瞬きのあと目を瞑って、息を吐いて、吸って吐いて。唾液で喉を潤してから発声したというのに、一度目は声にならなかった。二度目でやっと掠れた声が出て、ああ、と安堵する。 　目を開けて先生を見つめる。そんな俺をじっと見つめて待っていた先生を。 「先生」 「うん？」 「頭を、撫でていただけますか」 「うん」 　自分の喘ぎ声と、肉のぶつかる音と、粘度の高い水音と、壊れかけのベッドのスプリングが軋む音が響いていた保健室は、ほんの数分前とは打って変わった静寂に包まれている。 　その冷たさすら感じる静けさの中で俺と先生の声がひっそりと響き、頭を撫でてくれた時の布ずれの音まで耳に届く。 「先生、手を握ってください」 「うん」 「先生、お耳のほくろにキスしてください」 「うん」 「先生、ぎゅってしてください」 「うん」 「先生、キスしてください」 「うん」 　次々に繰り出すお願いごとが、淡々とこなされていく。それでも先生の動作は優しく、俺に触れる手も唇も丁寧だ。 「先生、俺のことさらってください」 　シーツの上で重ねられた大きな手を強く握り返す。力が入りすぎてるからか、それとも怖いからか、カタカタと肘から先が震える。 　これまで即座に頷いてお願いを叶えてくれた先生は、微笑んだまま眉根をすっと寄せた。僅かに伏せた睫毛が艶々としていて美しい。 「どうしても、駄目なら……二年……二年、待ちます。あんな曖昧な言葉じゃなくて、ちゃんと約束して」 　もしも再会できたらねなんていう、社交辞令のような約束では満足できない。二年も待てない。きっと自分は潰れてしまう。寂しさと不安で潰れてしまう。 　肩甲骨を撫でるとくすぐったかったのか肩で払われてしまった。離れた手を小指を残して緩く握る。 　ゆびきり。こんな子供だましな約束の仕方でも、目に見える約束がほしい。自分の不安を体現しているかのような、第一関節も第二関節もゆるく曲がった小指を、先生のお顔の前に差し出した。 「俺が成人してからで、いいです。迎えに来てください。また、俺のことさらって。あの部屋に連れてって閉じ込めて。ちゃん約束して、先生、お願いします……！」 　一瞬だけ小指に目をやって、すぐにまた先生の視線は俺に戻る。それ以上小指を注視されることはなく、先生の大きな手が上から被さり隠され、そちらの手もシーツの上に縫い止められてしまった。あ、と落胆の声と共に嗚咽が漏れる。見慣れた無表情が近づいてきて、キスされるのがわかったがふいっと顔を横に逸らした。しかし繋がったままの中をちゅぷ、と音を立てて浅く突かれ、また先生のペースに事が運ばれてしまうのがわかった。 「あ……もう俺の居場所は……あの部屋、なんです。ん、や、せんせい……おねがい……」 　腰の動きが深くなっていき、頭がまたとろけていく。気持ち良すぎてすぐどうでもよくなっちゃうバカな身体が憎いけれど、先生とずっと繋がっていたくなる幸福感に勝るものはなく歯がゆい。 「あ、せんせぇぇ……なか、なかこしゅれて、あ、あっ、きもちい……」 　静かになっていた保健室が、再び騒がしくなる。出し入れが繰り返される度、奥が揺さぶられ、張ったカリが前立腺を擦り、下半身ぜんぶどろどろになる。限界まで股を開いてお尻を上げて、体勢はかなり辛いはずなのにそんなこと全く気にならないほど気持ちがいい。 　腸壁ずりずりされるのたまらない、こんな風に使っちゃいけない場所なのになんでこんなに気持ちいいのか。それともこんなに気持ちいいから使っちゃいけないのだろうか。理性も知性も人として大事なもの全部壊されてしまうから。でもこの全部捨ててしまえるのが最高の快感だと思う。 「あっ、あっ、しゅご、あぁぁっ、おちんちん、おちんちん、ずっとほしいぃぃ……っ！ このおちんちんじゃなきゃ、やっ……きもちいよぉ、ずっといっしょいる、せんせ、あ、せんせぇ……せんせぇだいすきぃっ……！」 「しっ……そんな声出して、丸聞こえだよ？ ん……あぁ、中、あついな……」 「もういいっ、なんでもいいっ、おれせんせいのなの、誰に聞かれてもいいっ……」 「だめ。しずかに」 　柔らかい耳たぶにギリと噛みつかれ、その痛みに唇をきつく結んで耐える。しかし次はそこを優しく舐められ甘い声が出たが、また歯を立てられる。また痛いの気持ちよくされちゃう。唇を閉じて静かに繰り返される新しい快感を享受していたら、今度は先生の囁きが耳を濡らした。 「うん、いい子だね。中も締まってゆるんで、凄くいい……そのまま、静かにできるね？」 　優しい声が嬉しくて頷くが、ちゃんといい子にするから俺のお願いだってはぐらかさないでと不満が口から滑り出ていく。 「さいごのワガママ、は……？」 「うん？」 「きいて、きいてくれない、ですかぁ？ せんせぇ……やくそく……」 　小さな子みたいに唇をつい尖らせながら見つめると、また困らせてしまうかと思ったが先生はふと笑った。 「君は本当に、可愛いね」 　しかしそんな優しげな言葉とは裏腹に、力ずくで片足を持ち上げられ無理に横向き変えられた腰は宙を浮いた。突然のことに次に何をされるか察することもできないまま、先生が腰を限界まで寄せあの一番奥、先生じゃなければ絶対届かない奥まで一気に突き立てられた。 　ここを突かれると声が出ない。 　ただ仰け反って、身体をガクガクと震わせ、息を吸うばかりで喉が詰まって苦しくなる。 「あぁ……しまる。ほんと、いいね。きみの中。奥せまい……きもちいい……」 　先生の声が遠く遠くに聞こえる。 「あーあ。もう、だめだね？ 出雲を静かにさせるのは、簡単だな」 　随分酷いことを言われているけれどこうなるともうそれすら理解できなくて、何を言われていてもおちんちん入れてもらってるから嬉しいしどうでもよくて、ずりずりと身体の中を引き摺られる感覚に支配される。 　頭まっしろ。 　先生でいっぱい。 　ずっと先生に埋め尽くされたい。 　何度も体が跳ね、息がきちんとできないまま酸欠のような状態になってふわふわしてきて。足の付け根が濡れてる。またいつの間にか射精したかな。それとも先走りが大量に流れ出てるのか。どちらでもきもちいいのはおなじ。意識がとおい。このまま天国に召されたい。 　届かないとわかった上で紡がれた言葉を聞き逃しながら、今のこの時間ももうすぐ終わるのだということだけは悟っていた。 　約束も果たされない。 　何も得られないまま。 　自分の中に精液が吐き出された。 　 　 「煙草、吸ってくるから。ちゃんと、帰りな」 　頭の中がまだとろんとしてる。頷くこともなく先生に目を向けることもない俺の頭を、先生が撫でる。 　どんなにたくさん頭を撫でても優しくしてくれても、肝心なことは何もしてくれない。先生のばか。いくじなし。ヤるだけヤって最低。罵倒してやりたいけれど全てが重たい。 　何もできないけれど、涙だけは重力をもってはらはらと流れ落ちていく。 「約束」 　先生は背中越しにその涙を見て、ゆっくりと振り返った。 「そんなもので、君を縛りたくない」 　ベッドの端に腰をかけると、ベッドが軋む。ギシギシキイキイとうるさくて、このベッドはもう限界なのではと思う。近いうち廃棄されてしまうかもしれない。 　いつも行為後すぐにお煙草を吸われているのでやはり我慢ならないのか、先生は微妙な顔をして電子タバコを白衣のポケットから取り出して加熱を始めた。 「君が……二年待てないなら、それでいい。あんな閉じこもった生活とは、違う……ちゃんとした幸せを、見つければいい」 　薄く開いたカーテンの隙間から窓の外が見える。橙色が眩しい。こちらにお顔を向けず、鼻筋の通った綺麗な横顔を夕焼け色に染めながら、先生はいつもより濃度の低い透けた煙を吐き出した。 「僕は……君を一生、愛するのだと思う」 　そのお顔はこちらに向けられないままだけれど、やわらかく微笑んでいるのはわかった。だるい腕を何とか伸ばしてベットに置かれた指先に触れると、そっと指が絡めとられる。 「二年……五年でも、十年でも、二十年でも……僕が生きてさえいれば、何十年先だって、いい。もし、君が……辛くなってしまったら、最後にあの部屋に……来れば、いいよ。もちろん、来なくたっていい。僕はずっと、あそこにいる。君のこと、想ってる」 　先生がいないだけでとても辛いと訴えたかったが、行為の最中ならまだしも素面でそんな見当違いな発言をできるほど愚かでもないし、あまりに曇りのない声でまっすぐに語られた先生の想いを台無しにすることなんてできなかった。 「今までたくさん、頑張ったんだから。自由に、生きてみなよ。自分のためだけに、生きてみなよ。駄菓子なんかより、もっとおいしいもの、楽しいこと、新しいこと……たくさん……ある。君の目がキラキラ輝くようなこと、たくさん。ね？」 　優しく語りかけてくれてはいるが、一度も先生はこちらを見ない。繋いでいた手を離して袖をつんと引っ張るが、優しく剥がされ、ごめんねと謝られた。 「今、君の顔を見たら……僕まで、泣いてしまうから」 「先生はお一人でいるのですか？ 寂しくはないですか？」 「うん…………でも、そうだね」 　振り向いて、お顔が近づいてくる。でもこちらをきちんとは見ない。もしまともに見つめあったら本当に泣いてしまうのだろうな。 　左耳をするりと撫でられ、口付けされる。ああもう、本当にお好きなんだから。 「どうしても……我慢できなくなったら。大人になった、君のこと……拐いに来ようかな」 「もしかして……根比べがお望みですか？」 「ふふ、違うよ」 　下を向いて笑った先生は、一息ついて立ち上がった。そうしてそのまま歩き出して、カーテンを大きく開く。事務机に置きっぱなしだった俺のスマートフォンを操作しているのを見て、ロックを解除しているのがわかった。残念、そのまま忘れて去っていってくださればまた会いに来れたのに。先生はそんな考えを見透かしたよう横目で俺を見て笑う。 「もう、来たら……だめだよ？ 少し、早いけど。卒業おめでとう」 　先生が去っていく足音を聞きながら、瞼を下ろす。 　保健室で自慰を見てもらったあとも、よくここに俺を放置して煙草を吸いに行ってしまった先生。屋上へ向かうこの足音を何度聞いただろう。 　あの人はきっと、俺のこと迎えになんか来ないだろうな。ずっとまた、待っているのだろうな。ここでそうしていたように。 　引き止めることも約束も何もできなかったけれど、不思議と胸につかえていたものがなくなりすっきりとした気分だった。 　涙を拭いて起き上がる。明日はもう、卒業式なのだ。早く帰って準備をしなくては。 　 　※※※※※※ 『卒業生からの答辞は代表欠席のため省略とさせていただきます』 　そのアナウンスにホール内にどよめきが広がる。 　皆がひそひそと憶測を話す中ふと保護者席を見てみれば、前列にいた若い女性二人組が明らかに他とは違う動揺を見せており、さらに片方には朧げながら見覚えがあったためすぐに出雲のお姉さんだと理解した。 　自由にしなとは言ったけれど、まさか卒業式をすっぽかすとは。しかし根っから真面目で賢いあの子のことなので、とくに心配することもない。動揺が収まっていくのを見守りながら、よくやったと一人こっそりと笑みを浮かべた。出雲がいないのならば出席しなくてもいいかと、周囲にちらちらと視線を向けられながらもホールを後にした。元より変わり者なので何か言われることもなく、スムーズに面倒な行事を回避できたのは幸いである。 　翌年度の経営計画がやっと終わり、引き継ぎ資料の作成を本格的に進めなければならないため無駄な時間など一切ないのだ。毎年変わりばえのない行事に養護教諭がわざわざ参加する意味もわからないし、出雲がいないならどうでもいい。 　もう少しで明け渡す予定の十年近く勤めた保健室に入り、事務机につく。未練もないもないが、この場所は嫌いじゃない。着慣れないスーツのネクタイを緩めてワイシャツのボタンを外し、電子タバコを加熱する。煙を吐き出しながら引き出しを開けると、自分が作成した記憶のない、A4用紙に印刷された文書が入っていた。 　内容をざっと目に通し、それがすぐに卒業式で読まれる予定だった答辞の原稿だとわかった。輝かしい高校生活、生徒会活動、付属高校だからこその盛んな行事のことなどが書かれており、きっと素晴らしい内容なのだが、用紙の右端にペン書きされた一言がその全てを台無しにしている。 『八割がた嘘なので読むのやめます』 　高校生活を賛美した答辞にフォントのような正確で綺麗な字でその一文が添えられたことで、彼の高校生活の集大成はこれなんだと、一つの作品がこれでできあがっていることに感心した。 　まだ間に合うだろうかと、その一枚の紙を手に保健室を後にする。 　急ぎ足でホール前まで来ると、扉の前で背の高い女性が二人(当然出雲のお姉さんである)、スマートフォンを耳にあて電話をかけながら、声量は抑えているものの興奮した様子でなにか話し合っていた。 　自信はなかったが、恐らく自分の生徒だったであろうほうに向かって森久保、と声をかけてみる。 　一斉に振り返った二人のうち、一人は怪訝な顔をして見せ、もう一人は驚いたように大きく口を開けた。 「加賀見先生だぁー！ 相変わらずでっかーい」 「ちょっと小梅、なんて口の利き方してるのよ。すみません、失礼なことを……」 「だって私がこの高校に通ってた時もいた先生だし。出雲も加賀見先生だいすきーって言ってたのよぉ？」 「お世話になってるならますます駄目じゃない！」 　二人の会話を聞きながら顔を眺めていると、やはりそれぞれどこか出雲に似ている。揃って出雲と同じたれ目をしているのにやたらと気が強そうな顔をしている……しかし、悪い空気は感じない。 「これ……」 　見知ったほうに先程の原稿を渡し、なにこれーと軽い調子ではじめ受け取った彼女は、その内容を確認すると目を見開いた。 「これなに?! どうして持ってるのぉ?!」 「僕の机に、入ってた。経緯は、知らない」 「じゃあ、どこにいるかも」 「知らない」 　なに、と(おそらく)長女も原稿を覗き込み、食い入るように文章を目で追うのを見ながら僕はすぐにその場から逃げるように離れた。 　これ以上何か聞かれるのも面倒だし、彼の連絡先も居場所も知らない僕にできることはない。ただ、あそこに記されているあの子の一面を家族に垣間みせることにより、救われるものがあるような気がした。 　ホールから校舎へ戻る渡り廊下から見える桜の木は、まだ花を咲かせていない。 　蕾が膨らみ始め、今か今かとその時を待っている。 　少し前の僕ならば桜のことを気にすることすらなかっただろうに、蕾を見ながらどこかへ羽ばたいていっただろう出雲のようだと考えていた。 　桜が咲くよりも前に僕もここを去ることになるだろうから、満開になるのを見ることはない。 　渡り廊下から外れ、桜の木の下へ行き煙草に火をつけた。 　上を向いて蕾に向かって吐き出した煙には、やっぱり寂しい、もう君が恋しいの言葉が滲んでしまった。君が気に入ったバニラの香りをもう一度。今度はいってらっしゃいお元気での挨拶を。 　僕は君のことを待たない。ただずっと、君のことを想ってる。 終