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第1話

 なにか約束が欲しい。ずっと一緒にいてもいいという約束が。それは、言葉だけでなく、もっと強固な、契約のようなものがいい。例えるなら、結婚、といったようなもの。  付き合いはじめてから五年が経つ。一緒に暮らしはじめて三年が経つ。浅倉聡(あさくらさとし)には、そんな関係の恋人がいる。世間にはおおっぴらにできないような、恋人。同性の、名前は大槻匡之(おおつきただゆき)。  聡はどこにでもいるようなサラリーマンで、匡之は私立の中学校で理科の教師をしている。同性での交際は、彼にとって鎖でしかないとわかっていても、別れることなどできなかった。  聡も匡之も教育学部で、ともに教職課程の勉強をしたのを覚えている。彼は教師になり、聡は教師にはならなかった。教員採用試験には合格したし、教員免許も持っているが、人としてなにかが欠落しているように思える人間が、人になにかを教えてはいけないような気がした。  欠落、とは、異性を愛せないことなのかもしれない、と己のセクシャリティを思う。子供を産めない、未来への繋がりのない、断絶しか生まないこの性的指向を、諦めてはいるけれど重荷だと感じている。  缶ビールを煽って匡之の帰りを待つ間、己の欠けた部分を脳内でリストアップする。一つ目が、誰もと同じように異性を愛せないこと、二つ目が、感情の起伏が少ないこと、三つ目が、自分一人で立っているのが不可能なこと。  半身が欠けたまま生きているようだった聡の孤独を埋めたのが匡之だった。彼は、バイセクシャルで女も愛することができる。女も抱けるし、男も抱ける。欠けてはいない、むしろ完璧と言っても過言ではないだろう。性別で愛するものを分けない、個として人間を愛せる。  匡之は教師に向いている。人懐っこくて、優しくて、根気強い。目的意識がちゃんとあって、目標に向かって努力ができる。  一方自分は、と考えて、思考をストップさせた。ろくなもんじゃない。だって自分は欠陥品なのだから。  窓の外では、ざあざあと雨が降っている。匡之が学校を出る頃には止むといい。    ×××  聡は、野菜と肉、ビールの入ったスーパーの袋を下げてエントランスの横にある郵便受けを覗く。ダイアルを回して開け、ダイレクトメールとチラシを抜き取った。  中古物件のチラシと、市民だより、一回行ったきりの服屋からのセールのお知らせ。それらに混ざって一通、白い封筒に入った手紙のようなものを見つけた。  エレベーターを降りて部屋の鍵を開け、靴を脱ぐ。ダイニングテーブルの上にチラシを放り投げてから、手紙の封を切るために鋏を探した。  ボールペンと一緒に入れられていた鋏で、封を開ける。中身は、結婚式の招待状だった。 「結婚式、ねぇ……」  呟いたところで誰も返事はしない。匡之は今日も遅いのだろうか。  もうそんな歳か、と思う。結婚して家庭を持つ。世間ではそれが当たり前で、むしろそうでない方がおかしいのだから。  買ってきた食材を冷蔵庫にしまって、缶ビールをひとつ取り出した。匡之が帰ってくるまで飲んでいたい気分だ。 ──何時頃帰ってくる?  メッセージアプリに打ち込んだ短い問いに、返事はない。既読もつかないから、まだ仕事が忙しいのだろう。  ビールが一本空になる、というところでスマートフォンが着信を告げた。 「もしもし」 「ごめん、今から帰る。なにか買って帰った方がいい?」 「ううん、夕飯の材料はもう買った」  謝罪からはじまった会話は長くは続かず、じゃあね、と聡は通話を切った。空になったビールの缶を流しに置いて、夕飯の支度をする。  料理は、匡之の方が上手だ。聡には切って炒めることしかできないから、メニューはいつもワンパターン。今日は、特売の豚肉に冷蔵庫の中にある野菜をぶち込んだ野菜炒め。下手でも最初の頃よりは上達したと思う。そう思いたいからかもしれないが。 「ただいま。作ってくれたんだ。俺が作ろうと思ったのに」 「おかえり。俺より早く出て、俺より遅く帰ってくるようなやつに料理までさせられない。……って言っても、いつもの野菜炒めだけど」 「聡が作ってくれるだけで、俺は嬉しいよ」  着替えてくる、と言って匡之はキッチンを去っていった。タイミングよく炊飯器が、米が炊けたのを知らせる。水に濡らしたしゃもじでかき混ぜて、蒸らすためにもう一度蓋を閉めた。 「なにか手伝う?」 「俺やるから、座ってていいよ」 「そう? あ、じゃあ、箸持って行くね」  野菜炒めと、白いご飯、味噌汁。なんて質素な夕飯、と自分でもため息をつきたくなる。匡之が作れば、ロールキャベツやビーフシチューなどの手のかかる煮込み料理が食卓に並ぶのに、聡にはそんな難解なものは作れない。  揃いの食器を並べて、一緒に食事をとる。幸せな時間。 「最近一緒に食べれなかったから、久しぶりだね」 「仕事、忙しんだろ」 「テスト週間だから。試験作って採点して……。成績出さなきゃいけないし」 「ああ、そっか。そんな時期か」  中学生の頃は、中間、期末と試験が多かったな、と他人事のように思う。匡之はその真っ最中で、忙しいのだろう。今日だっていつもより早く出勤していた。 「聡は、仕事どう?」 「んー、そんなに。繁忙期じゃないし……」 「そっか。仕事が落ち着いた頃に、どっか旅行でも行く? 俺は夏休みはいらないと無理かもだけど」 「夏、かぁ……。たぶん大丈夫。早めにシュケジュール出してくれたら有給申請するし」  夏、と聞いて届いた結婚式の案内に目をやった。いつだったっけ、と手を伸ばして、九月と書かれたそれに安堵する。 「結婚式? 友達?」 「うん、高校の同級生。八月だったら無理かも、って思ったけど九月だったし」 「そっか。そんな歳か……」 「俺も、同じこと思った」  恋人はいても、彼女はいない。同性同士の結婚は認められていないから、養子縁組をするしかなく、しかし、結婚もしていないのに姓が変わるとなると、説明が面倒だ。 「匡之は生徒に、先生結婚しないの? とか言われないの」 「結婚は言われないけど、彼女は訊かれるなぁ……」 「そっか」  なんて答えるの? なんて女々しいことは聞けないから、茶碗に残った米粒をかき集めて口に運んで間を持たせる。 「結婚、なんでできないんだろうな」  匡之がぽつりと吐き出した言葉は、重たく聡の胸に刺さった。世間に二人が永遠を誓ったこと公にするために、結婚という制度がある。婚姻によって得られるものは大きいし、社会的に相手を自分に拘束することができる。  けれど、その制度は匡之と聡には適用されない。 「匡之は、結婚したいの?」 「できるなら、な。聡になにかあったとき、俺は無力だから」  同居人では遠すぎる、恋人では弱すぎる。紙切れ一枚で結ばれた仲よりももっと強く結ばれているはずなのに、もしものときにはなんの役にも立たない。  匡之が職場で倒れたとしても、一番に連絡が行くのは彼の両親のところで。それがもどかしい。けれど、自分との関係を職場に知られることで匡之が不利になるのなら、たとえ同性婚が認められていたとしても、聡には踏み切れないだろう。  約束が欲しい。強固な、絶対に離れないという約束が。その反面、匡之の足枷になってしまうのならば、このままでもいいと思う。 「聡は、結婚したい?」 「……わかんない、な。できればいいと思うけど、難しいだろうし」  誰の迷惑にもならないのなら、誰からも祝福されるのならば、それは喜ばしいことだ。永遠の愛を誓って、あなたは私のもの、束縛できる。 「まあ、できないことを言っても仕方がないけどな。俺たちになにかがある前に、お偉いさんが法律作ってくれればいいな」  ごちそうさま、と匡之が食器をもって立ち上がった。聡も急いで残っていた野菜炒めをかき込む。 「匡之は、男同士で結婚したのを職場に知られるの、嫌じゃないの」 「んー? 別にいいよ。だってなにも悪いことはしてないだろ」 「そうだけど……。世間はそう思わないかもしれないじゃん。保護者だって、なにか言ってくるかもしれないし」  食器を洗っていた匡之は、聡のぶんの皿も受け取って泡立ったスポンジで汚れを落としていく。 「少数者の心を理解できない差別思想の強い人間は教師に向いていないし、そんなことを気にする親は子供の幸せよりも世間体を大事にしているだけだから、気にする必要はないよ。俺が聡を好きでも、聡と結婚しても、生徒との向き合い方が変わるわけでもないし。だって、教師になる前から俺は聡と付き合ってるんだよ?」 「うーん、でも生き辛いだろ」 「ま、嫌になったら辞めればいいんだよ」  あっけらかんと笑って、今だってほとんど夫婦みたいなもんだろ、と匡之は言う。 「いつかもし、その時がきたら、一番に役所に行って婚姻届を出そう」 「そんなの、無理かもしれないだろ」 「言うだけは、いいだろ。それに、一番だったらきっとみんなが俺たちに注目してくれる」 「はは、なにそれ。やだよ」  もしも、その時がきたら、なんて仮定の話をして、なにになるのだろうか。来るかもわからない未来に、まだ二人が恋人でいるかもわからないのに。 「なにそれって、プロポーズの予約みたいなもの、かな」 「食器洗いながら言うセリフじゃないな」  しまった、と舌を出して気まずそうにする匡之に背を向けて、熱くなってしまった顔を隠す。 「風呂、洗ってくる」  誤魔化すように早足で風呂場に向かう。はああ、という大きなため息を吐く。恥ずかしげもなくあんなことを言うなんて、今まで悩んでいた自分が馬鹿らしい。  今すぐにでも冷水を浴びて、うるさく鳴る心臓を押さえつけてしまいたかった。

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