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第15話 放置プレイ

 その日の遅番は、吉田と安齋だった。  いつもは残業をしている星野も、さすがに雪の日だからと、定時で帰っていった。  静まり返っている事務室は、初めてキスをされた夜みたいだった。  目の前で安齋が、無言でキーボードを叩く彼の音だけが耳をつく。  吉田は仕事が手に付かなかった。 「あ、あの」 「なんだ」  吉田の言葉に、安齋は手を止めて視線を向けてきた。 「あの。本当に良かったですね」  本当はそんなこと、ちっとも思っていないくせに――。  安齋が本庁に異動になるということは、四月から、彼はここからいなくなるということだ。  こうして向かい合って遅番をすることもない。  彼に監視されたり、怒られたりするこもない。  そう、いつも一緒にはいられないということなのだ。  あの神野《じんの》の一件以来。  安齋への気持ちを自覚した自分は、すっかり彼に夢中だった。  安齋が自分をどう思ってくれているのかは、わからない。  自分の気持ちを口にする男ではないからだ。  しかし少なくとも、彼の恋人という席に、自分は座っているつもりでいたのだ。  ――離れてしまったら、もう終わってしまうのだろうか。安齋さんにとったら、こんなことはお遊びみたいなものに違いないのだから。  うつむき加減で、ぼそぼそと小さい声で呟いたのは、気持ちが塞ぎ込んでいるからなのかも知れない。 『そうだな。お前とはこれで終わりだな』  そういう言葉を予測して、目をぎゅっとつむった。  しかし安齋は不機嫌そうに声を上げた。 「お前、それ、本気で言っているのか?」 「だ、だって。喜ばしいことじゃないですか。星音堂《せいおんどう》から本庁に異動する人なんて、今までいなかったって、星野さんが」 「――だから本気でそう言っているのかと尋ねているのだ」  ――そんな怒らなくても。  吉田は思わず首を竦めた。 「ご、ごめんなさい」  安齋は「とりあえず謝っておけ」という態度が、一番嫌いであると知りながらも、そうしてしまう自分に嫌気がさした。  もっと頭の回転の速い、しっかりした人間だったらよかったに違いない。  いつも安齋を苛立たせているのは自分だ。  吉田は泣きたい気持ちになった。 「本当にバカで、どんくさくて、クズで。お前はどうしようもないな」 「すみません――」 「お前は安直すぎる」 「すみません」  安齋は腰を上げると、そのまま吉田の隣、尾形の席に座った。 「市制100周年は、まだ二年後だ。それに向けての準備を、市役所から集められたメンバーで担うそうだ。その数たったの四名で、だ」 「そんなに大変なんですね」 「当たり前だ。百年に一度の特別な祭だぞ」  吉田には到底理解できないスケールの話だった。  その特別な祭の年は一体、市役所はどうなってしまうのだろうか――。  それを安齋が中核として担うのだ。  これは市役所職員として、とても名誉なことであるということは理解した。 「その部署は、特殊な指示系統を持つようで、副市長の直轄らしい。副市長と言えば、仕事では融通の利かない、いけ好かない奴だと水野谷課長が言っていた。あの温和な課長がそこまで言うのだ。本当だろうな」 「怖そうですね」 「本庁は外部機関とは違って戦場だ。お前も知っているだろう? 本庁にはよく行くんだ」 「確かに。みんな忙しそうです。たまにくる本庁の振興係の人たちも、仕事ができそうに見えます」  素直に認めた吉田を見て、安齋は「ふふ」と笑みを見せた。  彼の笑みは、吉田にしか向けられないものだと気が付いていた。  あの営業スマイルとも違う。  残忍で無機質な笑みとも違う。  肉食獣の時折見せる優しい瞳の色。 「本庁に行けば、こことは勤務体系も異なる。もしかしたら、週末も休みなしかも知れない」 「じゃあ、安齋さんと会う時間なんてなさそうですね……」  吉田の声は消え入りそうだった。  安齋が能力を買われて抜擢されることは嬉しい限りだが、自分主語で言えば、有難迷惑でもある。  ――もう、会えない?  すがるように視線を向けると、安齋は腕組みをした。 「え?」 「待っていろ」 「待つってどういうこと、なんですか?」  おずおずと尋ねてみると、安齋はイラついたような視線を寄越す。 「本当に、お前には一から説明しないといけないから面倒だ! ——おれの仕事が落ち着くまでは放置する」 「放置? それに落ち着くまでって、いつまでなんでしょうか」 「さあな。もしかしたら、事業すべてが終わるまで。三年だな」 「さ、三年!?」  ――ひ、ひどい!  吉田は目を瞬かせた。 「文句でもあるのか」 「ありますよ。そんなのひどくないですか?」 「お前には人権はない」 「そんな! 本庁に行ったら、その、あの……岡さんって人だっているんですよね?」 「そうだな」  吉田は言いかけたが、不意に安齋の手がデスクを叩いた音で、言葉を切った。  安齋は心底、怒っているような瞳の色だった。 「しかし、なめてもらっては困るな」 「だって……」 「おれはお前のほうが心配だ。神野のような輩にすぐに騙される。おれが抜けた後、どんなやつがくるか知らんが、またすぐにほだされるのではないかと疑っているのだ」 「お、おれは! 安齋さんが好きなんです。安齋さん以外の人間とお付き合いするなんて、絶対にないんですから!」  そう言い切ってしまってから、はったとした。  両手で口元を抑えても遅い。 「なるほど。お前はおれがそんなに好きか」  安齋はニヤニヤと口元を上げる。  顔が熱くなるばかりだ。  きっと真っ赤になっているに違いない。 「言いつけを守れよ。浮気なんかしてみろ。監禁して、死ぬまで飼ってやる」  安齋の腕が伸びてきて、吉田の首筋に触れた。  自然と近づく距離。  吉田は安齋のキスを待ち焦がれるかのように、目と瞑った。  しかし――。 「あ~あ、悪い、悪い。お取込み中だけどよ。忘れものだぜ」  静かな事務室に星野の声が響く。  吉田はたじたじだが、安齋はゆっくりとした動作で星野をにらんだ。 「邪魔しないでくださいよ」 「二人切りも、もう少しだからな。おれだって気を利かせてやってんだぜ? 今日、残業しなかったんだから」 「でも結局は、こうして邪魔しているじゃないですか」  ――な、なに? どういうこと?  吉田は意味がわからない。  なぜ星野が安齋とそういう会話をするのか――。 「狐につままれたみたいな顔するんじゃないよ。吉田~。お前、おれが気が付かないとでも思ってたわけ? も~、本当に頭のネジ、一個足んねーんじゃねーの」  吉田は狼狽えて安齋を見上げた。 「星野さんはおれたちの関係性に、ずいぶん前から気が付いていたんだそうだ。先日の神野の時も、『おれが遅番やってやるから、お前は吉田のところに行ってやれ』って言ってくれて。それで、駆け付けることができたんだ」 「え、えええ! そ、そんな。じゃあ。おれ。――安齋さんとの関係性を暴露されたくないって必死で」 「あ~、そんなの無駄な努力ってやつ? もうバレバレだろう? お前全部顔に書いてあるからな」  星野は愉快そうに爆笑した。  ――ひ、ひどい!  ひた隠しにするために、安齋との逢瀬に応じていた自分は、バカみたいだ。 「そう心配するなって。安齋。吉田には変な虫がつかないように、おれが見張っておいてやるって」 「すみません。星野さん」 「一番、怪しいのが課長だろう? も~、あの人、飄々としながらも、周りのことを惹きつけちゃうんだから。吉田。課長に惚れるなよ」 「ほ、惚れてなんていません! 憧れていますけど」 「ほれみろ」  星野の言葉に、安齋の冷たい視線が痛い。 「ち、違うんですよ。本当に。おれは安齋さんだけで」 「吉田。いい度胸だな。仕置きが必要だ」  ――ひいい、怖い!  おののいている吉田を横目に安齋と星野は意気投合した。 「こんな調子です。星野さん。新しく入ってくる職員がどんな奴になるのかわかりませんが」 「おれに任せろって。だからよ。お前は本庁で暴れ来いよ。野獣なんだからよ」 「はい」  こんな時間はもうなくなるのだろうか。  星野と。  安齋と。  そして自分と。  こうして残業する時間が好きだったのだ――。  それから安齋はあっけなく、本庁へ異動していったのだった。

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