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------------ -------- ---- あの日から、アイツは暇さえあれば僕の所に来るようになった。 おかげで、とても迷惑している。僕は勉強で忙しいのだ。バカな貧乏人の相手をしてやっている暇はない。 『なぁ、今日は何を読んでるんだ?それどんな本?何て書いてある?』 『…………』 『じゃあ、今、読んでるところからでいいよ』 『なんで、僕がお前に読んでやる前提になってるんだよ!』 隣で汚れた体をこれでもかとくっつけながら本を覗き込んでくるコイツに、思わず息を止めた。やっぱり臭い。 あぁ、なんて図々しい奴なんだろう。なんで僕がこんな貧乏人に本を読んでやらなくちゃいけないんだ。 『だって、オレ字読めないから』 『だからなんだよ』 『だから、読んで!』 『なんで僕がそんな事しなくちゃいけないんだ!?もうっ、あっち行けよ!くさい!』 字が読めないからなんだと言うんだ。これだから田舎者はいやだ。字も読めないからモノを知らない。モノを知らないから、こんなにも俺に図々しくしてくる。不愉快だ。 『読んでくれないの?』 『……読むワケないだろ』 『なら、文字教えて?そしたら自分で読めるから!』 『はぁっ!?』  ------図々しいにも程がある!  俺は思わず本から顔を上げて、ソイツを睨みつけてやった。けれど、ソイツは僕の事なんてちっとも見ちゃいなかった。文字なんて読めない癖に、その目に浮かぶのは、まるで懐中時計を見つけた時のようなキラキラした瞳。 『このクルッてした形のやつ、好きだなぁ』 『……あぁ、もう。それは“風”って書いてあるんだよ』 『風!?風ってこの、今も吹いてるやつのこと?顔に当たってる風?』 『……そうだよっ!なんだよお前!』  本の中に書いてあった文字。それは帝国史上、最も長きに渡り来り広げられ続けた“風神戦争”について書かれているページだ。 324年、帝国は3度に渡り大国アンタイによって攻められた。それにより大陸一の軍事力を誇ると言われた帝国は一時危機的な状況にまで陥る事になる。帝国一強時代の終焉かとも諸国に言わせしめたこの大戦は、幸いな事に帝国地方特有の風害である疾風の接近により、アンタイ側の戦線が崩壊する事で幕を下ろした。  神が帝国を守った、そう言伝えらえている為この戦争は風神戦争と呼ばれるようになった のだが。 『かぜ、かぜ、かぜ』  とうとう頭でもおかしくなったんじゃないだろうか。僕は隣で繰り返し「かぜ」と呟く小汚い奴に思わず本を閉じようとした。しかし、それは叶わなかった。 『かぜ、これが、かぜ』 本を閉じようとする僕に、こいつは生意気にも俺の手を止めて来たのだ。 そのせいで、コイツの汚い手が俺の手に触れる。とっさに『汚い』とその手を振り払おうとした。 ただ、その瞬間、僕は触れた手に『あったかい』と思ってしまった。そのせいで、反応が遅れた。 『オレね、風の事は良く知ってるんだ』 『は?』 『この時期には東の方から突風が来るんだ。朝と夕方。だから、畑もそれに備えないといけなくて大変なんだよ。あと、季節によっても吹く風が違って、大きな災害に繋がったりするから、風はよく観察しないとダメなんだって、父さんも言ってた』 『お前、何言ってんだよ』 『ただね。こんなに良く知ってるのに“見た”事は一度もなかった』  次の瞬間、ソイツはまたしても懐中時計の説明をした時と同様に、耳を真っ赤にして、目を潤ませていた。潤んでキラキラ光る目の見つめる先には、もちろん僕しかいない。 未だに貧乏人の手は僕に触れたまま。 僕は臭いって理由ではなく、この時初めて息をするのを忘れた。 『オレ、初めて“かぜ”を見た』 『……っ』 『文字って、すごいね。見えないものが見えるようになるんだ』  ソイツの言葉に、僕も思わず本の中にある“風”という文字を見た。確かに、くるっとなった形は、まるで風そのもののようだ。 読んだ瞬間、僕の頬を風が撫でる。少し冷たい。けれど、やっぱりこの村の空気、そして風はとても綺麗だ。 『見えないものを見えるようにするだけじゃない』  僕は無意識に口を開いていた。未だに手に触れ続ける温かい手に、僕は少しだけおかしくなってしまっていた。 『文字は見えない気持ちも表せる』 『どういうこと!?』  パッと見開かれる目に、僕は少しだけ気分が良くなった。もっと、コイツを驚かせてやりたい。知らない事を教えて、またあのキラキラした目をさせてやりたい。 -------ぜんぶ、僕が教えてやる。 それはまるで、何も描かれていない真っ白いキャンバスに、好きに色を塗っていいよ、そう言われているようだった。 『見てみろ。これ』 『これ?まあるいね。何かを抱えてるみたい』 『これは“幸せ”って意味の文字』 『しあわせ!?しあわせって!?嬉しいとか大切とか大好きとかそんな気持ちの時に出てくるやつ!?』 『まぁ、そんなとこ』  嬉しい。大切。大好き。  そんな気持ちの時に出てくる気持ちが幸せだと、コイツは言う。確かに幸せは個々により異なる為、意味を定義付けるとなると難しいのだが、コイツは本能的に幸せをそう定義しているらしい。 言葉の意味を瞬間的に言語化できるコイツは、もしかすると余りバカではないのかもしれない。 『本当だ、しあわせが見えた!しあわせはまあるかったんだ。この中に、嬉しいとか、大切とか、大好きがいっぱいはいってるんだね!だったら、この丸はきっと腕なんだ!』 『……腕?』 『うん!そう!大切を腕で抱えてるところなんだよ!だから、この丸はきっと人の腕だ!』  暖かい手が僕の手に触れ続ける。幸せは丸い。丸いのは腕。大切をその腕に抱える事が、幸せ。 『お前って凄いな!懐中時計も知ってるし、文字も知ってる!なんでも知ってる!』 『お前は何も知らないもんな』 『ねえ!』 『なんだよ、他に何が知りたいんだ』  腕に抱えられているのだとしたら、きっと幸せって暖かいものなのかもしれない。こいつのせいで僕までそんな事を思ってしまった。けれど、触れ続ける手と手が、暖かさが、僕に幸せの意味を伝えてくる。 『名前、おしえて』  そう言って少しだけ照れたように笑うソイツに、何故か僕の頭の中には、まるい形をした「しあわせ」の文字が浮かんだ。

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