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第二章 邂逅 2 競馬場①
今日はG1の重賞レースがあり、馨は近場の馬券売り場へ行って競馬新聞と睨めっこしていた。隅の方の柱の陰にうずくまって、鉛筆を舐めながらどの馬券を購入するか考えている。時々オッズを確認して、レース開始ぎりぎりまで待つ。
「馨ちゃん」
いきなり肩を叩かれ、びくりと顔を上げた。こちらを覗き込むその男の顔を確認するや否や、馨は肩を掴むその手を叩き落とす。
「おんしゃあ、はよ去ね言っつろうが」
「せっかく十何年ぶりに会えたんだからもうちょっと――」
「やかましい。しわいで。おまんなんぞ知らん」
「馨ちゃ――」
馨は遼真の手を跳ね除け、小走りで馬券を買いに行った。伸び放題の髪は、今日は一つに結われている。馬の尻尾のように左右に大きく揺れる。
馨は慣れた手付きで発券機に一万円札を突っ込んで馬券を買った。馨を追いかけてきた遼真はなおも食い下がって馨に構おうとする。馨はしつこく追いかけてくる遼真から逃げる。子供のような追いかけっこをするわけではないが、柱をぐるぐる回ったり階段を上ったり下りたり、人波を縫ってフロアを行ったり来たりする。
「しわい! おまん、しょうまっこと汚いちや。わしが逃げれん思うてこがなとこまで追いかけてきよって」
「なぁ馨ちゃん、僕この間村に帰って、馨ちゃんのお母さんにも会ったんだ」
「ほれになんなが、そん喋り方は! すかしくさって」
「お母さん、馨ちゃんが上京したっきり連絡取れなくなったって心配してたよ。だから、」
「やかましい言いゆうが! こっち来なや!」
「ねぇ、そう怒らないで。一回村に帰ろうよ。いつまでもこんな生活してるわけにいかないだろう。僕だって、馨ちゃんのことがずっと心配で、気掛かりだったんだ。だから――」
その言葉に馨は突然立ち止まった。遼真も立ち止まって何某かを言おうとするが、その前に馨は拳を高く振り上げ、強かに遼真の頬を打った。
場内はにわかにざわつく。小汚いおっさんも貧乏そうな学生も主婦らしいおばさんも皆、好奇心から馨と遼真のことを遠巻きに見ている。喧嘩か? などと期待するような野次が飛ぶ。職員がやってくる前に、馨は声を張り上げた。
「今更! 今更何言いゆうがよ!」
「馨ちゃ――」
「おんしゃあわしを捨てたくせに! わしを置いて行ったくせに! 今更何を言い訳したって、なんもかんも遅いちや!」
そう吐き捨てて、馨は逃げるように階段を駆け上がった。遼真は頬を押さえて立ち尽くす。職員が来て警察を呼びましょうかと言うので断って、代わりにメモ用紙を一枚もらった。
馨は四階のモニタールームでレースを観戦する。今日のメインレースがそろそろスタートするので、階段の隅や踊り場や柱の陰や床にうずくまっていた人達がわらわらと集まってきてモニター付近は混雑する。馨も、買った馬券と競馬新聞をくしゃくしゃに握りしめてモニターを凝視する。
「馨ちゃん」
再び、あの声がした。懐かしく、優しい響きのある声だ。肩を叩かれる前にその手を払い除けようとしたら、逆に掌に紙切れを掴まされる。
「なん……」
「僕の電話番号。何かあったら連絡して」
「は? やき、わしゃあおまんなんぞ知らんち」
「うん。嘘ついて、ごめんちや。ほいじゃあ」
「あっ、りょ……」
振り返るも、遼真の姿は遠かった。小さな後ろ姿が人波に掻き消されてすぐに見えなくなる。馨は軽く地団駄を踏み、手に握らされた紙切れを開いた。なるほど、確かにそれは携帯電話の番号らしかった。びりびりに破り捨てることも可能だったが、馨はそれを乱暴にポケットに仕舞った。
気づくとレースは始まっていて、もうほとんど終盤に差し掛かっていた。今日も負けが込んだ。
*
職場からの帰り道。地下鉄のホームで電車を待っていると、背広のポケットに仕舞ったスマートフォンが振動した。公衆電話からの着信である。通話ボタンを押してスピーカーに耳を当てる。しばしの沈黙と風の吹くような雑音の後、電話の向こうでぼそぼそと声がした。
「……わし、じゃけど……」
「なんだぁ、馨ちゃんか。何も言わないから誰かと思ったよ」
「別に、何ちゃあじゃないけんど……こないだは、殴ってもうて悪かったのう」
この間とは言うが、既に一か月ほど経過している。その間遼真は忙しく、馨探しの旅はしばらく中断していた。
「いいんだ。僕の方こそ悪いことをしたよ。馨ちゃんの気持ちを考えてなかった。ごめんね」
「……そがぁに易う謝りなや。おまん、やっぱり昔と変わっちゃあせん」
「馨ちゃんは、大分変わったね。背がうんと大きくなって、髪もあんなに伸びて。まるで知らない人みたいだったよ」
「背で言うたらおまんの方が……」
ちょうど電車が来た。強風に煽られる。駅員のアナウンスが入る。
「ひょっと、今仕事帰りなが?」
「まぁ、忙しい時期だからね。けど終電じゃないからまだ楽な方だよ」
「ほいたら電話なぞしゆう場合やないのう。はよ帰りや」
「うん、でも、せっかく馨ちゃんが掛けてくれたんだし、切っちゃうのはもったいないよ」
再びアナウンスが入り、発車のベルが鳴った。遼真はホームのベンチに腰掛け、電車を見送った。電話の向こうでは度数切れを知らせるブザーが鳴って、馨が慌てて小銭を追加する音が聞こえた。
「馨ちゃん、携帯電話は持っていないのかい」
「前は使っちょったがやけんど壊れてもうて、修理も面倒やきそんまま捨てた」
「そう。不便じゃない?」
「まぁ、電話する相手もおらんき。公衆電話も近くにあるきに」
今時は小学生でも一人一台スマートフォンを持たされているというのに、馨も馨の住む街も時代に逆行しているとしか言いようがない。
「けど、あんまり長電話すると小銭がなくなって困るだろう。まだ残ってる?」
「ん、もうあと一枚しかのうなった」
「にゃあ馨ちゃん。今週末、またあの競馬場に行こうと思うんだけどいいかな。馨ちゃんも来てくれるかい」
「……勝手にしやぁえいろ。わしゃ行かん」
「それでも僕は行くよ。まだ話し足りないことばっかりなんだ」
「にゃ、時間ならまだ余って――」
「いや、もう電車が来るんだ。終電だから逃すわけにはいかないよ。ごめんね」
電話越しにも、馨が溜め息を吐いて肩を落とすのが遼真にはわかった。
「……わしゃあ、何もおまんと話がしとうて電話したわけやないき……」
「うん、わかってるよ。でも僕は、短い時間だけでも馨ちゃんと話せて嬉しかった。電話くれて嬉しかったし、元気そうで嬉しかったよ。本当はもっと話したいんだけど……」
電車がホームに入ってきた。アナウンスが流れる。遼真はベンチを立つ。
「ごめんね、もう乗らないと。電話切るよ」
「あ、まっ……」
「何だい?」
「な、なんちゃじゃない。早う切りや」
「うん。おやすみ、馨ちゃん。いい夢をね」
ドアが閉まり、発車のベルが鳴る。乗客は疎らで席も空いていたが、遼真はドア付近に突っ立って、まだ耳に残る馨の声を反芻した。
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