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第一章 少年時代 3 少年の日の終わり

 春の良き日、馨は六年通った小学校を卒業した。今年は桜の開花が早く、三月の時点で既に満開だった。入学式の頃には全て散ってしまっているだろう。  憧れの制服に袖を通した馨は、遼真に見てほしくて、そして褒めてほしくて、一目散に家に帰った。式に出席できないならせめて学校まで迎えに来てくれるくらいのことはしてくれてもいいのに、最近の遼真は馨に対して少し冷たかった。  家へ向かう坂道でトラックとすれ違った。道が狭いので、端に避けて道を譲った。遼真の家に着いて呼び鈴を鳴らすと、すぐに母親が顔を出す。 「あらあら馨ちゃん。どういたが? 今日は卒業式やき、お友達と遅くまで遊んでくるがやないの?」 「へ? そがな約束は全然ないですけんど……りょーま、おらんがですか?」  母は驚いたように目を瞬かせ、躊躇いがちに口を開いた。 「ひょっと馨ちゃん……あの子から聞いちゃあせんがかえ?」 「はぁ、何がですか?」 「あの子、今日引っ越しじゃったのよ。遠くの高校に受かったき、春からあっちで一人暮らししよるきに……」 「引っ越し……?」  馨にはまさに青天の霹靂だった。麗らかな春の空を真っ黒な曇天と錯覚してしまうくらいには衝撃だった。そして次の瞬間、さっきすれ違ったトラックを思い出した。もしかしてあれに遼真が乗っていたのではなかろうか。馨は踵を返して元来た道を駆け戻った。  途中足を滑らせて転び、掌を擦り剥いた。真新しい制服は泥で汚れ、胸の花飾りは落ちてどこかへ行ってしまった。馨はそれでも立ち上がり、無我夢中でトラックを追いかける。郵便局前のバス停からさらに道を下ろうとすると、後ろから馨を呼ぶ声がする。 「待ちぃや馨ちゃん、どこ行くが」  遼真の母が自転車を走らせ追って来た。 「急に走り出して、おばちゃんびっくりするやないの。速うて追い付けんか思たわ」 「じゃけどあのトラック……あれ、りょーまが乗って……」 「乗りやせんよ。ありゃ荷物しか乗っちゃあせん」  馨は再び道の向こうを見やる。曲がりくねった山道なので、突然道が途切れてしまったかのようにすぐに先が見えなくなる。あのトラックはとっくに遠くへ行ってしまって、たとえ死に物狂いで走ったって決して追い付けやしない。  馨はゆっくりと視線を落として俯き、再び元来た道を戻った。家へと帰る道である。遼真の母は自転車を降り、押しながら馨の隣を歩く。 「ごめんちや。まさか馨ちゃんになんも言わんでおったらぁて思わんで。後で連絡するようきつう言うちょくきに」 「……近くの高校行く言うちょったのに……」 「うちもずっとそのつもりやったけんど、今年の秋頃から急に、大阪の進学校に行きたいらぁて言い始めて。寮があるき安う済むち言い包められてにゃあ。あの子、馨ちゃんには自分の口から報告したい言うて、やきうちもみんなも言わんでおいたのよ。ほんに、ごめんねぇ」  家に着くと、制服を汚したことで叱られた。着て半日も経っていない制服は早速クリーニングに出された。馨の予想通り、入学式までに桜はほとんど散って葉桜になった。  *  中学に上がり、馨は弓道部に入った。遼真がここの部長をやっていたので、上級生達は皆遼真のことをよく知っていた。試験はいつも満点で、下級生にも同級生にもよく勉強を教えていたとか、練習日でなくともよく独りで自主練習をしており、その弓を引く姿が凛と引き締まって恰好よかったとか、皆口々に遼真を褒めた。  先生達も、遼真のことをよく知っていた。馨が遼真と同じ地区の出身で家も近かったから兄弟のように育ったということを知ると、何だかんだと遼真のことを尋ねてきた。大阪の何とか言う高校へ行ったことしか知りません、と馨が答えると、もし近況がわかったら報告してほしいなどと言う。  遼真は教師の覚えめでたい優等生だったらしいが、一方の馨はそうでもない。運動はそこそこだが勉強はからっきしな上、そもそも男で髪の長いのは校則違反だということで叱られ、年単位で伸ばし続けていた長い髪はばっさりと切ることになった。  中学生になって勉強はますますわからなくなった。算数は小五頃からずっとわからないままである。新科目の英語もわからない。しかし教えてくれる遼真はどこにもいない。ゴールデンウィークには帰ってくると思っていたのに帰ってこない。お盆にも、正月にだって帰ってこない。  遼真の母親は、馨に遼真の携帯番号を教えてくれた。しかし電話をかけたことは一度もない。向こうからも、馨の自宅の電話番号は知っているはずなのに一度も掛かってこない。  遼真自身は地元へ全く帰ってこないが、遼真の母は頻繁に大阪へ出向いていた。時々お土産を持って馨の家に来て、あちらでの遼真の様子を聞かせてくれた。都会での一人暮らしはどんな感じだとか、部活は何を始めたとか、長期休暇も忙しいとか。しかしそんな話よりも、馨にとってはお土産の豚まんの方が重要で、次は二箱買ってきてほしいなどとねだった。  遼真がよくそうしていたように、馨も休みの日に時々学校の弓道場へ行って一人弓を引いた。遼真は、弓を引くと集中できるから好きだと言っていたが、馨にはその感覚はあまりわからなかった。雑念ばかりなのでなかなか的中しないが、独りで物思いに耽るにはちょうどいい場所だった。  中二の前期、馨は生徒会役員をやった。遼真は三年の前期に会長を務めていたというが、さすがに荷が重いのでやめた。平役員は選挙がないので楽だったし、仕事も雑用ばかりで甚だ暇であった。部活の方がまだやりがいがあった。  中三の夏、馨は初めて村祭りの神輿を担がせてもらった。ようやく、あの時の遼真の身長に追い付いたのである。しかしだからといって特別楽しいこともなく、担ぎ棒は肩に食い込んで跡になるほどずっしりと重かったし、村の男衆に揉まれて暑くて汗だくになっただけだった。来年はきっと参加しないだろうと思った。  春になり、馨も高校生になった。電車で一時間半の距離にある県立の工業高校に通う。遼真は、三年間一度も帰省しないまま東京の大学に進学した。東京なんて飛行機を使わなくては行けない場所だ。馨にとっては、地球の裏側と同じくらい遠い場所に思えた。それならいっそ月に行く方が近いように思えた。  部活は剣道部に入った。しかし厳しいばかりで何が楽しいのかさっぱりわからず、一年もせずに辞めてしまった。授業風景は中学までとはずいぶん変わり、机に座って黒板を眺めるだけの時間は減った。代わりに実習や実験があり、学校に促されるまま、馨は三年間でいくつかの資格を取得した。  高校卒業後、馨は県外の企業に就職し、初めて親元を離れた。

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