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第3話

「おがぢゃんただいま、慎司連れでぎだぞ」 「慎司お帰り!よぐ帰ってぎでくれだね!ほらほら上がりなさい」  到着するなり、母は嬉しそうに俺を出迎え家の中に招き入れる。相変わらずだだっ広い、田舎独特の古く懐かしい家。  玄関に入って左手には、親戚が集まる時以外襖で仕切られている居間と客間、右手奥には広い台所、その手前には母と父の寝室がある。  俺と兄の部屋があった二階は、おそらく今は、兄達家族が使っているのだろう。勿論、廊下と縁側以外全ての部屋が畳だ。 「変わってねなあ」 「古い家だがらね。でもお風呂は全自動にすたのよ」 「おがぢゃん慎司の荷物客間でいいが?」 「あ、あんにゃごめん、おらがやるから」 「いいいい、おめは今日客なんだがらゆっくり座ってろ」  兄が俺の荷物を客間に持って行き、母は俺を、わらわら(早く早く)と居間に押しいれる。   広さ6畳ほどの居間の座卓には、今年客は俺しかいないというのに、寿司やら唐揚げやら、俺が小さい頃好物だった芋煮やら、沢山の料理が並べられていた。 「おがぢゃん忙しい中こだな用意すねぐでよいっけげんど(良かったのに)、明日会食も家でするんだべ?」 「明日はねえ、法事用のお弁当頼んだっけのよ。んだがら今夜おめにお袋の味思い出すてもらうべど思って。夕飯にはちょっと早えげんどもいいでね!そうそうこの芋煮、真由ぢゃんも手伝ってくれだのよ。真由ぢゃん!慎司来だわよ!」   母が二階に向かって大声で真由ちゃんを呼び、心の準備ができていなかった俺は思わず身構える。兄と真理さんとやらの間に娘がいるのは知っていたが、その愛の結晶である娘に実際会うのも見るのも今日が初めてだ。  はーいという若く瑞々しい声が聞こえ、階段をバタバタと一人の女の子が降りてくる。 「ごめんごめん、イヤフォンでYouTube見でで気づがねがった。ああ!この人がまこっちゃんの弟が!イケメンだべ!ジャニーズみだい!初めますで!こんにちは!」 「あ、初めますて…」  真由ちゃんが現れた途端、昔にタイムスリップしていたような感覚が、突然現代に戻される。 (ん?まこっちゃん?てゆうか大きすぎないか?)  笑顔で挨拶しながらも、俺の頭の中は?マークでいっぱいになっていた。  ポニーテールにさっぱりとした奥二重。  少々化粧もしているようで、田舎にしてはかなり垢抜けた目の前にいる女の子は、中学生か、幼く見積もっても小学6年生にしか見えない。 (あれ?確かあんにゃと真理さんとやらが結婚したのは6、7年前だったよな?)  家族と音信不通だった俺が、母と連絡を取り合うようになったのが、今から丁度6年前。その頃まだタレントだった俺の、当時所属していた事務所に母が連絡してきた。  そこで初めて俺は、父が胃癌であること、去年新しい機械やトラクターを買ったばかりで、借金があることを聞いた。  そしてそのついでのように、兄は俺が家出した後すぐ美里さんと別れ、去年真理さんとやらと結婚し、真由ちゃんという娘がいる事を知ったのだ。  母は、精神的にも肉体的にも相当まいっていて、病気の事は近いうちに誠にも知らせるつもりだが、結婚したばかりの誠に借金の事は言えないと電話越しに泣いていた。   父には絶対俺に連絡するなと言われていたが、一人で抱えきれなかったとこぼす母に、俺は、借金は俺がなんとかするからと全て返済し、その後も定期的に母の口座に仕送りを続けた。  だけど、母が勝手に俺に連絡し、仕送りまでもらっていたことを知った父は激怒し、俺に電話をかけてきた。 『どんだけ金稼いでるんだが知んねがな、おめからの仕送りなんていんね!おめみだいな恥知らずは二度とうず()戻ってくるな!』  最後に聞いた電話ごしの怒声。  父の期待に応えられなかった罪悪感と、結局何をしても、ありのままの自分を受け入れてもらえなかった失望。それから2年後、父の癌は再発し、そのまま帰らぬ人となった。  そう、つまり俺は、父との軋轢や、兄への異常な恋心も相まって、兄の結婚相手の状況も事情も、きちんと把握していなかったのだ。 「慎司、親父の仏壇さ線香供えだが?」 「あ、そうだ」  兄に言われ、俺は居間の床の間に置かれた立派な仏壇の前に正座する。  仏壇には、父の写真だけでなく、祖父母や曾祖父母の写真も置いてあり、皆穏やかな笑顔を浮かべていた。  昔は意識したこともなかったが、先祖代々土地を守り続けてきた松原家のことを思うと、自分の性的な趣向に申し訳なさを感じてしまう。   その上俺は、兄に恋焦がれ、奥さんが出て行ったことを密かに喜んでいるのだから、父をはじめ、仏壇やお墓にいるご先祖様にとって罰あたりな招かれざる客でしかない。 「慎司、いづまでおっちゃんの写真ぼーっと見でるの?わらわらお線香あげで、そすたらみんなで夕飯食うべ」  母に急かされ、俺は蝋燭の火にお線香を近づける。昔祖母が、お線香から立ち登る煙は、あの世とこの世の橋渡しで、仏様と心を繋げることができるのだと言っていた。  ここでうまく火がつかなかったら、父から拒否されてると判断して東京へ帰った方がいいかもと半ば本気で思ったが、お線香には無事火が灯り、俺はホッとしながら香炉に立てて合掌する。  死者との対話は、周りの人間まで厳かな気持ちにさせるのか、その時だけ、辺りが静寂に包まれたような気がした。 「よす!じゃあ食うべが」  兄の声で、再び部屋に和気藹々とした空気が広がる。 「慎司さんて東京のどさ住んでるの?」 「新宿だよ」 「新宿!東京の中でも有名な所だべ!」  頭の中ではずっと疑問が渦巻いているけど、今真由ちゃんがいる前で、どういうことなのか聞けるはずもない。 「慎司ビール飲む?」 「じゃあもらうべがな」 「慎司ビール飲むのが?あの高校生だった慎司がな」 「高校生だったって、あんにゃいづの話すすてんだよ、もう32歳、立派な大人」 「そういえば慎司さんてなんで高校生の時家ですたの?」  なんの前触れもなく、いきなり直球で投げかけられた真由ちゃんの質問に、一瞬空気が固まった。 大人っぽく見えるがさすが子供、自分達のように、なんとなく聞かないでおこうという遠慮が全くない。 「都会への憧れみたいな感ずかな」 「わがるー!おらも渋谷どが言ってみでえもん!いづまでもこだな田舎にいだぐねって思ってすまうよね!」  俺の返事を素直に受け止め納得している真由ちゃんの様子に、悪い子ではないんだろうなと思っていると、突然真由ちゃんが、そうだ!と言って立ち上がり部屋を出ていく。  あっという間に階段を上り降りし戻ってきた真由ちゃんは、A4サイズの本を手に持っていた。 「見で見で!」 「ゲ!」  その本の表紙を見せられた途端、自分でもどこから出しているのかわからないおかしな声が出る。 「真由ぢゃん!ほだな物いいがらすまって!」「えーやだ!折角慎司さん来るって聞いだがら、自分用にAmazonで買ってサインすてもらうべど思ってたげんど」  それは、芸能界をやめる前、おネエタレントMISAとして出した、最初で最後の写真集。  幸い結構な売れ行きで、お世話になった事務所に体裁をとることができだが、かなり際どい写真やインタビューもあり、母や兄のいる場所に持ってこられるなど羞恥プレイでしかない。 「おめこだな写真集出すてだのね、知らねがったわ」 「慎司さん凄く綺麗だよ、ほらこれどが」  母と真由ちゃんが二人でページを開き始め、恥ずかしすぎて居た堪れなくなっていたその時 「もうやめろ!慎司嫌がってんべ!」  珍しく兄が声を荒げ、キャッキャとはしゃいでいた二人は、ばつが悪そうに黙り込む。 「だって…」 「真由!」  何かしら口答えしようとする真由ちゃんを、兄がさらにきつい声で窘め、真由ちゃんは唇を尖がらせシュンとしてしまった。 「悪いっけわよ(悪かったわよ)、真由ぢゃんサインは後でにすんべ、さあさあみんな、食って食って」  母が素直に謝り助け舟を出してくれたおかげで、なんとかその場は収まり、話題を変えながら再び皆食事を始める。  落ち込む真由ちゃんに、少しの申し訳なさを感じながらも、俺は、大人になっても変わらず、自分が困っていると助けてくれる兄に惚れ直していた。 (それにしても、あんにゃちゃんとお父さんしてるんだな)  兄の家族事情については、真由ちゃんが寝た後、それとなく母や兄に聞いてみようと心に決め、俺は好物の芋煮を頬張った。  しかし数時間後、今時の子どもはそう簡単に眠らないことを知る。  洗い物や片付けも一通り終わり、全員がお風呂に入った後も、真由ちゃんは自分の部屋に戻ろうとせず、とにかく俺に興味津々で話しかけてきた。 「慎司さんて男なのにお風呂あがり色っぽい!やっぱり芸能人は違うよね、全然太ってねす!」「いやいや、もうやめてっから、それにジム行ったりなんだり、一応メンテナンスすてるすね。なんもすねぐてピチピチな真由ぢゃんこのますいよ(羨ましいよ)」 「えー、でもおら自分の足どが太ぐでヤダ!もっとスラッどすてえ、クラスの男子にも太ももムチムチどが言われてむかついだす!」 「そいづ真由ぢゃん好ぎなんでね?」 「絶対ねす!おら男なんて大嫌いだす!」  このくらいの女の子は、好きな男の子の話で盛り上がっているイメージがあったから、俺は、真由ちゃんのあまりにも強い口調に面食らう。 「あ、でも慎司さんは別!全然男って感ずすねす」  まあ俺はおかまだからねと心の中で応えながらも、ありがとうとだけお礼を言った。  色々と話しているうちに、真由ちゃんは春休みが終わったら中2になることがわかり、そのまま自ら家庭の事情を語り出す。 「おがぢゃんとまこっちゃんが結婚すた時、おらもう小学生で、おっちゃん(お父さん)なんていだごどねえっけから、恥ずがすくて呼べねぐでさ。それに、どうしぇすぐまだ男変わると思ってだんだ。まこっちゃんとはよぐもった方だど思う。まあ、飲み屋でバイト始めでえって言いはずめだ時がら怪すいなどは思ってだげんだげどね」 「そ、そうだったんだ」 (なんつう女と結婚してんだよ、あんにゃは)   兄と母が苦笑いしている中、俺は初めて聞く話に驚愕する。  俺はてっきり、兄は美里さんのようなしっかりした女性と結婚したんだろうとばかり思っていたから、バツイチで子持ちのシングルマザーまでは全然納得できるが、娘に男取っ替え引っ替えだったと言われる女性をあえて選んだ兄の趣味の変わりっぷりに驚きを隠せない。 (まあ、あんにゃは人がいいから、真理さんとやらの本性に気づかなかったのかもな) 「でもまこっちゃんてほんてん人が良すぎるよね。だってまこっちゃんと出会った頃がらおがぢゃん他に男いだす。 まこっちゃんのおっちゃんが亡ぐなってこっち来る前もさ、おがぢゃんアパートに若え男連れごんだごどあって、おら絶対今度こそおがぢゃん離婚されんべなって思ってだのに許すてだもんね」    分かってて結婚したんかい!と心の中でつっこみながらも、それでも結婚したいと思うほど、真理さんとやらが好きだったんだと思うと心が痛くなる。 「真由ぢゃん、おらだはそろそろ寝んべが、久すぶりに兄弟2人で話すてえごどもあるど思うから」  さすがにこれ以上聞いてられなかったのか、母が真由ちゃんに声をかけ、真由ちゃんは渋々不貞腐れた声でおやみなさいと言い、居間から出て行った。   二人きりになった部屋で、兄が申し訳なさげに口を開く。 「なんていうが、色々悪いっけな。 うぢの借金や親父の癌最初に発覚すた時、おめが仕送りすてお袋の事助けてぐれでだんだべ、おらが親父の病気や借金のごど知ったの、癌が再発した時だったから」  思いもよらない兄の言葉に、俺は首を振って反論した。 「それは違う!近ぐにいでお袋や親父ば支えだのはあんにゃ達だべ?おらは両親にすこだま迷惑がげだす、お金ぐれすか出しぇねがったがら、謝らんなねのおらの方だ!」  すると兄は優しく微笑み、不意に俺の頭を撫でてくる。 「おめはほんてん変わんねな。優すくて、自分より他人の気持ちを優先する」 (やめてー!俺全然優しくないし!昔みたいに頭撫でてくるとか、マジこのまま抱かれたくなるから本気でやめてー!) 「それがら、真由のごどもごめんな。気持ぢの優すい子なんだげんど、思ったこと何でも口さ出すてすまうんだよな。おめには詳すく言ってねがったげど、真由は、真理が10代の時に産んだ子で、んだげんど、おらにどっては大事な娘なんだ」  兄の真剣な口調に、頭を撫でられてうっとりしてる場合じゃないと我にかえり、首を横に振った。 「大丈夫、話すてればわがるよ、いい子なんだべなって、ただ、真理さんて…」 「真理とは、農協で働いていた時、同僚との付ぎ合いで行ったスナックで出会ったんだ。恥ずかしいげんども酔った勢いで…」  よくある話といえばそうだが、酔った勢いでも兄とセックスできる女という生き物がやっぱり羨ましい。  まあ、男女の前に俺と兄は兄弟なのだから、何があっても無理なのだけど… 「真理はあまり結婚どがに興味なぐで、妊娠なんてもう二度としたぐね!っていう女だったがら、おらも正直、一夜の過ちみだいに思ってだ。 んだげんど、真理の部屋から出て行ぐ時、自分の母親と寝だ男ば見送る真由の、氷みたいに冷めたまなぐ()が頭から離れねぐなって…。 あの子はちゃんと小学校通えてるんだべが?とが、一度寝ただけでなげるなんて(捨てる)、おらはあの子さ、大人の汚え部分見しぇだっけ(見せてしまった)どが、色々考えだすてすまって…」「…それって、真由ちゃんのために結婚すたってごど?」 「いや、真由のだめでいうより、一度男女の関係を持ったがらには、男だったら責任取んべきなんでねがど思ったんだ」  兄の言葉に俺は絶句する。お人好しとは思っていたが、まさかここまでとは… 「おらがプロポーズすた時、真理は生真面目すぎるって笑ったげど受け入れてぐれで、元々おらがいずれ家業の農家継いでも農作業は一切手伝わねっていうのが結婚の条件だったんだ。 慎司は身勝手な女だと思うがもすれねんだげんど、真由ど3人、家族として幸しぇに暮らすてた時期もあったす、親父が亡ぐなって、こっち連いでぎでぐれって頼んだ時も一緒さ来て我慢すてぐれでだ。んだがらおらは、出でっだ真理責められね」  兄の話は、一見筋が通った男らしい言葉に聞こえるが、俺は妙な違和感を覚える。 (なんだろう?この変な感じ) 「あんにゃはさ、真理さんに戻って来てほすいど思ってるの?」 「そりゃ当たり前だべ、家族なんだがら、家族になったがらには、ずっと一緒にいるのが幸しぇに決まってる、真由だって、母親がいだ方が幸しぇだべ」  そこまで聞いて、俺は違和感の正体に気づいた。 「違う!家族なんだからどうどがじゃなぐで、あんにゃは真理さんのごど愛すてるのがって聞いでるの!さっきから、一度寝たがらには責任とらねぐぢゃどが、我慢すてぐれでだがら責められねどが、全然あんにゃ自身の気持ぢが見えねんだげど!」  兄の話を聞く前まで、俺は、兄と結婚した真理さんとやらが羨ましくて、逃げ出すなんて気が知れないと思っていた。  なのに今、俺はなぜか真理さんに同調している。 『おらは慎司がへな子(女の子)だったどすても抱がねよ、おめは大事な家族だがら』  真理さんと俺とでは、妻と弟で全く立場は違う。だけど、好きで一緒にいたいという愛情よりも、責任や家族だという理由で共にいる事を求められるのは、女として幸せなのだろうか?  それが結婚というものなのかもしれないけど、俺は兄の、家族なんだからという言葉を、逃げのように感じてしまったのだ。 「わがんね…」 「え?」  だが、俺の質問に、兄はまるで途方にくれた子供のように応える。 「おらはただ、女性と付ぎ合ったら、結婚すて、家族ば作って、男は何があっても家族ば守って、それが当たり前の道なんだべど思って生ぎでぎだがら」 「ごめん、わがんねってどだなごど?大学生の時、あんにゃ美里さんと付き合ってたよね?その時はちゃんと好きだったでしょ? 愛してるって言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、会いたいとか触れたいとか、キスしたいとか抱きたいとか、そういう、恋人同士ならごく普通に湧き上がってくる感情のことを言ってるんだけど?」  兄の言っている意味がわからず、俺はいつの間にか方言が抜け、標準語のきつい口調で兄を問い詰めていた。  兄はしばらく腕を組んで考えこんでいたが、徐に口を開き驚くべき事を口にする。 「みさのごどは好ぎだったげんど、向こうから告白すてくれだがら、会いだぐで恋い焦がれるとか、テレビドラマみでな感覚はわがんね。 もぢろん時々セックスはすてだす、みさが主導的だったがら有難えっけよ、ただ、抱ぎでえと強く思うどがはなぐで。真理と寝だ時も、正直酔ってだがら全然覚えでねえし、真理がおらに物足りなくなるのもわがるでいうが…」  初めて聞く兄の告白に、俺は愕然とした。  自分みたいな仕事をしていると、あらゆる性的マイノリティな人々に出会うため、自然と知識が豊富になるのだが (知らなかったし気づかなかったけど、あんにゃって無性愛者じゃね?)  無性愛者とは、誰かに対して性的に惹かれる感情が全くわかない、あるいは性的欲求が少ないため、恋愛感情が理解できない人間のことだ。  そう考えれば、理解し難い兄の、真理さんや美里さんに対する言葉も納得がいく。 (そういうことだったのか)  全てが腑に落ちて、俺はなんだかガックリと力が抜けてしまった。 「おかしいって呆れたが?」  兄が心配そうに聞いてきて、俺はそんなことないと首を振る。 「呆れてなんてねよ、ただ、そうだったのがって思っただけ」  ゲイで実の兄に恋する弟と、無性愛者で誰にも恋愛感情を抱けない兄。  父や松原家のご先祖様には申し訳ないが、それが俺達兄弟なんだから仕方がない。 「まあでもほんじゃ、家出する前のおらの言葉の意味もわがってねえっけよね」  兄が無性愛者だとわかった途端、俺は、今も心の大部分を占領している恋心を、無理に隠さなくてもいいのかもしれないと思った。  兄に好きだと伝えてもきっと、ごめん、よぐわがんねで終わり。男だろうと女だろうと、はたまた血を分けた兄弟であろうと、恋がわからない兄の前では、ある意味誰しも平等。 「わがってたよ」 「え?」  兄の顔が不意に俺に近づき、その唇が俺の唇に触れる。さっきまで話していた内容とあまりにも矛盾した行動に呆然としていると、兄は熱っぽい目で俺を見つめて言った。 「あの日おめにキスされだ時、はっきりど分がったんだ。やっぱりおらも、自分がらどうにかすてえって思うの、慎司さ対すてだげなんだって…」  一瞬何が起こったのか理解できず、体が硬直する。 (あれ?これ俺の妄想?俺今白昼夢見てる?)「慎司~!」  信じられない告白の余韻に浸る間もなく、母が突然居間に入ってきて、俺達は慌てて近づきすぎていた顔を互いに逸らした。  母は俺達の不自然な様子に気づくことなく、久々さ兄弟揃ってるのいいわねと、機嫌良さげに笑顔を浮かべる。 「そうそう言い忘れでだんだげんど、おめの部屋もうどっくに真由ぢゃんの部屋になってっから、客間の押入れさ布団置いでおいだがら自分で敷いでね」 「も、もぢろん!」 「明日早えんだがら、積もる話もあんべんだげんと、もうそろそろ寝なさいよ」 「わがってっず」  平静を装い母に返事をしながら、俺は、もう一度兄の顔を見やる。兄は、母が出て行くのを目で追い確認した後、再び俺の顔を真っ直ぐ見つめて言った。 「困らしぇるようなごど言って悪いっけな。んだげんと、本気だがら…」 「…うん」 「遠ぐがら来でくたびったべ。今日はゆっくり休めよ。おやすみ」  俺の頭を撫で、名残惜しげに居間から出て行く兄の後ろ姿を眺めながら、俺は心の中で叫んでいた。 (こんなんされて寝れるかー!)

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