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第3話
「なぁお前いつシティーボーイに戻んの」
風呂から上がり、年下にちゃっかり髪まで乾かしてもらったほたるはタオルケットに包まって、これまた年下に淹れてもらったホットミルクを両手でちびちびと飲んでいた。
「そのシティーボーイてやめろ、古いわ」
「じゃあなに?都会っ子?もやしっ子?」
精一杯の煽りをするほたるを意に介さない遥祐は「一週間後に東京戻る」とだけ返した。
自分からその話題を振っておいてほたるの心はちくちくと痛んでいた。
遥祐の「ただいま」と言える場所はここではないのだ。
こんなド田舎の田んぼだらけの場所ではない。
ネオンのお陰で昼夜問わず明るくて、人が沢山いて、騒がしくて、独りではないはずなのに独りだと錯覚させられるあの場所が、遥祐の帰るべき場所なのだ。
出会った時から分かっていたことでも、何故か寂しいと思ってしまう自分が居た。たかが一介の男子高校生に。
アラサーで人付き合いもろくにできないこんな大人なんて、眼中にないんだろうな。
時は止まらないからきっとまた次の夏が無慈悲にやってくる。でも遥祐はもう来ないかもしれない。
遥祐自身は、また絶対に来る、だなんて言っているが子供のいう事なんて信じられない。
彼女が出来たら?田舎より楽しいことなんて都会にはたくさん転がっているんだ。
いくらここに祖父母の家があったって、この先そう律儀に帰省する人間はまあいないだろう。
子供はミーハーなのだ。移り変わる感情や価値観、物事の荒波に揉まれて生きていく。
そんな忙しい発展途上の子供を田舎に縛り付けておくことはできないし、ましてや自分の存在を植え付けることもできない。
きっと東京に帰り夏休みが明けたらほたるの事なんてあっという間に忘れるだろう。
何かのきっかけで思い出してくれればいい方なのだろうな。
「……ほたるさん」
「えっ」
「えっ、じゃないよ。そろそろ寝ようかって言ったんだけど」
不意に顔を覗き込まれどきりと胸が鳴る。
「あ、うん……。寝る。寝よう……あれ、もしかしてお前この部屋で寝るの?」
「……アンタ、いい年して幼気な男子高校生を真夜中の二時過ぎに野宿しろって?しかもこの暴風雨の中」
「あ、いや……まあそうか」
よく考えなくても、ほたるが遥祐を自分の家へ案内し、お互い体が冷え切ったからという理由で一緒に風呂に入った時点で、どう考えても泊まることは確定していただろうに、何を今更なことを訊いてしまったのだ。
しかし、一つ屋根の下、ほたるにとってこの子供と寝ることは不安だった。それはこの子供の存在は既に、ほたるにとってただの子供ではなかったからだ。
恐らく隣に来るであろうこの男の横で、果たして平静に眠れるのだろうか。
「電気消すぞ」
遥祐の声に「はい」と返事をして横になる。
煎餅布団に大の男が二人。
いくらほたるが遥祐より華奢だからと言って余裕なんて生まれるはずもなかった。
けれど遥祐は多少気を遣ったのか、肩を少し狭めできるだけほたるに触れぬよう端っこに寄り、ほたるに背を向けていた。遮光カーテンではないほたるのワンルームは月明かりのおかげで真っ暗ではなかった。
目が慣れてくると、月明かりによってぼんやりと遥祐の縮こまった背中が浮かんだ。
その背中にまるで「でかくてすんません」と書いてあるようでおかしくなってほたるは声を出さずに笑った。
するとそれに気づいた遥祐はゆっくりとほたるを振り返る。
振り返った遥祐の鼻先と、笑っていたほたるの鼻先が僅かに触れた。
胸が高鳴り、ほたるは自分の鼓動が彼に聴こえてしまうのではないかと冷や汗が滲む。
「泣いたり笑ったり、忙しい人だなアンタ」
ふ、と優しく笑う遥祐の顔を見たほたるはぶわぁっと顔が熱くなるのを感じた。
もう駄目だ、これはもう駄目だ。
自分が一回りも下の子供に、恋心を抱いてしまった。
そしてそれは同時に失恋でもあった。
そもそもほたるにとって同性間の恋愛に壁はない部類の人間だった。それが紛れもないほたるが、このド田舎に逃げてきた理由だった。
ほたるは物心ついた時から同性が好きだと認識していた。
そして同時にそれは異常な性愛だということも知ってしまった。
大人になるにつれ、自分の性的思考が気持ち悪くなってきて段々人と関わることに恐怖を抱いたのだ。
初めは少しの耳鳴りやめまい程度で、それもほんの一瞬の発作だった。
それが次第に、耳鳴りの時間も長くなりめまいも日常茶飯事に。電車に乗ればすぐに吐いてしまうし、酷い時は気を失ったことさえあった。
営業職をしていたほたるに取ってその発作はあまりにも致命的で、接待中に過呼吸を起こしたのをキッカケに職場で孤立し、退職を余儀なくされた。
仕事がなくなれば必然と外にも出なくなった。
人が怖くて堪らないのだ。
きっとみんなほたるを異常者として見てくるから。
どうしようもなくなって、頼る人の居なかったほたるはたまたま旅行誌で見つけたこの村に、何となく辿り着いたのだ。
財布と身分証明書しか持っていなかったほたるは、かつて遥祐と出会った時のようにバス停で酔い潰れ、眠っていた。
ふと目を覚ました時、人の気配がして飛び起きると目の前には人の良さそうな顔をした老人が心配げにほたるを覗き込んで言った。
─……大丈夫かぇ?
これが大家のじいちゃんとの出会いだった。
彼はまるで自分の子供のように、時には孫のようにほたるに接してくれたいわば親のような存在だった。
他の村の住人がほたるに冷たくする中、じいちゃんだけはみんなの前でも優しく、陰口を叩かれてもほたるに接することを止めようとはしなかった。
そんなじいちゃんをほたるは守りたいと思っていた。
じいちゃんの評判がこれ以上悪くならないように、この村では同性愛者という事は絶対にバレてはいけないと心に決めたのだ。
そしていくらほたるが同性愛者だとて、そんな誰彼かまわず貪り食うわけではない。
遥祐の事は年下と知って余計に恋愛対象からは遠のいていたはずなのだ。
加えて残念ながら遥祐の存在はほたるのタイプからは外れていた。
ほたるは年上が好みなのだ。
四十五辺りで、穏やかな紳士が好きだ。
遥祐とは真逆。ほたるには愛想少な目だし、すぐ怒るし、力は強いし、荒いし……。
なのに何故、好きだと思ってしまったのだろう。
彼の無垢な素直さに惹かれたのだろうか……。
否、いずれにしろこの気持ちは一生表に出してはいけない。
自分の心の中にしまっておかなくてはいけない。
第一今この気持ちを伝えても、ほたるは犯罪者になってしまう。
相手はまだ未成年。
ほたるの存在が遥祐にとってトラウマになってしまう事だって十分にあり得るのだ。
それは、嫌だ。
「ねえ遥祐。ちょうどお前が帰る前日の夜祭りがあるんだ。一緒に行ってよ」
ほたるの最後のワガママだという事を知らない遥祐は一瞬驚いたが、何もいう事はなく「わかった」とだけ返した。
「楽しみだ」
ほたるは嬉しそうに顔を綻ばせた。
その表情に遥祐もまた、優しく微笑んだ。
*
いつもは闇に飲まれている村が、今日ばかりは活気に溢れ明るかった。
「あ、遥祐!お前も浴衣着たの!」
からんころ、と下駄を鳴らし駆けてくるほたるに手を伸ばし、肩を抱く。
「危ないから、下駄で走るな」
「……ガキのくせに」
唇を尖らせて言われても全く威厳はない。
遥祐は笑いつつ「どこ行きたい?」と問う。
「俺、どこでもいい」
ほたるは、祭りに来るの初めてなんだ、と目を輝かせて言った。
「じゃあ全部回ろう」
そう言うと、ガキである遥祐よりもはしゃいだのは、やはりほたるの方だった。
「はぁ……楽しい」
深々と呟いたほたるに遥祐も「だな」と頷いた。
「なあ明日何時に出んの?」
「昼過ぎくらいかな」
「ふぅん」
気のない返事をするほたるに少し意地悪したくなった遥祐は、ニヤッと口角を上げた。
「なに、寂しい?」
ほんのいたずらのつもりだった。
何の意図もない、ただ拗ねた顔が見たかっただけ。
たったそれだけの事だったのに、
「……うん、さみしい」
困ったように笑ったほたるの顔から目が逸らせなかった。
初めて会った時は小汚い酔っ払いとしか思っていなかったが、ほたると関わっていくうちに、子供っぽい彼のころころ変わる表情に惹かれる自分が居た。
自分の前でだけ見せる表情はどれも綺麗で愛おしいと思えた。
それは遥祐が、ほたるに恋をした証拠だった。
「お前はきっと、俺を忘れるんだ」
ほたるは遠くで打ちあがる花火を瞳に映し口を動かした。
キラキラと星が散りばめられたように光る瞳は、少し潤んでいる気がした。
「でも俺はお前を忘れないんだよ」
悪戯っ子のように笑ったほたるを、自分の世界に閉じ込めたかった。誰の目にも触れさせたくない─……けど今は、自分の腕の中にしか閉じ込める方法が思いつかなかった。
「な、なに……?」
驚くほたるの肩に、顔を埋めた。
「俺は忘れるのか、ほたるを」
「な……っ!お前呼び捨てっ」
「なあ、忘れるのか、俺は」
力強くほたるを抱きしめ、わたがしのような甘い香りと屋台の煙の匂いが混じって鼻腔に広がった。
「……忘れるよ、お前は」
「なんで」
なんの根拠があって言い切れるのか。
ほたるもまた遥祐の肩に顔を隠した。
「……お前が、子供だから」
ほたるの声が遥祐の耳に届いたその瞬間、遥祐はほたるから体を離し、彼の耳下に手を這わせ、りんご飴を食べていた甘い彼の唇にそっと口づけた。
花火に照らされたほたるの顔は艶やかで、その瞳からこぼれる涙は宝石のようだと思った。
「……ずるい」
大粒の涙を溢し続けるほたるの小さな、汗ばんだ額に己の額を合わせ遥祐は微笑む。
「俺はまだほたるの言うくそガキだから、狡い事も出来るし、壁を越えるのも怖くない」
「……おれは、……怖いんだ……すごく」
いとも簡単に二人を飲み込んでしまいそうな藍色の闇。
彼の左耳に光る、緋色のピアス。
破裂音を伴い打ち上げられる光たち。
一瞬で消え去る光の様はまるで、夏の夜を柔らかく照らしてくれる蛍のようだと思った。
「……ほたる、やっぱり綺麗な名前だな」
震えながら紡がれた言葉に返す事は出来なかった。
けれど儚くはない、消えもしない。
永遠ではないけれど、だからこそ美しい明かりなのだ。
「……おいで」
遥祐の知り得る言葉ではもう、ほたるを泣き止ませる事は出来なかった。
遥祐の言葉に素直に頷き腕の中に飛び込んでくるほたるを強く抱き締め、撫でた。
ほたるの後頭部は遥祐の手のひらに収まりそうで、愛らしくて微笑む。
声を押し殺さなくても花火の音が消してくれる。
涙も、情けない顔も夏の宵闇が隠してくれる。
汗ばんだほたるの額にキスを落とし、遥祐もまたほたるの肩口に顔を埋めて、この体温を忘れぬように必死に抱き締めた。
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