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36:神官

「ほら、いつものやらないのか」 「あ?あっ、あぁ」  その“いつもの”という言葉に、俺は初めウィズが何を指してそんな事を言っているのか理解できたかった。ただ、キラキラと輝くグラスを差し出してくる姿に俺はやっとピンと来た。 「かんぱい」 「ん」  互いのグラスが触れ合い、カツンという乾いた音が響く。この薄暗い店内にあり、しかしそのグラスに注がれた酒だけはキラキラと光り輝いていた。  あぁ、きれいだ。  グラスに口を付けると、気泡と霜氷でパチパチと弾けていた酒が鼻や口の周りに飛んでくる。気泡を含んだ水のお陰で、この酒の持つ独特の風味が良い具合に薄れ飲みやすくなっている。口の中で弾ける気泡が、なんとも愉快で面白い。  いかん。これは、気を付けなければゴクゴクと際限なく飲んでしまいそうだ。 「不思議なヤツだよ、お前は」 「急になんだよ」 「領地を持つ貴族と、医者なんて、どうしてそんな2つが同時に思いつくのかと思ってな」  そう、しみじみとした様子で洩らすウィズの口元には、未だに薄く笑みが張り付いてる。どうやら、俺の答えは近いどころか全く持って予想外だったようだ。しかも、あのウィズが声を上げて笑ってしまう程のキテレツな答えを、俺はしでかしてしまったとみえる。  じゃあ、答えは何だと言うんだ。 「神官だ」 「へ?」 「ビヨンド教。皇室国教会、パスト本会で教会図書館を担当する神官をやっている」  ビヨンド教。皇室国教会。パスト本会。  俺はウィズの口から出てきた、予想以上のエリート職業具合に一瞬にして言葉を失ってしまった。  ビヨンド教はこの世界全土を統一支配する世界宗教である。生まれた時から“前世”の記憶を有する人間のひしめき合う、この価値観の雑多な世界で、唯一世界の秩序を保持できる力を持つ宗教団体だ。  いや、むしろそれは宗教という域を超えた存在。今や、人々の常識であり、良心であり、秩序そのもの。 それを、この皇都でまとめ上げるのが皇室国教会であり、その総本山がパスト本会である。  この世界を、国を超えて取り仕切る者達。 「ほんとに、全然違うじゃんかぁぁ」 「だから言っただろう。近くないと」 「もう、何なんだよ。ソレ。しかも教会図書館なんて……そりゃあ知識豊富な筈だよ」  俺はなんどかドッと疲れてしまい、グラスをカウンターに置き自身の体をテーブルに預けた。  まさか、まさかの職業だ。神官はエリートだ。いや、エリートなどという言葉では足りない。言うなれば、神に選ばれし者だ。  そう、それは弟のような皇室直轄の近衛兵隊などと言ったエリートとはその質が圧倒的に異なる。そして、俺のような一般市民とはまず住む世界が違う。  その他多くの職業が、本人の希望、努力、資質等により、選択が可能な中、神官はそうではない。  この皇国や隣国の帝国のように、血統により引き継がれる世襲制の王家の地位と同様に、神官もまた努力云々でなれる類のモノではないからだ。  神官はこの世に生まれた瞬間になれるかどうかが決まっている。自身の中に保持されるマナの総量がある一定を超える者でなければ、そもそも就く事は叶わない。そして、そのマナの量は後天的にどうこうできるモノではないのだ。 故に、神官となりえる人材はごくごく稀な存在なのである。 “導く者”とも呼ばれる彼らは、人間の生死、そして転生にまつわる理を全て把握している、らしい。この辺りは、前世のない俺にはイマイチ理解できない。というか、興味が持てないので教養として知っておくべき部分すら理解しているか危ういくらいだ。  それもそうだろう、そもそも前世のない俺からすれば、皆とは思考のスタート地点が異なるのだから。  生と死、その2つを司り見届ける存在。  だからこそ、この世界の人間は無条件でビヨンド教の敬虔な信者となりえる。故の世界統一宗教。  ただ、敬虔な信者であるかどうかなど関係ない。神官が凄まじい地位と権力を有しているという事は、この世界では赤子でも理解しているといっても過言では無いほど常識中の常識なのである。なにせ、一族から神官が一人でも出たらその一族は末代まで働かずとも食うに困らないと有名だ。 通りで、こんな客の来ない酒場を道楽のように経営できる筈である。 「はぁぁぁ、疲れたー」 「一体何に対する疲れだ」 「ウィズの正体が予想外に大きすぎて疲れたって事だよ」 「神官だと告げて、そんな反応をされたのは初めてだな」  そりゃあそうだろう。普通に生きていて神官なんてそうそうお目に掛かれる存在ではない。教会でならともかく。ここは酒場だ。しかも、ウィズの酒場。  というか、酒場を兼業してるなんて、一体どんな神官だよ。だいたい、教会側はこの事を知っているのだろうか。後からバレてウィズは怒られたりしないのだろうか。 いや、待てよ、バレてこの店がお取り潰しなんて事になったら、俺はショックで寝込んでしまうぞ。 「おい、神官って他に仕事持っていいのか?」 「どういことだ?」 「だから、この酒場ってウィズがやってて良いものなのかってことだよ!もしかして、隠れてやってる?バレて教会から潰されたりしない?」 「…………」 「っは!もしかして、だから名前とか看板とか付けないのか?大丈夫だ、安心しろ。俺はこの店の事、まだ誰にも言ってない」  俺は思わずウィズに近寄り、声を落としてヒソヒソと話した。ここには、いつも通りウィズと俺、そしてフクロウしか居ない。それにも関わらず、俺はどこかで誰かが聞いていやしないかと内心ビクついてしまっていた。誰かに密告でもされて、ここが潰されるなんて絶対に嫌だ。 「っあははは」 「なになになに?急になに?」 バサバサバサッ。  急にウィズが笑った。先ほどの声を上げて笑ったのとはまた違う、それは心底愉快といった様子で、最早腹を抱えて笑う程だった。 今日のウィズはどこかおかしい。やっぱり今日のこの酒は、度数が強いのだろう。完全に酔っているに違いない。  そして、そんな主人に呼応するようにフクロウも羽ばたく。もしかして、コイツも笑っているのだろうか。というか、この鳥に笑うという概念は存在するのだろうか。 「アウト、お前は本当に面白い奴だなっ」 「ウィズ、酔っ払い過ぎだ。水飲むか?」 「酔ってない。お前が、あんまりにも……ふふっ」  未だに我慢ならんと言った様子で言葉の合間に笑うウィズに、俺は急いで別のグラスに水を注いでやった。そう、以前俺が水を入れてもらった、あの夜空みたいなグラスだ。 「ほら、飲め」 「っふふ、いや、だから、ちがっ……もう、いいか」 「客の俺が言うのもなんだけどさ、今日はもうこの位にして帰った方がいいんじゃないか。俺はまだ帰りたくないけど、まだまだ飲みたいけど」 「どっちなんだ」  ウィズが帰るとなれば、必然的に俺も帰る事になってしまうので本当は勧めたくはないのだが、酔っ払い過ぎるのも心配だ。こちらも大人なので、それくらいの分別はある。 「酔ってないから心配するな。明日から数日店を締める事になるんだ。気にせず飲んでいけ」 「あーっ!そう言えば最初にそんな事言ってたな!うわー!明日から俺どうしたらいいんだ!」 「別の酒場にでも行ったらいじゃないか」 「いやだ!俺はここがいいんだ!」 「…………」  俺は明日から店を締めるという最初に言われた筈の事実をすっかり忘れてしまっていた。お陰で、改めて言われたその言葉のダメージの重い事といったら。  南部に行くといっていたが、それは神官として南部の教会支部へ派遣されるという事だろうか。

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