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第一話 最悪の再会 上
『気持ち悪いですよ、普通に』
その貶 すように嘲笑 した声が、頭の中で警告音のように響き渡る。渋谷の街を歩いていた一ノ宮蓮 は、人気コメンテーターの批判意見で足を止めた。誹謗中傷ともいえるその言葉は、案の定蓮の心にずさりと鋭利な刃物で刺した。
スクランブル交差点の大きなテレビ画面に、露骨に嫌さそうな顔が映る。眉を顰 め、見下すような目。時折口角を上げ、べらべらと嘘とデタラメの合唱祭が始まる。
横断歩道の信号が青に変わる。周りが動き出す中、自分だけが立ち尽くしていた。まるで意図的にリモコンを押され、動かなくなったロボットのように。
「ちっ…吐き気がする」
(普通ってなんだ普通って。あんたの方がよっぽど気持ちわりぃ)
蓮は心の中で愚痴をこぼしながら、深いため息をついた。
夕方に流れているニュースは、どうやら今話題になっている「同性愛」についてだった。
「同性愛」とは要するに、同じ身体の性を持った人に恋愛感情や性的感情を抱 く人のことをいう。昔は病気や異常者、障害者など言われたが、社会運動を通してそういった扱いをする人は減ってきた。それでも未だにそんな風に呼ぶ人もいて、『おかしい』という懸念 の声が完全に消えたわけではない。そんな世間の声と闘い、それぞれの恋愛の形は自由なものだと訴え続けた。その結果、同性婚といった新しい形に繋がってきている。
しかし、この国では法律としてまだ同性婚は認められていない。認められている他の国は、世界で二十七ヶ国存在する。オランダを皮切りに、ヨーロッパ全土、北米、南米、アセアニアへと広がっている。また、同性パートナーを法的に認めるパートナーシップ制度(シビルユニオンともいう)がある国も多数存在する。法律上の結婚とは異なり、内容に制限を設けられているのが特徴だ。養子縁組や扶養、財産分与といったものにされるのが一般的だが、それは国によって異なる。
風当たりはまだ強いが昔と比べ、ようやく一歩一歩進み始めたというわけだ。変わりつつある状況だというのに、この国は依然 止まったままだ。今の俺と同じように……。
誰もが認めようとしない。人は得体 の知れないものを気味悪 がる。見たその目で判断をし、けして中へと入り込もうとはしない。
日本は特に変わることを恐れる国だ。
なぜなら怖いからだ。怖がることは悪いことじゃない。人は臆病だから恐怖が勝 る。当たり前のことだ。誰だって最初はそうなのだから恥に感じる必要はない。ただそのままでいることと変わることは別だ。ならなぜ人は恐れるのか。
それは、中身を知らないからだ。例えるなら、見えない箱の中身をいい当てろと同じでわからないからだ。ならば調べればいい。勇気を出して、手を伸ばせば世界は広がる。ゆっくりとその箱に手を入れて、確かめてみればいい。中身を知って、知識として認識すればいい話だ。
だけど、ただの探究心によってズカズカと土足で必要以上に踏み荒らさないでほしい。人によっては荒らした挙句 、理解できないとわかるとそのまま去っていく。逆に立ち止まり、箱の中身を言い当てて、手を取り合う人は極わずか。
誰もがみんなで共感するのは難しい。けれど、それでも……俺たちのような人を、存在を、認めてほしい。受け入れなくても、そこに居てもいいよという証がほしい。
手を取ってくれる人が、ほしい。
だってそれではあまりにも、心が淋しすぎる。
けれどもその手すらも振り払われてしまう。俺の世界は、そんな肌寒い冬のようだ。
蓮は、家族からさえも拒絶されていた。そして、一番理解して欲しかった相手にも。
それゆえ、理解できない人との深い繋がりを持つことをやめてしまった。
人は優しい仮面を被っただけの怪物だ。
そして今日も、誰もが見えないなにかを隠し持って生きている。
蓮はコメンテーターと司会が会話する内容を耳に入れては、ズキ、と胸の痛みが増した。まるで前のようだと憫笑 した。自分に向かって陰口 を言われているようだと、嫌でも錯覚する。思わず舌打ちをし、その場にあった石ころを蹴飛ばした。いい内容を期待して聴いていたのが馬鹿 だったとイヤホンを取り出す。
これ以上惨めになりたくない。
音量を上げて、耳障りな会話を聴こえないようにする。ちらりともう一度テレビの画面を見て、ぐっと下唇の肉を噛んだ。
毎度のことだが感情移入しやすい蓮は、その純粋さをたまに後悔する。感受性が豊かなほどアーティストとして最高なのだが、それ以外の人間関係や恋愛といったものは苦手だ。
その場にいても無駄なだけだと蓮はようやく二回目の青信号で横断歩道を逃げるように渡った。好きな音楽を爆音にしながら振り返る事なく歩く。
きっと俺は、秘密を抱 えたまま死んでいくのだろうな。
歩いていく足がいつもより重く感じた。
東京都内のとある小さなライブハウス。約五十人ほどしか入らない会場だ。ここでは元人気シンガーが週末にライブをしている。その時の会場はいつも満員で、人が外まで溢れ出ている。
美しい海に誘い込まれ、どぷん、と溺れてしまうような歌声。宝石という甘い誘惑に狂わされた海賊達が深い深い海の底へと落とされるような…そんな美声に皆が酔いに来ているのだとか。
そのシンガーは好きで歌っているようで周りの声を全く気にしないタイプだった。ファンの間ではその破壊力が凄いのだという。どことなく匂わせる色気と誰かを想って歌っているそのせつない心の叫びが皆を虜 にする。その歌い方はテレビに出ていた時とは少し違って見えた。さらに噛みしめた祈りのような歌声に変わったようだと言われている。
まだ会場に客が入っていないというのに、活気で溢れるステージに汗が滴り落ちる。リハーサルを済ませた蓮はそんな自分の評判を無関心に機械の最終チェックをしていた。
蓮はギターのチューニングを合わせ、ピアノの音で歌声を調整する。今日は一番の猛暑だとテレビで言っていた。真夏日が続いたせいで、いつもより照明がやけにじりじりと肌を焦がす。こんな暑い日は喉が枯れるといけない。蓮はいつもステージ用の隅っこに用意している水を飲んだ。
実際ファンにそう言われて特に変わったつもりはなかった。変わったのは世間の方だろう。明らかに俺たちのような異端者を見る目が変わった。徐々に時代が変わろうとしている。蓮はそれを嬉しいようで、どこか置いてかれたような気持ちで複雑だった。
男性人気シンガーREN。一八歳でソロデビューし、歌声と若さであっという間に世間を魅了させた。五年前まではテレビで活躍する有名芸能人だった。しかし、ある問題発言と記事により二十一歳で芸能界から去る事になってしまった。
RENは問題なるような発言をしたつもりは全くなかった。だけど世間が問題とみなせばそれは問題で、彼は手のひらを返されたように蚊帳の外へと放り投げられた。次第に仕事もなくなり、マスコミに追われて、終 いには居場所を失った。酷い噂まで立つようになり、強制的に辞めさせられたことになっている。
あくまでも世間的な噂であって実際どうなったのかは誰も知らない。
けれど、あの歌声は忘れられない。忘れられるはずがない。ある人が、または心を動かされた人が救われたように。
彼が去った二年後、誰かを救済する歌声は再びここに、小さな世界に帰ってきた。
RENは変わらず歌い続けていた。その深い海で舞い続ける美しい人魚のように。
たった三十分。ライブハウスで汗だくになりながら歌う蓮は泣いているようにみえた。
一ノ宮蓮という男は元有名シンガーRENだった。
ライブ帰りは決まってある所へ行くのが蓮の日課だ。日課というよりもはやそれが欠かせない日常生活となった。憩 いの場所へと向かう蓮の脚はどことなく疲れているようだった。
ポツンと一つの街灯ランプが扉の横に寂しそうに建っている。薄暗い照明に照らされた猫の絵がある扉。その猫が奥へと誘うように歩いている。まるで本当に歩いているような、不思議な絵が描かれていれるのがここの目印。目の錯覚のような絵に不気味 さも感じられる。普通の人でも思う少し怪しげな場所。扉を開けると天井 にランプが一つ。また薄暗い演出が奇妙さを引き立たせる。その廊下を奥へと歩みを進める。その先は危ない取引の場所ではなく華やかなバーだ。客の笑い声やグラスに入ったカラカラと鳴る氷の音。他人に聞かれたくない話や口説いてるヒソヒソ呟くような囁 き。今日も大変賑わっているようだと蓮は周りを見渡して、お気に入りの場所へ進む。カウンター前には、ずらりと並ぶアルコールのカラフルな色のボトル。水の中にいるような照明に真珠のような白いテーブルと深紅 色の椅子 。統一感が無くて目が痛くなるような奇抜なセンスの内装。派手好みのオーナーのチョイスらしい。このカウンターの一番奥の隅 が蓮のいつも座るお気に入りだ。
「あら、蓮ちゃん。今日もお疲れ様。ライブどうだった?」
ここのバーのマスターであるイクミと目が合い、話しかけてくる。甘いカクテルを頼み、蓮は会話に戻った。
「…今日はイマイチだった」
「やだ、珍しくネガティブ発言。なんか嫌な事でもあった?」
イクミにそう言われた蓮が思い当たったのは、あのコメンテーターの顔だった。
思わずむっと蓮の顔が自然と眉を曇らせた。
「あ~……、多分夕方のアレだ。あのクソみたいなニュースのせい」
「夕方のニュース? 今日仕込みをずっとしていたから見てないのよね。どんなやつ?」
「同性愛についてのやつ」
「…なるほどね。それで今日は乱れちゃったと」
「……ん。まぁ、そのせいでっていうか、なんとなく両親の顔がチラついて」
蓮は無理やり笑ったような花がくしゃりと潰れた顔をした。
「な~る。そういえばアンタんとこはこっ#酷__ぴど__#く拒絶されたんだっけ」
イクミが柔らかい目線で軽く言ってきた。
蓮は改めて受け入れてはもらえなかったことをきゅっと小さく拳 を握る。「うちは水商売やってる家だったから軽かったわよ」とイクミはその辛さを知らない。だが、蓮はそれを妬 んだりはしなかった。水商売なりの別の苦しみはある事を重々承知しているからだ。
「まぁ…別になんとも思ってねぇけど」
諦めたように目を閉じ、違うカクテルを頼んでは一気に飲み干した。
蓮は思ってもいないことを口に出した。しかしそれをすぐにイクミに指摘される。
「嘘、嘘。せめて両親にはわかってほしかったっていうのが普通よ。誰でも親だけにはわかってほしいものでしょ」
普通よ。とイクミの言ったその言葉に蓮はぴくっと小さく身体を揺らした。
「…普通って、なんなんだろうな」
何度も考えては正解を見つけられないこの問いに、捻じ曲げるように頭を悩ます。
「難しいでしょうね。私たちみたいな同性愛者には」
心苦しいような絞った声に悲しくなり、酒が進んでしまう。
イクミも俺と同じ同性愛者である。このバーはいわゆるゲイバーというところだ。
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