化課振興係に配属になった時は、不安だった。だが、今回の異動は少し違う。だって彼と一緒なのだから。一人で味わう不安ではない。遠足の前の夜みたいな感覚。どこか非日常に足を踏み入れたような……いや、明日からの毎日が、これからの日常になるのだ。
喜びと不安とが、ごちゃごちゃに混ざり合っているのに、こうして二人だけの時間を味わうと、なにもかも大丈夫な気がしてくる。
最愛の人を堪能しながら、梅沢へ来たことは間違いではなかったと確信している田口であった。
— 振興係編 了 —
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