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65:お誘い

「セイブ、先生になんて口の利き方をしているんだ」 「アズ、違うよ。ちょっとからかっただけ」 「君は先生をからかえる程の立場なのかい?」 「いや、そうじゃないけど」 そう、急にどこかバツの悪そうな表情を浮かべるセイブの姿は、やっと外見相応の10代後半のような顔になった。 「……オーバー?君は昔から色んな人に言っていたよね?“立場をわきまえろ”って。君がそれを他者に告げる時、いつだってそれは正当な理由と立場があった。そんな君が、今なぜその言葉に反する事をするの?」 「リー、あの」 「それに、オーバー。貴方はもう国王ではないんだ。もう誰も貴方の寝首を搔いたりしない。自分の知らない情報に怯える必要もないんだ。だから、他人の意外な一面を見た時に“情報を修正する”なんて悲しい言い方はしないで」 「うん」  早々に前言撤回したい程“王様”の仮面が壊れた。しかも途中から、聞き慣れぬ固有名詞が登場するようになったが、これは彼らの前世の名だろうか。 「リー」 「オーバー」  まぁ、そうだろう。間違いない。何故なら、互いに見つめ合うこの二人の視線の熱さは、この人生分に相当する熱量を遥かに超えている。さすがは、敵国が攻めている窮地の中ですら、互いを見つめ合っていただけの事はある。  そして、最終的に、またしても二人は二人の世界に行ってしまった。この隙に、新しい酒でも注文しておく事にしよう。 そう、俺が目配せで店主を呼ぼうとした時だ。隣から、タン!と勢いよくグラスをカウンターに置く音が聞こえた。 「さて、ここでの一杯は終わった。次の店だ」 「へ?」 「アウト」 「な、なに?」  ウィズからのどこか逸らせない視線とその呼びかけに、俺は思わず背筋をぴしゃりと正してしまった。そう言えば、様々な情報が重なってしまったせいで忘れかけていたが、俺は“あの日”ウィズから逃げたのだ。しかも、水をぶちかけて逃げるという、そこそこ喧嘩を売るような逃げ方で。 「俺は、こないだまで皇国南部地方の教会へ出張講師と、解読図書の写本、知の禁書庫の図書解析を行ってきた」 「そ、そっか」 「南部は気候も温暖で安定している。空は青々と広くて、海に面している為、浜辺は特に美しい」  急に南部の観光地について語り始めたウィズに、俺は多少の警戒を残しつつ、少しだけ想像してみる事にした。 この皇国はラウンド大陸のほぼ中央に属する国の為、内陸も内陸。その為、俺はウィズの言う“海”というのを実際に見た事はないのだ。  ただ、射出砂で描画された“海”の姿は、学窓時代に地理の教本で見た事がある。あれはとても美しかった。なんと、海は空と同じ色だったのだ。  青空と海。どちらも広く果ての無い世界に続く入口。 「きっと、お前は“海”を見た事がないだろうと思って、描画してきた」 「見たい!」  俺の間髪入れない返事にウィズは一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつものように口元に小さな笑みを浮かべた。それを見ると、ここはウィズの酒場ではないのに、“あの”俺の大好きな場所のように錯覚してしまう。 あぁ、そうだ。 あそこは俺の一番のお気に入りの場所。 傍にはファーが止まり木に止まってニッコリ笑っている。弦楽器の奏でるテンポの良い音楽、怪しくも暖かい灯りの照らす、あの――。 「それに、南部には“神の酒”と呼ばれる地酒がある」 「神の酒!?何それ!」 「南部地方でしか取れないエビヅルの蒸留酒を下地に、香草で香りづけをした酒だ。アルコール度数はかなり高く、地元での主な飲み方は水割だ」  ウィズの淡々とした説明に、俺の頭の中はその飲んだ事のない酒の味でいっぱいになる。神の酒なんて呼ばれる、果ての無い世界の入口で作られる酒。あぁ、それは一体どんな味なのだろうか。 「この酒は不思議な事に、水で割ると無色透明だったものが白濁色に変わる特性がある。俺も最初に見た時はその姿に驚いたものだ」 「透明なものと透明なものが混ざって白になるなんて……魔法の酒のみたいだ!」  あぁ!なんて事だ!そんな摩訶不思議で素敵な酒があるなんて!  最早、俺の舌は既に飲んだ事もない神の酒の虜だった。しかし、南部地方の酒など、きっとこの酒場にはないだろう。距離も遠いし、それにそんな酒を仕入れていたとしたら、俺の手に届くような値段にはならない気もする。  これは俺もいつか南部に行って飲むしかないのだろうか。  そう俺が悔しさに拳を握りしめていると、またしても俺の目の前にウィズの掌が優雅に差し出されていた。その手はまるで、最初のウィズのように「さぁ、どうぞ」と何かを差し出すような仕草だった。 「俺は神官でもあるが、実はとある酒場の店主でもあるんだ」 「……っ!」 「移動に掛かる酒の保存方法も頭の良い俺は全て心得ている」 「あ、あぁ……!」 「しかも、マナもこの身に溢れる程潤沢にあってな、移動馬車の荷台を適温に保つ事なんて訳がない。自分で言うのもなんだが、もしかしたら俺は魔法使いなのかもしれない」 -------なにせ、その酒を仕入れて適正価格で店に並べているんだからな。  ウィズの言葉に俺は殆ど空になってしまった、この店の飲み慣れたエビヅル酒の最後の数滴の入ったグラスを見た。この酒場にあるのは、見知らぬ人々との出会い。  そして、ウィズの酒場にあるのは、まだ見ぬ世界と、飲んだ事もない酒との出会い。  今の俺にとって魅力があるのは、そう、もちろん。 「さぁ、どうする?」 「行く!」  俺はその瞬間“あの日”の事など綺麗に忘れ去り、ウィズの手を自ら取っていた。 あぁ、酒の舞台になら、俺は喜んで上がろうじゃないか。

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