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第5話:平凡と雷おこし

「皆さん、今日も1日お疲れ様でした」 「お疲れ様でしたー」  俺は、いつものようにつつがなくミーティングを終えると、掃除の号令がかからない事に、わかってはいるものの驚喜乱舞した。  これは決して大げさなんかではなく、事実俺は少しだけ浮足立っているのだから。  あぁ、掃除がないって本当に素晴らしい!  俺は昨日ぐっすり眠れた事による、いつになく高いテンションで帰り支度を進めると、そのままタイムカードを通そうとした。  すると、そんな俺達バイトスタッフの背中を追うように塾長の声がかけられる。 「あ、先生方。よろしければ、これを食べて行って下さい」  俺はタイムカードを手に持ったまま塾長の手元を見ると、そこには[雷おこし]と書かれた大きな箱が置かれていた。  何だ、ソレ?  いや、雷おこしなんだろうが。 そう、俺がその箱に首を傾げていると、他の講師達も同様に「どうしたんですか?それ」と塾長に疑問をぶ つけている。 「これは……多分、昨日言っていた清掃スタッフの方が置いていかれたんでしょう。私が朝来た時には既にここに置いてありましたから」 「へぇ、掃除の人が…」  俺は雷おこしを前に自然と漏れそうになるお腹の音を必死に鳴らないように力をいれた。  現在、夜の10時30分。  昼以降一切食べ物を口に入れていない飢えきった俺の体には、目の前の雷おこしは酷く魅力的に見えた。それは他の講師も同じであったようで、皆フロントの上に置いてある箱に釘付けになっている。 頭を使うと糖分が欲しくなるものだ。 「丁度はら減ってたんだよー!ほんと!掃除のおばちゃんには感謝だな!」 「掃除のおばちゃん?」  俺の隣に居る、俺と同期のバイト仲間が笑顔でそう言うと、周りに居た講師達も一斉にそれに同調し始めた。 「おばちゃん、ありがとうございます!頂きます!」 「おばちゃん大好きー!」  皆一様に「おばちゃん」「おばちゃん」と言っているが、掃除の人って本当におばちゃんなのだろうか。  俺がそんな思いで塾長に目をやると、そこにはやはり、いつものようにニコニコと笑顔を浮かべた塾長が居た。何も言わないという事は多分、実際掃除の人は“掃除のおばちゃん”で合っているのだろう。  うん、そうなんだろう。  確かに、雷おこしってなんだかおばちゃん沢山持ってそうだし。  浅草とかよく行きそうだし。多分そうだ。  俺は頭の中で勝手に出来あがっていく“掃除のおばちゃん”を像を思い浮かべながら、とうとう盛大に鳴り始めたお腹を押さえて、雷おこしの箱に手を伸ばした。  そして、ひょいと一つだけ雷おこしを取り出すと、生徒の帰ってしまった机でバリバリと容赦なく雷おこしにかぶりついた。  おいしい。  ほんと、感謝だな。掃除のおばちゃんには。  そう言えば今日の教室は、いつも以上に綺麗だった。  塾長も言っていた。 『一人で掃除されてる筈なのに、手抜きが見当たりませんね。素晴らしい』と。  そうなのだ。 今日俺は、予習の為一番早く塾に来て驚いた。  昨日、掃除せずに帰った筈の塾が、見事に綺麗にされていた。  机の上は、どの机も綺麗に磨かれ、教材用の本棚も綺麗に並べられていた。  ゴミもきちんと捨てられ、ゴミ箱には新しいゴミ袋がはってあった。  小さな事だが、それは授業をする、ふとした時に徐々に気付けて嬉しかった。  それは、もともと自分達がやっていた仕事であったからなおさらそう感じるのかもしれなかった。この教室の掃除のやっかいさも、大変さも、俺は良く知っているから。  そんな教室の小さな変化に、確かに此処には自分達以外の掃除の人の存在があったのだ、と確かに俺に実感させてくれた。  それは小さな事だが、やはり嬉しいものだ。 「一人でやってんだよなぁ。おばちゃん」  思わず口に出してしまっていたその言葉に、俺は自然とどうしようもない気持ちがこみ上げてくるのを感じた。  そうだ。 おばちゃんはこれを全て一人でやっているんだ。  大変だろうな。  たくさんの机を動かして、掃除機をかけて。生徒たちが散らかしたゴミを拾い、本棚を整え、ゴミ箱の中のゴミを分別して、トイレ掃除もして。  俺ら講師全員でやって、あんだけ面倒で大変なのだ。  おばちゃん一人で大変じゃない筈がない。  そう思うと、俺は居ても立ってもいられなくなった。  掃除をしなくてもよくなった事への感謝と雷おこしへの感謝。  そして、たった一人で掃除をしてくれている事への労い。  俺は、思わずバックの中から紙とペンを取り出すと勢いのままスラスラとペンを滑らせた。 -------- 掃除の方へ 雷おこし、凄くおいしかったです。 塾を掃除してくれて本当にありがとうございます。 一人で大変だと思いますが、これからもよろしくお願いします。 塾講師より -----------  俺はザックリ書かれた、余りにも文才の無い自分の手紙に苦笑すると、その紙をそっと机の上へと、裏を向けて置いた。 たまたまその時俺が座っていた、前から3番目の席に。 掃除の方……おばちゃんでは失礼だろうと図った、俺の精一杯の配慮。  相手が気付いてくれるとは限らない。  気付かず捨てられるかもしれない。  それなら、それでもいい。  とりあえず、このどうしようもない程の感謝と労いの気持ちが、今ここで消化できれば。  そう、これは単なる自己満だ。  俺は、雷おこしの最後の一口を、口の中へと放り込むと、ムシャムシャと甘いソレを飲み下した。 本村 洋 19の春、感謝の手紙を書き置く。

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