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第十章 蜜月
さて、帰省を終えて東京に戻ってからが大忙しだった。まるで止まっていた時計がいきなり倍速で針を回し始めたようだった。
まず縁組の届出をして、二人だけの新しい戸籍を作った。馨は名字を変えた。これからは遼真と同じ名字を名乗る。運転免許証の名義を変えた時が一番実感した。これからは誰が何と言おうと、契りの続く限り二人は永遠に家族だ。この絆を引き裂けるものなど、この世に存在し得ない気がした。
次にパスポートとビザを取得し、ほんのわずかな間だが語学学校へ通った。同時に引っ越しの準備も進めた。要らないものは捨てたり売ったりリサイクルに出したり、帰国後使いそうなものはトランクルームを借りて保管することにした。必要な荷物は船便や航空便で送った。
そして、いよいよ出国の日。成田空港第一ターミナルから、馨は初めて日本を飛び出した。太平洋を横断し、日付変更線を越える。乗り継ぎの時間も含めるとおおよそ二十四時間かけて、カリブ海に浮かぶ小さな島国へと降り立った。
*
以前の住まいよりもかなり広いアパートメントで、新しい生活が始まった。広いリビングダイニング、明るいバルコニー、なぜか二つある寝室。大きなベッドが備え付けてあって、ふかふかの大きなソファもあって、キッチンも綺麗になっていて、家電なんかも全部揃っている。
街に出てみると、日本とは大分様子が違う。首都とはいえ随分と素朴な感じがする。住んでいる人は多く、車通りも多く、商店も活気があるが、渋谷のスクランブル交差点のような、ごちゃごちゃした広告や看板がひしめき合っている地帯は一切ない。
また、全体的に建物が古くてレトロな感じだ。植民地時代の建物を何度も塗装し直して使い続けているらしい。そのためか、その色遣いはかなり鮮やかだ。ピンク色やクリーム色、水色や黄緑色の壁も多い。高層ビルもあるにはあるが、再開発された極々限られた狭い範囲にのみ建っている。
食べ物は、南国らしいトロピカルフルーツが豊富だ。近所の市場へ行くと、新鮮な果物がいつでも山盛りになって売られていて、頼めば味見もさせてくれる。もちろんフルーツ以外も買うが、たくさん売っているのでどうしても多く買ってしまうし、あればいくらでも食べてしまう。馨の現地語はいまだ拙く、週末に遼真と一緒に買い出しに行くのが常だ。
日本と比べて不便に思うことも多いし、慣れないことも多々あるが、住めば都とはよく言ったもので、この新しい生活を馨は楽しんでいた。
*
「今日は少し遠出しない?」
普段通り買い物に行くつもりで車に乗ったら、遼真がそんなことを言った。
「どこ行くが?」
「隣の州かな」
「何があるがや」
「海が綺麗なんだって。馨ちゃんと一緒に見たくて」
はにかんで言う遼真がかわいい。
「いかん? ちっくと遠いかも」
「えいえい。早う行こうや」
遼真はほっとしたような顔をして、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
市街地を抜け、海沿いの街道を飛ばす。見慣れた風景だが、遼真と二人でデートだと思うと胸が浮き立つ。窓を開けると潮風が舞い込み、優しく頬を撫でていく。日本は既に秋だが、ここ常夏の国はまだ夏真っ盛りである。
「にゃありょーまぁ、喉渇いた」
「炭酸ならそこに」
「腹も減った」
「ごめん、食べ物は持ってないや」
「やき、ちっくと寄り道。えいろう?」
遼真の袖をくいくい引っ張り、窓の外を指さした。海に面した小さな街がある。
郊外の街だが、それなりに栄えていた。商店があり、人通りもそれなりだ。そして街角は常に音楽で溢れている。どこからかラテンのリズムが聞こえて、音を頼りに歩いてみると、四人組のバンドがストリートでパフォーマンスをしている。コンガとボンゴを叩き、ギターを鳴らし、サルサを踊る。陽気で情熱的な音楽だ。
もちろん人だかりができていて、子供が元気に飛び跳ねていたりして、馨もまた手拍子をしながら肩を揺らした。すぐそばにはアイスクリームパーラーがあって、ここも客が入っている。
「アイス、食いたい」
「うん、えいよ」
馨がストロベリーで、遼真はチョコレートを選んだ。町の人達で賑わっているテラス席で食べた。アイスは使い捨てのカップではなく、涼やかなガラスの器に盛られている。それを銀のスプーンで掬って食べる。甘くて冷たくて、不思議な高級感もある。
「チョコも食いたいにゃあ」
「じゃあ一口交換しようか」
同時に口に含むと、ストロベリーの甘酸っぱさとチョコレートの濃厚さが口の中で混ざり合って、贅沢な味がした。
海沿いの街だからもちろんビーチがある。こじんまりしているがさすがは美しいカリブ海だ。白い砂浜と、透き通った海が広がる。浅瀬は薄いグリーンで、沖へいくほど濃いブルーへとグラデーションを描く。水平線と交わる澄み切った空は、海よりももっと深い紺碧に光っている。
「おまんが言うちょった綺麗な海ち……」
「ここじゃないけど、この海も綺麗だね」
馨はサンダルを脱ぎ捨てて、裸足で渚を駆けた。さらさらの砂が足の裏をくすぐる。海の水は冷たくて心地いい。脱ぎ捨てたサンダルを持って、遼真が慌てたように追いかけてくる。
「足濡れちゃうよ」
「構わん。どうせすぐ乾くき」
「けど、タオルとかないし……わっ」
遼真は靴を履いたままだから、濡れないように波を避けて走る。
「にゃははぁ、りょーま、まっこと遅いちや。しゃんしゃん走りや」
「そがなこと言うなら、本気で行くよ」
「捕まえれるもんなら捕まえてみぃ。ぜーったい、捕まらんき」
波打ち際を全力で駆ける。照り付ける陽射しと、爽やかな海風を全身で感じる。どんどん息が上がって、心臓が胸を打つ。振り向くと、遼真がすぐそばまで追い付いてきている。やっぱり、本気を出した遼真には勝てない。
と、濡れた砂に足が縺れて転んだ。同時に遼真に捕まえられた。勢いよく滑り込むようにして、二人縺れ合って白い砂の上へとダイブした。
見上げれば眩しい空。波の寄せる音が耳元で響く。カモメが飛んで、その影が頭上を通り過ぎる。隣には遼真が大の字に寝転んで、同じように空を見ている。急に可笑しくなって、馨は声を出して笑った。つられて遼真も笑った。疲労が爽快だった。
「はぁあ、こじゃんとだれたわぁ。おまん、本気出しすぎじゃあ」
「馨ちゃんだって、全力で走ってたろう。もう、こんなに砂まみれになっちゃって、どうしてくれるの」
「そがなん、払い落としゃあえい」
馨は立ち上がり、尻を叩く。ポニーテールにも砂が入り込んでいて、頭を振るとぱらぱらと音がした。
それにしても暑い。汗だくだ。浜辺のジューススタンドで、ココナッツジュースを買った。椰子の実を割ってストローを挿しただけのものだが、よく冷えていたし、仄甘くて美味しい。椰子の木の影に並んで座って陽射しを避けて、海を見ながらジュースを飲んだ。ちなみにココナッツは中身も可食であり、店の人に取り出してもらって食べた。
さて、そろそろ休憩は終えて再出発だ。海沿いの街道をひた走る。内陸側は一面サトウキビ畑で、風の吹き抜ける音が聞こえてくる。
やがて辿り着いたのは、海の見える丘の上に建つ古びた教会だった。大仰な彫刻などは一切ない素朴な石造りで、一つの尖塔が天高くそびえている。まさに村の教会という趣だが、神父もいなければ信者の一人もいない。ひっそりと静まり返っている。
「ここ?」
「うん。入って」
内装もやはり素朴だ。というか、これはもはや素朴を通り越して廃墟だ。壊れたベンチが四方に転がり、壁が剥げ落ちて変色し、前方に掛けられた十字架は崩れ落ちている。極め付けは天井に穴が開き、床に雨水が溜まってしまっている。覗き込むと、綺麗な夕焼け空が映った。
「なかなか風情があってえいけんど、ここらのクリスチャンはどこに行ってもうたがかのう。みんな引っ越してもうたがかのう。こがぁにほったらかして、神様に怒られるぜよ」
廃墟にあって、ステンドグラスだけが異彩を放っていた。夕日を受けて鮮麗に煌めき、仄暗い堂内を厳かに照らし出す。影が長く伸びている。
「にゃありょーまぁ、聞いちゅう?」
教会に入ってからなぜかずっと黙している遼真の方を振り返る。一瞬姿を見失った。なぜなら、想定していた場所に遼真が立っていなかったからだ。しかしすぐにその姿を捉える。遼真は馨の足元に跪いていた。
「え、な、どういたが……」
遼真は狼狽える馨の左手を取り、優しく口づける。その振る舞いはまるでお伽噺に出てくる王子様みたいで、そんな乙女チックな思考をしてしまった自分を馨は恥ずかしく思った。遼真は胸ポケットから指輪を取り出し、馨の薬指にそれを嵌める。恭しい手付きで、ゆっくりと指輪を嵌める。
「……僕と結婚してください」
「にゃっ!?」
もう夕方で涼しいはずなのに、顔から火が出るほど熱い。血管が膨張して、血液が茹だっている。紅潮した顔を咄嗟に両手で覆い隠し、馨はくるりと身を翻した。この上なく情けない顔をしている気がする。
「けっ、結婚……なら、もうしたやか……籍、入れて……入籍……」
「うん。でも一応けじめと思って。ずっとなあなあで来ちゃったから。けど、こういうのってやっぱり照れくさいね。シミュレーションはしてきたんだけど……」
背後からそっと抱きしめられ、左手の薬指を撫でられる。
「一生外さないで」
改めて薬指を見る。薬指に光る指輪を見る。プラチナのリングに嵌め込まれた小粒のダイヤモンドが、眩いほどにきらきら輝く。宝石も指輪も、ましてや結婚指輪など、死ぬまで縁がないと思っていた。欲しいと思ったこともなかった。
「……言われんでも、一生外さん」
この輝きと生きていく。永遠に失われることはない。この輝きさえあれば、この先何があっても、きっと。
ダイヤモンドの中に、小さな炎が燃えている。よく見ればそれは真っ赤な夕日だ。ステンドグラスを通して差し込んできた光が、馨の指のダイヤモンドの中に閉じ込められて燃えている。
教会の外へ出た。太陽は今まさに沈む寸前だ。灼けたガラス玉のように真っ赤に潤んだ太陽が、水平線の果てへと吸い込まれるように落ちていく。空が燃えるように赤い。海で焔が跳ねている。
海を見渡せる丘の上で、二人はしばらく座っていた。波の音を聞きながら、西の空の残照を眺めていた。太陽が完全に沈んで、世界は淡いピンク色に染まる。空も、海も、草原も、この朽ちた教会でさえ、全部が薄桃色だ。隣に座る遼真の横顔も淡いピンクだ。
「どうかした?」
「な、なんちゃあやない!」
じっと見つめていたのに気づかれた。馨は恥ずかしさに目を伏せ、そのままごろんと横になる。ふかふかの草がベッドみたいで気持ちいい。
「また汚れるよ」
「今更構わん。おまんも横に――」
言いかけたところで、唇を塞がれた。優しく触れて、砂糖みたいに甘く蕩ける。数えきれないほど交わしたキスが、今日は一層新鮮に感じる。遼真の首に腕を回そうとしたら、逆に両手を絡め取られて握られた。指を組んで絡ませて、すりすり撫でられる。
「りょーまぁ……」
「うん」
「……くふふ、こしょばい」
口から頬、顎、首から鎖骨、胸元へと、遼真の唇が滑っていく。微かに性の匂いを感じるが、ただの戯れのようでもある。やがてシャツの裾からするりと手が忍び込んできて、薄い腹を撫でられる。
「んにゃあ、ここ、外じゃけど」
馨は挑発するように笑う。
「誰も来ないよ。もう暗いし」
「神様が見ちゅうろう」
「馨ちゃん、いつのまにクリスチャンになったの」
「わしゃ真言宗じゃ」
「それって、実家でそうだっただけでしょ。うちもそうだったよ」
星の瞬きが聞こえ始める。遼真の手は大きくて、火傷しそうなくらい熱かった。
仰向けに寝転がると、目に映るのは満天の星。月のない夜で、街の灯りは遥か遠く、邪魔な建造物もない。さやかに光る星々が降り注ぎ、手を伸ばせば届きそう。乳の流れた跡にも似た、ぼんやりと白い天の川が、北東から南西へゆったりと弧を描いて流れている。馨の指のダイヤモンドは、淡い星明かりを捉えてきらきら煌めいた。
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