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第3話

「春ちゃんっ」  屋敷の裏で落ち着きなく、そわそわとしていると、少年期特有の感高い声で名前を呼ばれた。その声に反応し、急いで振り返ると、服を泥だらけにした少年がにこにことしながら手を振り、こちらへ向かって走ってきている。  それを見て春国は嬉しいような、けれど泣きたいような気持ちになった。彼が、有雪が屋敷を抜け出して会いにきてくれたのだ。  けれど、これでもう彼に会えるのは最後だ。  明日から春国は生家を出て、藤白神社に引き取られる。家族からも離れて、神子になるべく育てられるのだ。  春国は有雪に駆け寄った。 「あっくん、ああ君はまたこんなに泥だらけになって、膝も擦り剥けていますね」 「屋敷を抜け出す時に転んだんだよ、大丈夫だから、そんな泣きそうな顔をするなよ」  毎回、ここへ来るたびに彼は傷だらけになっていく。どうやら家人の許可を取って出てくるわけでは無いらしい。来てくれるのは嬉しいが、春国は心配だった。 「救急箱をとってきます、傷の手当てをしましょう」 「そんなのいいよ、こんなのほっとけば治るからさ」 「しかし……」 「ほら、そんなことよりこれ、やるよ」  有雪は右手に持っていたものを春国に渡した。  少し萎れているが、まだ花は開いている。  薄い紫色をしたその植物は「雪解花」と言う。名前の由来はこの花が咲き始めたら、雪が解け始め、春がもうすぐ来ると言われているからだ。珍しい花なので、春国も図鑑の絵でしか見たことがない。  ほら、と渡され、春国はその花を手にとった。 「雪解花ですね、珍しい……」 「この前、図鑑を見せてくれて教えてくれただろ? この花が好きだって。母さんがくれたから持ってきたんだ」  有雪は以前に交わしたたわいも無い会話を覚えていてくれたらしい。また嬉しさで胸が高鳴る。 「綺麗……、ありがとうございます」 「いいよ、これあげるから枯れちゃうまでは飾っておいて」  春国はこれ以上花が萎れてしまわないよう、水につけにいく、と言って家の中に一旦入った。  台所においてある瓶の中には清潔な水が貯められている。使っていない花瓶の中へ柄杓で水を入れた後、もらった雪解花を花瓶に飾った。  小さな紫色の花をいくつもつけたその花はとても美しい。  冬が長く、植物が育ちにくいこの国では花は嗜好品で贅沢の一つ、裕福さの指標とも言える。その中でも繁殖が難しく、ほとんど花を咲かせることが無い雪解花を手に入れられる家庭というと、かなり限られてくる。  有雪は自分のことをあまり話さないが、おそらくはかなり良い家柄の御子息なのだろう。屋敷を抜け出してくる過程で汚れたり、破れたりしているが、いつも品の良いものを着ているし、毎回会うたびに高価な花の贈り物を春国に渡してくれる。  春国はじっと雪解花を見つめた。  今日で有雪に会えるのは最後だ。それを改めて考えると胸が痛くなり、鼻がつんとなる。今までも特に会う約束をしたわけでも無いし、ただただ春国が有雪の訪れを待っているだけの関係だったが、それすらも途切れてしまう。 「……あっくん」  悲しさと寂しさで春国は足首が石になってしまったかのように動けなくなった。  ぴんと上を向いた白い狐の耳も、新雪のようにふわふわとした狐の尾も、金色の珍しい瞳も、みんなは「青炎さまの生まれ変わりのようだ」と褒めるけれども、全部なくなれば良いと思った。そうすれば神子になんか選ばれず、有雪ともずっと友達でいられたのかもしれない。  行きたくない。有雪と共にいたい。  そんないたいけで、素朴な願いが叶えられることはないことも春国にはよくわかっている。  ぐすりと鼻をすすり、こぼれてきた涙を袖で拭った時である。 「春ちゃん?」  顔を上げると、有雪が台所へ入ってきている。なかなか帰ってこない春国を心配して、様子を見にきてくれたらしい。  そして有雪は目ざとく、春国が泣いていたことに気がついた。 「どうしたんだよ春ちゃんっ、もしかしてこの花、気に入らなかった? 泣くほど嫌だった?」 「違いますっ、お花は嬉しいですっ」 「ならどうして泣いてるの?」  体格は同じくらいだ。有雪は真っ直ぐ、心配そうな目線を春国に向けている。  その視線を受けて、春国の心が揺らぐ。神子になること、ここを出ていくこと、神事に関わる一切のことは誰にも言ってはいけないと教えられていた。 「あっくん、あっくん、あの」 「どうしたの?」  いけない、と思いつつ、言葉が止まらない。 「私、明日にはここからいなくなるんです」 「え」 「遠いところへ行くから……」 「どこへ? いつ帰ってくるの?」 「もう帰ってきません、場所も……」  力なく頭を横に振れば今度は有雪の方が泣きそうな顔をした。 「俺にも言えないの?」 「……言えません」 「そっか……」  有雪も俯く。有雪の肩が震えていた。それを見て、春国も涙を流す。隠しきれない嗚咽が漏れているが、気にしていられない。  しばらく二人は何も言わず、沈黙が流れる。二人しかいない台所はやけに静かで、空気が冷たくて、時折思い出したかのように春国の泣き声が小さく漏れた。 「春ちゃん」  有雪が先に動いた。春国の震える手で握りしめていた花瓶を取り去り、側の卓上へ置く。そして真正面から春国のことを抱きしめた。  暖かい。仄かに有雪の汗の香りがして、どれだけ近い距離に自分たちがいるのかを春国は自覚する。  こんなことをされたのは初めてだけど、嫌な感じはしない。春国は有雪の背中に手を回し、抱きしめ返した。 「春ちゃん、大好き」  大好き、好き、と何度も耳元で囁かれる。  その言葉の響きには、行かないで欲しい、とでも言うような必死の懇願が込められているような気がして苦しかった。今の春国にはその願いを叶えてあげることはできない。 「あっくん」  こつん、と額を合わせる。春国は何も返せず、ただ名前を呼ぶことが精一杯だった。  離れたくない。ずっとこうしていたい。 「あっくんと会えなくなるのは嫌です、寂しい」 「俺も春ちゃんと会えなくなるのは嫌だよ」 「遠いところなんです、お母様もお父様もお兄様もいなくて……、そんなところ、一人で行くなんて怖い」  有雪の抱きしめる力が強くなった。 「どれだけ春ちゃんが俺から離れて行っても必ず最後は俺が迎えに行くよ」 「本当に?」  有雪の言葉に春国は思わず顔をあげた。  しっかりとした、けれども少年らしく意志の強そうな黒い瞳と目が合う。 「春ちゃんは必ず俺が守るから」  最後の日だからか、何の約束もしなかった。だが帰り際、有雪は何かを決意したかのような表情をしており、さよなら、も言わなかった。  どこか春国は無意識のうちに有雪が助けてくれることを期待していた。  春国にとって有雪は自由の象徴でもあった。屋敷から勝手に抜け出すなんて考えたこともない春国には、毎回使用人に追いかけられ、傷だらけになりながらも、自由に世界を走り回っている有雪に憧れていたのだ。  だから、今から連れ出してあげる、という言葉が出てこなかったことに対して、酷く落胆した。この有雪でさえ、自分の運命について諦めたのだと残念に思いながら、夕暮れの赤い光の中を帰宅していく有雪の背をいつまでも見続けた。  そして翌明朝、春国は神社へと引き取られた。

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