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第66話
「んー、疲れたー」
天井に向かって両手を伸ばしたら、背中がパキパキとなった。
「4時半か。頑張った、俺!」
午後。今日は真鍋は来ないと電話で確認した俺は、1人で勉強に励んでいた。
「これだけやってあったら文句ないでしょ」
言われた英単語も漢字も覚えてやったし、数学の問題も指定された範囲は解き終わった。
「意外とデキるんじゃん?俺」
練習問題を解いたノートをパラパラと眺めて満足する。
「よし。時間もいい感じだし、今日はここまで」
広げていた教科書やノートをテーブルの隅に寄せ、のんびりと立ち上がる。
さすがにお尻の痛みはすっかり消えて、身体の怠さもかなりマシになっていた。
「さてと、夕食の支度するかー」
今日は火宮が帰ると聞いている。
久々の料理だし、気合いが入る。
「ふふ、グラタンとロールキャベツなんて、少しは驚くかな?」
帰って食卓を見た火宮の反応を想像して楽しくなる。
「あ、でもコンソメ派かトマト派か聞き忘れた…」
俺はコンソメ派だけれど、火宮はどうだろう。
「そんなことで電話していいかなぁ?」
この時間ではまだ仕事中だろう。
わざわざ電話を入れるのは気が引ける。
真鍋に、という手もあるけれど、それはそれでこの程度の内容では、冷たく切って捨てられそうだ。
「こういうの、同棲中の恋人とかだったら、気兼ねなく電話しちゃうんだろうなー……って、何言ってんだ、俺」
俺は火宮の所有物。
同居人ですらなく、ただの囲われモノ。
「仕事の邪魔する権利はないなー」
取り出しかけたスマホを、思いとどまってポケットにしまう。
「っ…。いいんだ。勝手に俺好みの味付けで作っちゃお!うん!」
火宮の好みがトマト煮じゃないことを祈る。
チクリと疼いた胸の奥は気のせいだ。
火宮の『美味しい』の笑みを期待しながら、俺はキッチンに向かい、調理に取り掛かった。
7時ちょっと過ぎ。
ガチャリと開いた玄関ドアの音に続いて、パタンとリビングの扉が開けられた。
「あ、お帰りなさー…え?」
振り向いて出迎えた笑顔が思わず固まってしまった。
「お邪魔いたします」
「な、なんで?」
今日は来ないんじゃなかったか、とか。
まさかこの時間から家庭教師?とか。
火宮さんは?とか、一気に疑問が押し寄せる。
それはどうやら顔にも思い切り出ていたようで。
「連絡もなく突然の訪問になってしまって申し訳ありません。ですが勉強を見に来たわけではありませんので」
丁寧に頭を下げる真鍋は、こうしているととてもヤクザの幹部には見えない。
それこそ有能秘書か敏腕執事で十分通る。
けれど俺は、物腰が低いこの人の怖さを知っている。
「い、いえ…。別に…」
例え抜き打ちだったとしても、今日の俺はちゃんと課題を済ませてあるわけで、何も困ることはないけれど。
何故か身体はビクビクと怯え、腰が引けてしまった。
「翼さん?」
「っ、い、いえ。あの、なんでもないです」
「あぁ。昨日の今日ですからね。ですが、私は理由もなく怒りはしませんよ?」
「っ、分かってます」
頭では。
だけど身体が言うことを聞かない。
さすがにまだ、ぶたれた記憶と痛みは新しい。
「そうですか。…これは逆効果でしたかね」
「え?」
不意に、基本無表情の真鍋が苦笑という珍しい表情を見せた。
「真鍋さん?」
「いえ。さきほど、会長が、社を出てすぐに外せない急用が発生してしまったもので…」
「はぁ」
「きっと翼さんがすでに食事の用意を整えてしまっておられるだろうからと、私をこちらに遣わせたわけですが…フォローどころか怯えさせるとは」
すみません、と綺麗に頭を下げられてしまい、俺は慌てた。
「や、やめて下さいっ。あの、わざわざ来てくれてありがとうございます」
電話で済まされなかったことに、確かに性急さと誠意を感じる。
火宮の申し訳ない気持ちは十分伝わった。
「いえ。会長は、料理が無駄になってしまったら…と気にされていました」
「あ、それは大丈夫です!残った分は明日に回しますから」
うん、別に、捨てなくても済むし。
味は落ちるだろうけど、温め直せばまた食べられるし。
明日の朝食が必然的に決まっただけだから。
「気にしなくていいです」
「そうですか。それなら良かったです。会長が、本当にすまないと」
「いえ。急用なら仕方ないですよね。仕事ですか?」
何の気なしに聞いた言葉だったのに、不意に真鍋の表情が、小さく揺らいだ気がした。
「仕事…まぁ、そうですね」
「え?」
「何か」
すぐにいつもの無表情になった真鍋には、揺らいだ表情の余韻すらない。
クールな美貌は凪いだまま俺を見つめている。
見間違い?
「いえ…なんでもないです」
「そうですか。では私はこれで失礼いたします」
「はい…」
丁寧な一礼を残し、真鍋はスマートに退室していく。
ポツリと1人、リビングに残される。
「なんだ。火宮さん、帰って来ないんだ…」
大体の時間を予測して、焼き時間を調節してあったオーブンが、ピーッと音を立てた。
熱々を提供しようと目論んだグラタンは、あまりにタイミング良く焼き上がり、ちょうどいい感じの焼き色がついていた。
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