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第1話
その男と出会ったのは兄の葬式だった。
享年二十一歳。死因は自殺。マンションの自室で首を吊っていたと聞かされた。
高校三年の夏休み前のことだった。学校に掛かってきた電話で先生に病院まで送って貰ったが、病室で俺を出迎えたのは啜り泣く母親と俯いたまま言葉を失う父で、俺は、ベッドの上、覆い隠された兄の顔の下を見ることは出来なかった。
兄の|侑《いく》は母親似で、男にしては線が細く、そして体も心もあまり強いひとではなかった。
けれど誰よりも真面目で勉強熱心で、頭の悪い俺にも色んなことを教えてくれた。俺はそんな兄のことを尊敬していたし、好きだった。
そんな兄が家を出ていったのは兄が大学に上がってから、俺が高校生になってから間もなくだった。
いつも一人でいて、実家にも友達を連れてくることもなかった兄が突然部屋の荷物もそのままに出ていったのだ。最初は事件に巻き込まれたのかと心配したが、当時兄のバイト先の人間に「恋人と暮らす」という旨の話を零していたことを聞き目の前が真っ暗になった。
何故、家族に、自分には教えてくれなかったのか。それでも、兄がなにかに巻き込まれたわけではなく自主から家を出たのならいい。どこかで元気で暮らしてるのならそれで俺にとっても十分だった。
そう言い聞かせ続けながらも生きていた矢先のことだった。兄は死んだ。俺を残して死んだのだ。
兄の葬式は静かだった。兄は人間関係が派手ではなく、寧ろ俺は兄に恋人がいることすら知らなかった。ショックで未だ立ち直れていない母の代わりに葬儀の受付を行った。
弔問者の顔を一人一人見ていく。親戚たちがほとんどだ。世間話を交わす気にもなれなくて、憐れむような顔の親戚たちに俺はただ決まった言葉で返すのが精一杯だった。
兄と一緒に暮らしていたという女がどこのどいつなのか、参列者の顔を探す。けれど、元々男子校育ちだったというのもあってか参列者の大半が男で、異性がきたとしても母と同じくらいの年齢のバイト先の女性か親戚ぐらいだ。直感ではあるが、兄の恋人がこの葬式に来てないことはわかった。
会ったところで投げかける言葉などない。掴みかかるわけでもない。それでも、俺が兄と会えなかった間の兄の話ができたら、それだけでもこの胸の取っ掛かりは無くなるかもしれない。そんな風に考えていただけに、それらしき人物がこの場に現れすらしない事実に憤りすら覚えた。
悲しみを感じる暇すらない。芳名帳に名前と住所を記帳してもらい、返礼品を渡し、式場へと誘導する。それは従兄弟が受付を代わってくれるまで続いた。
「お前も朝からずっと動いてるんだろ、少し休んでこい」
社会人の従兄弟はそう俺の肩を叩き、それから自販機で買ってきてくれたジュースを手渡してくれる。ありがとうございます、とだけ返し、俺は葬儀が始まるまでの間外の空気を吸いに行くことにした。
斎場の外は憎たらしいほどの快晴だった。
駐車場前、斎場の入口横、そこには背が高い男がいた。煙草を咥え、空を眺めていた喪服の男は兄と同年代くらいだろうか。あまりにも今までの参列者とは違う雰囲気だったからこそ余計印象に残った。長い足を組んて立っていたその男は俺の視線に気付いたようだ。慌ててその煙草の火を消した。
「ああ、ごめん。もしかしてこの建物って全館禁煙なのかな」
その薄い唇から吐き出される声は柔らかく、耳障りがいい。先程までの冷たい無表情から一変、慌てた様子の男に俺は思わず言葉に詰まった。
この建物が禁煙かどうか未成年の俺が知る由もない。もしかしたら説明を受けてたかもしれないが、覚えてなかった。
「多分大丈夫じゃないっすかね、何人か煙草臭い人いましたし。それに、喫煙所なら中にもありますよ」
「あ、そっか。よかった。こういう葬式って初めてきたから勝手分かんなくて」
今日この斎場ではうちの他に二件ほど葬式が行われてるはずだ。もしかしてそちらの参列者なのだろうか。気になったが、そんなことをズケズケ聞くのもおかしな気がして言葉が出てこなかった。
本当は外の空気を吸いたかっただけなのに。まるで気まずさから逃げるように、俺は従兄弟から貰ったジュースの蓋を開ける。
「君も、誰か大切な人が亡くなったの?」
赤の他人相手だと分かっていた。けど、だからこそなのかもしれない。優しい口調で尋ねられ、兄が、と小さく口にすれば男の目が僅かに開いた。
「もしかして君、侑の弟?」
「兄をご存知なんですか?」
「うん、大学で知り合ってね。彼には本当にお世話になったよ」
「……、……」
この男が、兄の友達?
俄信じることができなかった。兄の周りにいたのは兄と同じタイプの大人しい人間ばかりだったし、それこそ目の前の男は兄と正反対のタイプだった。堂々として華がある。……それに、兄は嫌煙家だ。
「そっか、君が侑の弟君か。聞いてた通り、あまり似てないんだね」
「っ、兄は俺のことをなんて」
「合わせる顔もないって言ってたよ。君たち家族に何も言わずに家出したんだろ?」
今度こそ言葉を失った。
そんなことまで知ってるなんて、やはりただの知人ではない。兄は本当に親しい相手にしか自分のことを話さない人間だ。
もしかして、この人なら。この人なら兄の恋人が誰なのか分かるのではないのだろうか。それは一抹の希望だった。
「っあの、俺、兄と付き合ってる方を探してるんです。けど、兄は俺にそんなこと教えてくれなくて……もしかして何か聞いてないですか?」
「恋人を? どうして?」
「兄は自殺するような人じゃない、だから、その人なら何か知ってるんじゃないかって」
そこまで口にしてハッとする。兄が自殺したことはあまり口外するなと言われていたのだった。兄の名誉のためにも黙っておかなければならないことをぽろりと口にしてしまったときにはもう遅い。
けれど、目の前の男は表情を崩すことなくこちらに目線を向けるのだ。
「……恋人ね、悪いけど俺もあまり踏み込んだことは聞けなくてね。けど、あいつは先月にはフリーになってたはずだけど」
「フリー?」
「そ、一人部屋の中で一人で暮らしてたって……もしかしてまだ部屋見てないの? 俺が最後に行ったときは一人暮らしの部屋だったよ」
「……知らないです」
恋人の所在までは分からなかったが、その代わり新しい情報を得ることはできた。それに、間違いなくこの男は兄と親しい間柄のようだ。本来ならば恋人でなくとも兄の友人に会えたことに喜ぶべきなのだろうが、それよりも強い別の感情が込み上げてくるのだ。
「まあ、昨日の今日だしバタバタしてたんだろうし仕方ないよ」
あの、と言いかけた矢先だった。
斎場の扉が開く。どうやら式が始まるようだ、親戚たちが俺を探しに来たらしい。
「すぐに行きます」と答え、目の前の男に目を向けようとしたとき。
「……それじゃ、俺もそろそろ受付してくるよ。いつまでもここで逃避してるわけにはいかないしね」
そう男はネクタイを締め直し、「それじゃ」とだけほほえみ返して俺よりひと足早く斎場へと戻っていく。俺は手に残ったままのジュースを飲み干し、慌てて斎場へと戻る。そのときにはもうあの男の姿はなく、受付へと戻った俺は芳名帳の出席者名に目を向けた。そして、最後に記載された見慣れない名前を指でなぞる。
――花戸成宗《はなどなりむね》。
そう、その名前欄には几帳面な字で綴られていた。
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