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笑い話にもなりやしない

 初めて相方とセックスしたのは――あれはもう、二年くらい前になると思う。  その日のライブは初めての満員御礼で、比喩ではなく会場が揺れるくらいの笑いに包まれた。客の一人一人が炎なのではないかと思うほどに会場の熱は熱く、相方の葛見がボケればボケるだけ客が笑い、俺――持田がツッコめばツッコむだけ笑いの音量がどんどんデカくなっていった。  叩けば響くとはまさにこのことで、何が言いたいかというとその日のライブは滅茶苦茶、死ぬほど気持ちが良かった。本気で、死ぬなら今ここでが良いなと思った。 「ここで死んだら勿体ないやろ」  拍手大喝采に包まれる会場を見てぽつりと呟いた俺に、葛見はいつもの無表情でそう返し静かに俺の背中を叩いた。  ほんま、こいつが相方で良かったな。  今までのきつくてしんどい下積み時代。お笑いだけではどうあがいても衣食住が確保できず、アルバイトを掛け持ちし。コンビ二人で狭い部屋に身を寄せて住んで。もやしに大変お世話になり。人がいない公園でネタ合せをし。ヤンキーに絡まれ。ネタがつまらないと素人ヤンキーに指摘され。親にいつになったら実家の工場を継ぐのかと怒鳴られ。ライブではウケず、どんどん売れていく同期に鼻で笑われ。  地面を這い、泥水を啜って生きてきたあの日々を思い出し、葛見の存在に感謝し涙した四時間後。  俺は葛見に抱かれていた。  酒に酔っていたからか。熱に冒されたか。ステージの魔物に心を食われたか。  今となってはどうして一緒に住む自宅に帰った後。ニヤけ顔で見つめ合った後。あの後に唇と身体が重なったのか、全くもってわからない。 「お前、ステージではツッコミなのにセックスは突っ込まれる方が好きなんやな」  いつもは漫才師ではなくて銀行員かと言いたくなるようなオールバックに長方形眼鏡の真面目面が、クソつまらないギャグを言ったのにもかかわらず、俺の頭の中にあったのは「久しぶりにこいつの笑顔見たな」であった。  あいつに腰を打つつけられてうねる腹の中。あいつとのセックスは、その日のライブと同じくらい――いや、それに以上気持ちが良かった。  そんな盛った猿の如く性交した俺達は、コンビから恋人に……なるはずがなく。あの日のように盛上がったライブの後にだけセックスをする謎の関係になっていた。 「俺らって結局なんなん?」  今日のライブも最高で、最高なライブの後にもうお決まりとなってしまった酒盛りと交わりを相方とした俺は、思い切って葛見にそう訊いてみた。  下積み時代より広くて部屋数も多くて家賃が高くなったアパートの一室。相も変わらず二人暮らしをしている俺達にとって「稽古部屋」と位置づけているはずの一間に敷かれた綿が潰れた布団の中で、葛見は電子タバコを燻らせながら俺を見下ろした。  学生時代から思っていたが、こいつは髪を下ろしているとやけに顔がよく見える。といっても正真正銘、モデルアイドル俳優級のイケメンにはほど遠く、所謂「雰囲気イケメン」という奴だが、しかしながら「イケメン芸人ランキング」や「抱かれたい芸人ランキング」の上位に入っても良い程の顔面偏差値だ。最も後者に関しては、俺がそう思っているからというのも、少なからず影響しているような気がするが。 「なんか言った?」  口からライムとミントの香りがする煙を吐き、葛見はグッとこちらに顔を寄せた。キスをされるのではないかと思い僅かに目を閉じかけたが、奴は眉間に皺を寄せる。眼鏡をかけていないから俺の表情がよく見えないのだ、このド近眼野郎は。  俺はこれでもかというくらい不機嫌な顔を作りながら、唾を散らす勢いで葛見に怒鳴ってみた。 「せやから、俺らの関係って結局なんなんって訊いてんねん」 「なんなんって……コンビやろ」 「ドアホ! どこに、ライブの後、毎度、毎度、こんなことするコンビが、おんねん!」 「こんなことって?」 「そりゃ、せ……くす……」 「顔真っ赤やで。童貞かいな」 「童貞ちゃうわ!」 「せやった、せやった」  煙とアルコールの匂いが強くなる。グッと目を閉じると暗闇の中で葛見の声が木霊した。 「俺で捨てたんやもんな。童貞も、処女も」  熱が頭まで上ったのが先か、身体を起こしたのが先か。果たして見当もつかないが、俺はいつの間にか葛見の肩を押して彼を突き飛ばしていた。真っ裸の相方が転がりながら壁に激突する様は、どのコントよりも、ドッキリ企画よりも面白かったが、今は一ミリも笑えない。相方同様真っ裸な俺は、飲酒と過度な運動のせいで足をフラつかせながらも布団の上に立ち、葛見に向かって人差し指を突き立てた。 「俺はなぁ! 童貞はボッキュンボンで優しいお姉さんにリードされながら喪失したかったし、処女なんて捨てるつもり一切無かったんや!」 「俺も見方によればボッキュンボンやで。優しいお姉さんやあらへんけど」 「お前は固いんよ。俺が求めとったんは、やわっこくて……」  頭の中で理想の人を思い浮かべる。中学時代、高校時代、何度も夢の中で自分の上に跨がってきた、顔もはっきりしない空想上の理想。頑張って頭に思い浮かべているのにもかかわらず、幾度となく見たはずのその人の姿は、全て葛見の姿に置き換えられてしまっていた。  こんなの俺の夢じゃなかったはずだ。  そう、夢ではない。全て現実で起きたことだ。俺の童貞は酔った葛見がその日のライブで使った女装セットをきた状態で上に乗ってきてそのまま奪われたし、童貞より遥か前に一生奪われないと思っていた処女を奪われた。  全て。目の前でだらしなく転がってなおも電子タバコを咥え続ける、中学時代からの悪友である筋肉男に、全てを。  童貞も処女も人生も恋心も全部こいつに奪われた。  腹が立つ。  観客席に座る客でもない癖に俺の目の前で笑ってるこいつに腹が立つ。  ただ、こいつに流されて何もかも奪われている自分にはもっと腹が立った。 「俺ってお前にとって何? セフレ?」 「んな訳あるかいな。大事な大事な相方や」 「全裸で涅槃しながらタバコ吸うなや。こっちは真剣な話してんねん……せやから、タダの相方やったらライブが終わる度にセックスしたりせんのよ」 「いや、昂ぶったらセックスの一回や二回するやろ。今人気のアーティストだってライブの後には盛っとるはずや」 「せやかて、俺や無くてええやろ! 風俗行くかデリヘル呼べや!」 「いや、お前じゃないとあかん」  葛見の一言に正面でキープしていた右手が下がる。顔を包む熱が怒りによるものか、照れと期待によるのもなのか最早判別がつかない。早口と滑舌の良さ売りだと公言しているとは思えないほどどもる俺を葛見は真剣な顔で見つめる。昔から一切変わらないまっすぐな瞳に射貫かれ、俺は思わず顔を逸らした。  瞬間、肌にじっとりとした体温を感じる。ハッとして心臓が大きく跳ねたのを感じたときにはもう遅く、あっという間に俺の唇は葛見の分厚い唇によって塞がれてしまっていた。  ライムメントールの煙の味。近所のスーパーで買ったゲソ天と少しだけ高いビールの味。そんな物よりも強く感じる、甘くねっとりとした熱に絡まれ、巻かれ、俺はいとも簡単に膝をつく。  口を離せば葛見はにたりと破顔してみせた。 「なにが、可笑しいねん」  俺の言葉にさらに葛見の口角が上がる。こんな顔、ステージの上でも――いや、見覚えがある。高校時代、初めてこいつとコンビを組んで漫才をした学園祭。そして、大喝采を浴びたあの日のライブ。ステージ上では無表情で一切表情を崩さずぼけ倒す葛見が、恍惚にも似た笑みを舞台袖で俺と二人きりの時にだけ見せたのだ。丁度、今と同じように。 「可笑しいやろ」  どの口が言うのだ。思わず突っ込みかけた俺は次の言葉に息を呑んでしまった。 「可笑しくて――おもろいやろ?」  確か、どうして俺を漫才に誘ったのかを葛見に尋ねたときもこいつは同じことを言っていた。 「おもろいから」と。 「俺はな、持田……お前とおもろいこと死ぬほど、腹一杯になるほどしたいねん。おもろいことは気持ちええやん? 漫才もセックスも、気持ちええからおもろいやん? おもろいお前とやったら、二倍気持ちええねん。せやから、漫才も、セックスもお前じゃないとあかんのよ」  可笑しな奴だ。何を言っているかわけがわからない。わからないのにもかかわらず、俺の心は「せやな」と納得を示してしまっていた。  葛見の言うとおり俺は「おもろい」――「可笑しい」のだろう。葛見と同様に。  本当に、こんなの笑い話にもなりやしない。心の中で呆れの声を上げながら、俺は含み笑いと共に招き入れるように葛見の体に押し倒された。

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