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ん、と差し出された紙にプリントされた地図を見て、五秒がんばってみたけどちょっと意味がわからなかったから、素直に『何これ』と聞いた。
おれのほうを見もしないミレーヌは、甘そうなお菓子を摘まみながら、なんていうか、とんでもない事を言う。
「泌尿器科やってるクリニック。ちょっと高いけど腕は確からしいよ、はよ行ってこい」
「泌尿器科……? なんで……?」
「頻尿なんでしょ?」
「え? いや、違うけど」
「……えっ!?」
「え!? いやびっくりみたいな顔すんのやめてくれる!?」
いやほんとなにそれ、おれはどうして頻尿なんてことになってんの、と作業止めて向きあえば、やっとこっちを見たミレーヌは容赦なく睨んできた。おれは知っているけど、その顔は照れ隠しの顔だ。
「だってあんた、やったらめったら二階に行くじゃないの! もうすごい頻度! だからっていって資料取ってくるわけでもないし仮眠取ってる感じでもないし着替えてくるわけでもないし、煙草臭くもないし、なるほどおっけートイレねって思うじゃない!?」
「思わないよ。なにそれ。ああ、いや、なんか変に心配してもらってんのはよくわかったけど……」
「トイレじゃないなら何しに上行ってんのよ。アンタ別に自分の部屋が大好きってわけでもないでしょ」
「っあー……」
なんて説明したらいいのか。
ちょっとだけ誤魔化す言い訳を考えてみたけど、いやぁ絶対後でバレたら機嫌悪くなるなぁと思ったし、今更恥ずかしいとか思うようなことでもないし、とりあえず素直にゲロることにした。
「ええとシャオフーに、あのー、この前の外出の時にね。自分も本に興味があるからおすすめをって言われたんだけど、あれもこれもおすすめありすぎて全部買ったら大変な事になるし、ていうかおれの部屋にあるから勝手に読んだらいいんじゃないのって、話になって……」
「……ほう。確かに、その通りだわね。それで?」
「どうせケントと交代で休憩はするんだから、ボスの書斎じゃなくっておれのベッドで読書しながら寝てもいいんだよって、ことに」
「ふうん。それであんたは、特に用もなく休憩中の彼にちょっかいをかけに行ってしまう、と」
「…………おれの好きな本を真剣に読んでるシャオフー……なんか、グッときて、つい……」
「ま、病気じゃないなら良かったわ。身体の不調でも精神の不調でもないならどうでもいい。なんならあんたがやる気になるなら、麗孝を部屋に監禁しちゃってもいいくらいだわ。いっそ押し倒してきなさいよ」
「シャオフーの方が絶対に強いから無理」
「それもそうか。じゃあがんばって誠心誠意純愛アピールして口説きなさい」
「そうしたいのはやまやま……ミレーヌそれ何食べてんの?」
「月餅。好きなんだよねって言ったら麗孝がめちゃうまな店の月餅買ってきてくれた」
「え、なにそれ、ずっる……」
「あんた甘いの食べないでしょうが。はー心配して損しかしてない。腹立つ。腹立つからこれ最終チェックヨロ私仮眠取るわ明日印刷所行かなきゃだし。おやすみサイラスあんたは上で飯でも食ってきなさい」
「えええ……」
なんだか言いたい放題されてしまった。けどまあ、ミレーヌは大体こんな感じだし、月餅のせいか今日は機嫌も温めだった。
記事は大概揃ったし、最終チェックもほとんど終わっている。後はダニエルの入稿待ちだから、根詰めてパソコンに向かわないと間に合わないってわけでもない。
そういや昼ごはん食べたっけ。食べてないんじゃないの、おれ。
意識すると急に空腹を感じる。このところ、妙に人間っぽい感覚が戻って来た感じだ。そういや基本倒れるまで眠いとか思わないし、吐き気がするまでお腹へったなーとか思わない生活だった。
おれが人間っぽくなった理由は、さて人間らしく恋なんかしちゃったせいなのか、それとも単にボスが居なくて自分のペース配分で仕事ができてるからなのか。わかんないけど、悪い傾向じゃないだろう。たぶん。
人間ぶってきたとはいえ、外に何か買いに行くのは面倒くさい。もう日も暮れて随分と経つし、デリは閉まってるしディナーに出るのも面倒だった。
嫌だけど作ろうかな。嫌だけど。
何か作ったら、シャオフーも一緒に食べてくれるだろうか。基本的に彼はおれの部屋では食べる事も忘れた様子で、黙々と読書をしているけれど、人間なのだからどっかのタイミングで食物を摂取する、筈だ。
「……誰かと一緒に住むなんて、絶対に無理、って思ってたんだけどなぁ」
いまは、あの部屋に彼が居ることがうれしいし楽しい。
まったく、恋って奴は本当に不思議で予想外で怖いけど面白い。
階段を駆け上がって、そっと、ドアを開ける。
ドン、バタン、と音を立ててもたぶん、シャオフーは怒らないけど、少しでも彼の読書の邪魔はしたくない。
一時間前と同じ姿勢でベッドに腰掛けたシャオフーは、おれに気がつくとちょっとだけ苦笑する。
「私がここにいるかぎり、あなたの仕事の邪魔をしている気がしますね」
実のところ、その通りだ。その通りなんだけど、認めちゃうと真面目なシャオフーは帰っちゃうだろうから大丈夫もう校了するもの(たぶん)、とちょっとだけ見栄を張る。
「明日中に入稿しちゃえば勝ちだからね、へーきへーき。ミレーヌ寝ちゃったし、シンディはボスの書斎で寝てるし、おれも腹減ったし休憩ー」
「夕食はまだですか?」
「うん、外行く時間でもないし、なんか適当にパンに挟んで珈琲で流し込もうかなって」
「それならあと十五分待ってもらえませんか。夜食程度のものしか用意できませんが、今日面白いものを買ってきたんです」
「……面白いもの?」
「ミレーヌに月餅を買うついでに。専門店まで足を伸ばしたもので。小麦粉から作ればいいんですが、いかんせんそこまで時間をかけるほど、私は料理上手でもないですからね」
本にしおりを挟み、相変わらずの優雅さで綺麗に立ち上がったシャオフーは、生活感皆無なキッチンにすたすたと移動する。
飲み物と携帯食料と冷凍食品の保管庫みたいになってる冷蔵庫から彼が取り出したのは、四角くて白いモノが入ったパックだった。
漢字でなにか書いてあるけど、残念ながらおれは読めない。
「なにそれ。……えーと、……豆腐……?」
「残念ながらちがいます。四角くて白い、というところまでは合っていますが、これはワンタンの皮ですよ」
「かわ。あー、包む外側の、あの皮か! へぇ、こんな形なんだねぇー」
「中国人は大概、ワンタンの皮といえば四角とわかりますが、文化圏が違うとやはり家庭料理も違いますからね」
「ていうかアメリカ人なんてほとんど料理しないからね。家庭料理って言ってもまぜてぶっかけるとかつっこんで煮るとか焼くとかさ、そんなんばっかりだしソースだって大体缶詰だよ。レトルト最高みたいな土地だもん、砂糖と塩とソイソースを分量測って調合するなんて信じられない」
「中国人もそこまできっちり計量しませんよ。たぶん、ケントの方が調味料の調合にはうるさいですね」
「あー日本人、家庭料理すごいんでしょ……? 毎日同じ料理出したら怒られるって聞いたよ、カルチャーショックだね。ところで今からワンタン作るの? ……十五分で?」
「挽肉を包んで茹でるだけですから。夏といえば四川は冷やしワンタン、と、聞きました」
「きみは、四川の人じゃないの?」
「残念ながらもう少し田舎の出身です。そもそも私は孤児でしたので、家庭料理にはあまり縁がありません。サイラス、向こうで待っていてください。お疲れでしょう」
「えー、見たい見たい。きみだって昼間は警備のお仕事こなしてたじゃないの、お疲れ様はお互い様だよ。ワンタンってどうやって包むの? 教えてよ」
知らないことはわくわくする。ついいつもの好奇心が前面に出てしまったおれに、シャオフーは快く狭いキッチンの隣を譲ってくれた。
小麦粉の皮のほかに、挽肉とリークとジンジャーがまな板の上に載っている。あとは、少量のパクチー。
中華包丁とか出てくるのかと思ったら、シャオフーは普通にうちにあるナイフでリークを細かく切りだした。鼻にツンとくる香りが目にも痛い。
なにか手伝うことはあるかと訊けば、じゃあパクチー洗ってと言われる。
「パクチーってタイ料理だけじゃなくって、四川料理にも入るの?」
「そうですよ。中国では香菜と呼びます。四川料理は特に香りの強い肉や味の濃い料理が多いのでさっぱりした口直しに、香菜をどっさりと入れる……とレシピサイトに書いてありました」
「きみでもインターネットに頼るんだねぇ……」
「こんな格好していますがね、残念ながら現代人なもので。あなたはパクチーお嫌いでしょう? 洗っていただいてなんですが、それは私の皿に乗る分のパクチーです」
……そういえば、最初に会った日におれはそんなこと言ったかも。
寝起きだったし頭がよく働いてなくて、ほんとに失礼な会話を晒してしまったと今は反省している。
けど正直なところやっぱりパクチーはそんなに好きじゃない、というか、好きと言えるほど食べたことがない。
よく考えなくても偏食なのかも。おいしいものは好きだけど、そもそも日々の食生活は貧相だ。嫌いなものが多いというよりは、食べたことないものが多すぎる。
挽肉とリークを混ぜてなんか色々香辛料とか調味料を混ぜたシャオフーは、魔法みたいにペタペタとワンタンを包んでいく。思ったよりぐっぐっと押すんだねそれ、なんてじっくり観察しながら、おれはパクチーの水を切る。
「嫌い、って程、食べてないのかも」
「……パクチーのこと?」
「うん。そういや麻婆豆腐は好きなんだけどみんな辛いの苦手だからあんまり中華食べないし、すっぱいの得意じゃないからエスニック料理も行かないし」
「ああ、それじゃあナンプラーとレモンが苦手なのかもしれないですね。組み合わせによりけり、なのかな」
「きみが食べさせてくれたら好きになっちゃうかも」
「………………」
「あ、シャオフー、それ茹でるんだよね? 鍋はこれを……」
使って、と、腕を伸ばしかけて、くっと襟元をつかまれて引っ張られた。
思わず、前のめりによろける。びっくりして下げた視線の先には、いつの間にかパクチーを咥えたシャオフーの顔面があった。五センチくらいの近さだ。
いや、あの、……近い近い近い、って、いうか!
「あ、の、シャオフー、ええと、この体勢は、よくない……」
さすがにうろたえる。うろたえるし、テンパるし、腰を引こうとするのに、シャオフーは目の前で咥えたパクチーをしっかり噛んで、そのままおれに、そのー……これ、キスじゃない?
「ん…………、っ、……!?」
「…………ふ、…………どうですか? パクチー、好きになりました?」
いやちょっと、何を言ってるのか、何が起こっているのか、わからない。本当にわからなくて、体を引くことも忘れておれは抗議した。
「……味しない……なにこれ、てかまさか口で、その、食べさせてもらえるとは、思って無……箸とかフォークとか指とかもっとあるでしょ……!」
「ああ、それでも良かったんですか」
「いや! 嬉しい! けどね!? ていうか急にどうしちゃったの……!」
「いえ、何というか……常々思っていたんですが、私はあなたの照れた顔が性癖に刺さるようでどうもこう、グッときてしまう、というか」
「……なんでおれ口説かれてんの?」
「口説いてませんよ。ただの事実です」
「余計悪いよなんだよもうー……はーキスしちゃったじゃんびっくりしたぁ……」
「でも味はわからなかったんでしょう? もう一度、ためします?」
「………………」
この状況で、嫌だよとかやめとくよとかまた今度ねとか、そんなふうに小粋に手を振れる人間が居たら尊敬する。その人はきっと、理性の人だ。おれみたいな煩悩に踊らされるダメなやつとは大違いだ。
挑発してくるくせに、シャオフーもちょっとだけ耳が赤い、気がする。気のせいかな。気のせいじゃ、ないといい。そう思う。
二人ともほとんど手は塞がったままだ。シャオフーの両手はワンタンの皮についていた粉で真っ白だったし、おれは彼に渡すはずだった軽い鍋を持ったままだ。
ムードなんかからっきしな状況なのに、二度目のキスはどろどろに甘くて死にそうだった。
パクチーの強い香りが、今度はしっかり鼻に抜ける。少しだけ苦い。ああ、でも、香りはともかく味はわりと好きだと思う。
「……ふ……、っ……」
舐める程度だったキスが、お互いにだんだんと深くなる。
息を吸う合間に溢れる喘ぐような息が耳に甘くて、たまらない。死にそう。でも死ぬのなら最後まで、このキスを終えてから死にたい。
ゆっくりと舌を絡めて、愛撫するように戯れる。夢中になって舌を追いかけているうちに、いつのまにかキッチンの壁際に追い詰めてしまったらしい。
シャオフーの後頭部が壁につく。ついでにおれの額も壁につく。
ものすごく名残惜しく唇を離した後、抱きしめるように覆いかぶさり、思う存分照れた。
「あー……あー、もう、こんなの、ずるい、パクチーありがとう大好きになっちゃうよ……」
「……びっくりするほどチョロいですね……」
「いやぁ、ほんと、自分でもびっくりしてる。ちょっと好きだなー近づかないでおこうこわいから、って程度だったのにどうしてこうなっちゃったんだろうね本当にさぁ」
「近づいたこと、後悔してますか?」
「うん? え、なんで? してないよ、だって楽しいしハッピーだもの。きみのことが好きな毎日は、すごくそわそわして落ち着かないしちょっとだけ疲れちゃうけど、でも、すごく楽しいよ。まー、もしかしたらおれの求愛は断られちゃうかもしれないんだけど、悲しい予測はしないことにしてる」
「あなたは、その……誰に対しても、口説くときはそんな風に甘ったるくて、柔らかい言葉を連呼するんですか?」
「……おれ、甘い? そう? わりと淡泊とか、そっけないって言われるけど」
「テンションが一定だからでしょう。あなたの言葉のリズムは確かに大袈裟なアメリカ人とは言い難いですが、中身はなんというか……耳に、痒くて、どうしていいかわからなくなる」
そんな事を言われたら、おれの方がどうしていいかわからなくなる。かわいくてどうしようもなくなって、壁にもたれるみたいにシャオフーの肩口に沈んでしまった。
熱いのはおれだけじゃない……たぶん。くすぐったいのも、かゆいのも、きっとおれだけじゃない。
「……あのね、シャオフー。もし、迷惑じゃなかったらだけど、ちゃんと口説いてもいい?」
心臓が馬鹿みたいに煩い。恐る恐る口にしたおれに対し、顔の見えない想い人は結構本気でびっくりしたみたいに『えっ』と声を上げる。
「あなたは、いままで口説いていないつもりだったんですか?」
「え、あ、あー……いやまあ、別に隠してはいなかったけど積極的に口説いては……なかった、と思うけど。だっておれなんかの個人的な感情で、きみの仕事の邪魔をしちゃったら嫌だし」
「……薄々感じていましたが、あなたはかなり自分に自信がない人ですね……? 仕事もできて、誠実な性格で、とても優しい人なのに」
「おれのこと好きだって言う人間、おれは五人くらいしか知らないからね。まあ大概同僚なんだけど」
「では今日からあなたのことを好いている人間を、六人とカウントしてください」
「……シャオフーおれにあまぁい」
「あなたの言葉の方が甘いですよ」
くすくすと笑う、声がくすぐったい。
いつの間にかどろっとしたキスの余韻はなくなっていて、照れた空気も甘い空気も、さっぱりと消えていた。
ちょっともったいないけど、ワンタン茹でなきゃいけないし、なんならシャオフーの睡眠と読書を邪魔しちゃってるわけだし。
息を吸って吐く。気持ちを切り替えてよしワンタンづくり再開、と思ったのに離れようとしたときにまた襟首掴まれて今度は耳の下に思いっきりキスされた。
………………いや、もう、なに、ひどい、だって、こんなん、ずるいでしょう。
「……………………っ」
思わずしゃがみ込んで耳元を抑えちゃう。
くつくつとした声を漏らして笑った意地悪な人は、何でもない風にワンタンづくりに戻ってしまった。ひどい。なんなの、もう。
「……シャオフーもしかして結構おれのこと好きなんじゃないの……?」
「嫌いな人にキスなんかしませんよ」
ああもうほら、さらっとそういうこと言っちゃうんだよきみは。ていうかいつから? とかほんとうに? って言葉は出てこなくて、ただ口から出そうな心臓の音を聞くだけで精いっぱいだった。
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