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遠い夏の思い出(1/4)

ギラギラと降り注ぐ陽射しが、毛皮に熱をこもらせる。 そこへ吹く、噴水の水飛沫の混ざった風が、涼しくて気持ちいい。 隣には、夏の太陽を浴びて白く輝く眩しい毛並みが、柔らかく風に揺れていた。 「なあ、アンリ」 大きな口を僅かに動かして、彼が話す。 「ん?」 呼ばれて、僕は自分よりもずっと背の高い彼を見上げた。 「お前に、触れてもいいか?」 彼の白い瞳は、青空を映してほんのり淡い水色に見える。 その中で、小さく真っ黒な瞳孔が、じっとこちらを見下ろしていた。 吸い込まれそうだ。と思った。 僕が小さく頷くと、彼は僕よりもずっと大きな手の、爪が全部引っ込んでいるのを確認してから、僕へと手を伸ばした。 ――ああ、これは夢だ。 夢の中で僕は気付く。 気付いた途端、夢は終わりを告げ、僕は……いや、私は目を覚ました。 しばらく見なかったあの日の夢を、ここ最近また見るようになった。 理由ははっきりしている。 今日には、彼がこの城に来てしまうからだ……。 私は窓を見る。カーテンの向こうは、まだ夜明けの色に変わる前だ。 寝直そうかとも思ったが、またあんな夢を見てしまってはたまらない。 ベッドから降りて広い広い掃き出し窓まで歩くと、カーテンの合間から外を見る。 カーテンを押さえた腕に、自分の長い髪がハラリと一束落ちて、かかった。 それを目で追った拍子に、今は水の止まっている中庭の噴水が、視界の端に入る。 あの日、彼に初めて触れられた場所だ。 あの時どうして彼があんな事をしたのか、私は今も分からないままだった。 ……彼は、長い夏期休みのうちの、ほんの一週間をここで過ごしていた。 あれは、双子の姉アリエッタと彼が婚約を結ぶための、最初で最後の顔合わせだったのだと、今では分かる。 しかし、当時の自分は何も知らずに、突然現れた、初めて出来た同性の友達と、その一週間を夢中で遊んで過ごした。 彼は、草食種の多いこの大陸では見る事すら珍しい、肉食種だった。 この国は、私も含め殆どが兎族だ。 そんな中で、初めて見た獅族は顔の作りも体の作りも、何もかもが違って見えた。 最初は、その鋭い牙や爪を怖いと思った。 黙っていると、獅族の彫りの深い顔は怒っている様にも見えたが、彼は、笑うと途端に人懐こい空気を纏った。 彼は竹を割ったような性格で、なのにちょっとした気も遣えて、誰にも好かれる明るく聡明な少年だった。 別れ際『お前が弟になるなら、悪くないな』そう言って、彼は生えかけのふわふわとしたたてがみを揺らして笑った。 私は何もわからないまま、笑って大きく頷いた。 ……あの時、もう彼は分かっていた。 そして、子どもなりに自身を納得させていたのだと、今ならわかる。 これらは全て、まだ私の髪が短くて、私がアンリだった頃の話。 それから半年と経たないうちに、この国の未来だった姉のアリエッタは、流行り病であっけなくこの世を去った。 この国が大きく豊かなのは、代々神に選ばれた薄桃色の毛並みをした女王が治めているからだと、国民は信じていた。 だから、城の者は皆焦った。 兎族は子が多い。しかし亡くなる数も多い。残念ながら、現女王である母の子は、私と姉以外に残っていなかった。 直系でなくとも、薄桃色の髪をした子が生まれることはあったのだが、その時は適した年頃の子が一人も居なかった。 病弱だった母がついに昨年亡くなり、神官でもある女王の座は姉のアリエッタが幼いながらに継いだばかりだった。 相次ぐ女王の崩御は国民を不安にさせるだろうと、国の重鎮達は声を揃えて言った。 幸か不幸か、双子の私は、顔立ちも体格も声までもが姉によく似ていた。 最後に触れた姉の遺体は、驚くほど冷たかった。 呼吸を止めてしまった姉は、髪を短く切られて『アンリ』として埋められた。 姉の長い髪は、一本ずつ私の髪に結び付けられた。 その時から、姉の仕事は全て私の仕事となり、姉の部屋も姉の服も、私の物になった。 ……つまり、姉の婚約者である彼は、あの時から私の婚約者となっていた。 あれから七年。 秘密裏に行われた手術で、私の体は男らしさを表すこともなく、ここまでをずっとアリエッタとして、女として生きてきた。 だから、彼との婚約は、当然破棄されるはずだった。 私が姉ではない事は、国の者ですらほとんどが知らない。 獅族との縁談は、双方に理のある良い条件ではあったが、他族にこの秘密を知られるわけにはいかなかった。 獅族の国はそう大きい国ではなく、人口も少ない。 大国であるこちらからの婚約破棄。 慰謝料を惜しむつもりはなかったし、相手の条件も可能な限り飲むつもりでいた。 断られるはずもないほどの、莫大な違約金。 それを、彼はなぜか断ったという。 何度も交渉に行った国の者は全て突き返され、交渉は成立しないまま、今日、ついに、彼がここへ来てしまう。 彼が国を発つ前に暗殺しようという話も出たが、それは私が止めた。 彼は何も悪くないのに。 こちらの都合で婚約破棄を申し出ていると言うのに、殺されるなんてあんまりだ。 けれど、彼がこの国を発つまでに婚約が破棄できなければ、彼の帰りの船は沈むことになっている。 いつの間にか、窓の外は白んで、朝の景色に変わりつつある。 彼が着くのは昼過ぎの予定だ。 私は、何としても、彼に結婚を諦めてもらわなければならなかった。

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