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第9話
昨日より少し距離が縮まる。そんな日々を繰り返す。
会社にいる時間は上司と部下で、恋人の関係は挟まない。最低限それだけはと決めたけれど、案外それが難しくて、ともすれば二人きりの資料室や外回りでついつい触れたくなってしまう。それくらいと思うけれど、その小さな気の緩みが何かミスに繋がることある。
それは、仕事のミスかも知れないし誰かに関係を知られることかも知れない。俺は40歳過ぎまで独身で両親も孫は諦めているので、今更ゲイだと知られても平気だけれど、宮下は違う。小さなことであっても若い宮下の負担になるようなことは避けたかった。
そこは宮下も理解して納得してくれた……はずなんだけどな?
机の上に置かれた書類の上に付けられたメモ。
『明日までに確認お願いします。宮下』
これはいい。そこに更に張られた白紙の付箋に何かあるのかと剥してみると、赤いペンで書かれた小さなハートマークと『スキ』の文字が裏に書かれていた。
……おまえは~~~!!
バッと顔を上げて宮下を探す。作業用に置かれた机に広げた図面を見ながら他の先輩社員と相談をしていた宮下が、俺の視線を感じてこちらに顔を向ける。と、ニヤリと笑った。
いやいやいや、何笑ってんだ。俺は怒ってるんだよ! と顔には出さないように視線だけで訴えてみるが、全く通じない。ますますニマニマと顔を崩す宮下に呆れて視線を逸らした。そのままいかにも用事がある振りをして廊下に出る。
止めろって言ってるのに……。俺は、怒ってるんだからな。こんなの、公私混同だろ?
……いや、わかってる。自分でもわかっているんだけど、……どうすればこの赤くなる頬を隠せるわけ!? なんで宮下はいつも平然としてるんだ? 恥ずかしいことをしているのは宮下なのに、何で俺がこんなに恥ずかしくなって逃げるみたいにしないといけないんだ!
腹立ちまぎれに「くそっ」と毒づいてトイレに逃げ込んだ。
初恋に浮かれる小学生か中学生みたいな宮下の小さな悪戯に振り回される。何でもないって平気な顔をして流してしまいたいのに、何だこの甘酸っぱい気持ちは、湧き上がって来る嬉しさは……。
狭い個室の中で、触るだけで熱くなっているのがわかる頬に手を当ててため息をつく。
「振り回されてる……」
認めたくない現実を見つめる。何かで関係がバレるようなことがあったらそれは絶対俺のせいだろうし、仕事でミスするのも多分、俺。
親子程も年が離れているし、職場でも上司だし、きっと恋愛経験だって俺の方が豊富だし、リードする気満々でいたのに、こんな歳になってこんなことで悩むなんて。初めて恋人が出来た高校時代だってこんなじゃなかった。
恥ずかしさを悔しさに変換する。悔しさは腹立たしさになって、ひとりで宮下に八つ当たりした。
「大体宮下が職場で変なことするから悪いんだよな。仕事中に何考えてるんだって話だよ。こっちは色々気を使って話しかけるのさえ気を使ってるってのに、あんなメモ付けて誰かに見られたらどうするつもりなんだって……」
ぶつぶつと一人呟いて気を落ち着ける。でも解ってる。こんなことを相手のせいにしてるなんて格好悪い。格好悪いから宮下には見せられない。
……あー、本当に格好悪い。
「格好悪い大人になるな! ……よし、格好悪いの終わり、矜恃を見せろ、俺!」
パシッと頬を叩いて気合いを入れた。
トイレから出ると偶然か意図的か、ちょうど宮下が廊下を歩いていた。きょろと他に人がいないのを確認して話しかける。
「仕事中だぞ。ああいうの、止めろよな」
「ああいうのってかなんですか?」
宮下は白々しく空とぼけた。
「付箋!メモ」
「何か書いてありました?」
「……あっただろ」
「それ、本当に俺のメモですか?」
「宮下以外にあんなこと書くやついないだろ」
ため息をついて言うと、からかう口調で言い返される。
「そうかなぁ? 宮下さん独身だし、優しいし……『スキ』って言う人くらいいそうただけどな」
内容知ってること自体が「自分がやりました」って言ってるようなもんじゃねーか!
「……だから、そういう『スキ』とか、そういうの止めろよ」
スキ、なんて自分で言っときながら、ポポポと赤くなっていくのがわかる。本当に中学生か俺は……。
ハァー、と宮下がため息をついた。
「……だから、そういうのですよ」
あ、しまった。これ、いい歳して子供っぽいって呆れられてる? ツキリと胸が痛んで、火照った頬からサッと熱が引いていく。
そのまま怒ったような宮下に腕を引かれ、今出たばかりのトイレに連れ込まれる。個室まで押し込まれてガチャリと鍵をかけられた。
「すみません。ちょっと今だけ……」
そう言うと、掴んでいた腕を離して向かい合い両手を握られる。
なんだ? この再会を喜ぶ昔馴染みみたいな光景は……。さらに肩口に頭を乗せられて身体が接近する。
怒ってる……んじゃないよな?
不安になって、宮下のいい匂いのする頭に鼻を寄せる。ほのかに甘い柑橘系の香りに宮下の体臭が混ざって妙にホッとした。宮下の匂いをもっと嗅ぎたくて抱きしめたくなるのを、グッと堪えて我慢する。
「あの、一回だけ、ちょっとだけキスしてもいいですか?」
そう聞かれた時には視線が合わない程近くで見つめられていて…、
「あ……、」
答える前に、唇が重ねられた。
軽く触れるだけですぐに離れようとする唇を、名残り惜しげにもう一度押し当てて下唇を甘がみして離れる。
それだけなのにゾクゾクする快感が、離れた唇を追わせる。軽く触れたときに両手を握る手にギュッと力が込められて、もっと、とねだる前に唇が離れた。
無意識に今触れた感覚を思い出すように唇を舐めて、もう少し触れたかったと視線を落とした。
「我慢できなくてすみません。……週末、家に行ってもいいですか?」
「家……」
何も考えずに反芻すると、慌てたように宮下が訂正する。
「家じゃなくてもいいんですけど、えっと……、加藤さんを補充したいというか、イチャイチャしたいっていうか、もっと触りたいっていうか……、付き合ってる実感が欲しいんです!」
最後は手を握り締めて力説される。びっくりしていると更に宮下が言い募る。
「今、付き合っているって言っても職場では触れないですし、話するのもこうやってこそこそしてるし、会社出ちゃってからもなかなか一緒になれないじゃないですか。三年以上待って、やっと付き合ってもらえたのに、正直ツライんですよね。なんかこう……、もっと、付き合ってます!! っていう実感が欲しいっていうか。いや、加藤さんはちょっと話しかけるだけでもすごく可愛い反応返してくれて、俺、本当に幸せなんですけど……、その分もっとなんかこう……触りたいんですよ! わかってもらえます!?」
「あ……、はい……」
「今週の金曜日は……」
「あ、その日は現場に行ってるからダメかも」
「……ですね、じゃあ、土曜日の朝」
「えぇ、朝……?」
「朝、朝迎えに行きます! いいですよね、一日、付き合ってくれますよね?」
否、とは言わせない勢いで、あっという間に約束を取り付けられてしまった。
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