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「酷い……酷いよ、君。どうしてぼくのことをそんな風に言うんだ……ぼくのくせに」  刃先を突き付けられ、青褪める義人は唸る。  見れば見るほど幸喜とは瓜二つだが、やはり、違う。顔の筋肉の動かし方からして浮かべる表情は全く正反対で。 「あーあーうるせえな、俺は俺だっての!お前みたいな根暗と一緒にすんじゃねえー!ばーかばーか!」 「幸喜、煽るなっ」 「ハハッ、何ビビってんだよ準一~。どうせならもっと可愛く言ってくんねえかな……ッと!」  矢先、飛んでくる花瓶をひょいと避ける幸喜。  凄まじい音とともに砕け散る花瓶に驚くのもつかの間、次々と浮遊する鉢や花瓶は幸喜に向かって飛んでいくがどれも幸喜の身体の中を透き通り、そのまま床にぶち当たる。 「おいおい、ノーコン過ぎんじゃねえの?もっとしっかり狙ってくれよな」 「……ムカつくなぁ、君の笑い方、すごくムカつくんだよなぁ……あいつみたいだ」  正直、近付くことも出来なかった。  止めるにも手の出しようもなくて、幸喜の言うとおり、俺よりも遥かに自分の体質を心得てるのだろう。  見守ることしか出来ない自分が歯痒くて、だけど下手に入り込んで巻き込まれては元も子もない。  そう、一人考えたときだった。 「っ、!」  不意に、伸びてきた義人の手に腕を掴まれる。  幸喜の心配ばかりしていたお陰ですっかり油断していた。  強い力で義人に抱き寄せられ、咄嗟に振り払おうとするが幸喜を食った義人の力は先程以上に強さを増していて、離れない。  幸喜も幸喜で予測していなかったようで、不機嫌そうに眉を寄せた。 「おいおいおい!遊んでんのは俺とだろうがっ!」 「君がちょこまかするから疲れたんだ……ほら、ぼく体力ないから……ごめんね、準一、少しだけ君を分けて」  細い指が食い込んで、蛇か何かに絡み付かれたように身体が動かない。  振り払おうと身動いだ瞬間、剥き出しになった首元、義人は顔を埋めてくる。  何をしてるのか、と目を見開いた次の瞬間、ずぶりと皮膚に食い込んでくる歯に全身が緊張した。 「っやめ、ろ……このアホ……ッ!」  食いちぎられる、噛み付かれ、不自然に穴の空いた傷口に舌を這わせてくる義人に血の気が引き、咄嗟にやつの身体を振り払う。すると今度はあっさり離れた。 「人の玩具に唾つけてんじゃねえよっ!」  どうやら、幸喜が引き剥がしてくれたようだ。  止めどなく血が溢れるのを感じながら、首筋を抑えた俺は必死にそこを戻そうとするが、こびり付いた義人の歯の感触はなかなか離れない。 「……ははっ、やっぱ簡単にはいかないかな……」  じわりと、義人の肩口に血が滲む。  ナイフで裂かれたのだろう。しかし、次に瞬きをした時には破れた制服ごとその傷もなくなっていた。 「でも、十分だ」  青白い義人の口元に不気味な笑みが浮かんだ、その時だった。 「っ、」  伸びた義人の手は幸喜の首を掴む。避ける暇もない、一瞬のことだった。  幸喜の細い首に絡み付く白い指先。ただでさえ青褪めていた幸喜の顔面から見る見るうちに血の気が引いていく。 「返してもらうね……君の記憶、全部」 「安心して、悪いことには扱わないから」額に浮かび上がる血管。  顔を歪める幸喜のその手からとうとうナイフが滑り落ちた。 「……っぁ、く」 「義人ッ、やめろ!」  慌てて、義人を止めようと手を伸ばすが、届かない。  見えない壁が目の前に立ちはだかっているかのように二人に近付けなくて、ただ見てることしか出来なくて。  早く、早く、止めなくては。  頭では理解していても、身体が、動かない。  気ばかりが焦り、イラつきと不安で頭の中が痺れていく。 「ぁ……ッ……?」  義人に掴まれた首を中心に、みるみる内に変色していく幸喜の顔色に、汗が溢れる。  青白かった肌の色は最早土色になり、見開かれた眼球も、唇も、水分を吸い取られるように萎んでいく。  有り得ない。理解できない。  しかし現状から目を逸らすことも出来ないまま動けないままいると、次の瞬間、全身の水分を失った幸喜の身体が砕け散る。文字通り、砕け散ったのだ。 「あ……ッ」  固めた泥を蹴ったみたいに、だけど幸喜のいた場所には何も残っていない。  幸喜が、消えた。  いつも神出鬼没な幸喜だ、どこかに隠れているだけかもしれない。  そう言い聞かせても、未だ情報を処理出来ていない俺の頭は働かなくて。  ただ、先程以上に生き生きと目を輝かせた義人の気配だけが濃くなっていて、そこに幸喜の気配は、なかった。 「……こう、き」 「ぁ、は……ああ、やばいな、これ……ッ頭がどうにかなりそうだ……っ」 「……なんで……っ」  なんで、こんなこと、有り得るのか。  死んでしまった今、何も怖いものなどない。ただ成仏出来ればいい。そう思っていただけに、幸喜に消滅という事実を目の前に突き付けられて酷く困惑していた自分がいた。  響く義人の笑い声。膝から力が抜け落ちる。 「……ッ、うぅ!」  その時だった。  先程まで喘いでいた義人が突然、呻き声を上げる。 「……っなんだ、これ……」  頭を抑え、顔を歪める義人。  その表情は先程までの血色はなく、青褪めていた。  何が何だかわからないまま、ただ、目の前で苦痛の声を漏らす義人に胸の奥がざわつき始める。  幸喜の、記憶が戻ったというのか。  それでも、然程俺にとって興味のないことだった。  けれど、 「っふ、アハハハハハッ!!」 「っ!!」  いきなり痛がり始めたかと思えば、今度は狂ったよう(笑い出す義人の悪霊。  そして、ゆらりと頭から手を離した義人は落ちていたナイフを手に取る。  もしかして、次は自分が狙われるのだろうか、幸喜のように。そう身構えた矢先だ。 「ハハハッ、あー……馬鹿、ホント馬鹿だろ、まさかここまで馬鹿とはなぁ~」  先ほどまでの篭った話し方とは違う、大きく口を開けて笑う義人。  その品のない笑い方には、見覚えがあった。それも、嫌と言うほど。 「こう、き……?」  恐る恐る、その名前を口にした時、座り込む俺を見下ろした義人、もといそいつはにたりと嫌な笑みを浮かべる。 「他に誰に見えるってんだよなぁ~準一もアホだよなぁー?」  間違いない、幸喜だ。  義人の姿をした幸喜は笑いながらナイフを指先で弄ぶ。  そして、次の瞬間。躊躇いもなくその刃先を自分の胸に突き立てた。 「ぅ、ぐ……ァ……ッ!」  深く突き刺さるナイフは柄ごと幸喜の胸の中に押し込まれていく。  口から悲痛な呻き声と一緒に溢れる血液に、先程の幸喜の姿を思い出さずにはいられなくて。  痛みに引き攣る義人の顔面だったが、それも一瞬のことで、すぐに口元には幸喜特有の不気味な笑顔が浮かび上がる。 「っは、……ぁー……さっさと死ねっての、殺してやるからさっ!俺がっ!責任持ってね……っ!」  引き抜いた血まみれのナイフを赤黒く染まる義人の胸へと押し込む、やつはそれを何度も繰り返した。  次第に水が混ざるように籠もる幸喜の声。矢先、ごぽりと音を立て大量の血液が義人の口から溢れ出して。それを吐き出した幸喜は、そのまま自分の腹部へとナイフを埋め込んだ。 「有難いだろ?」  瞬間、ビクリと義人の身体は痙攣した。  何が起こっているのか理解できなかった。  ……正確には、おそらく俺の頭が理解すること自体を拒否していたのかもしれない。  だって、俺から見てみれば、どうやっても義人が自分を痛めつけているようにしか見えないのだ。 「……っお前、何して……」 「ま、あんたは理解出来ないだろうなぁ……っ、こんな真似」  赤く濡れた唇に笑みを浮かべた幸喜は「除霊」と小さく唇を動かした。 「つっても、殺すのはこっちの本体だけどな!」  義人の腹部、深く突き刺さったナイフを力任せに横一文字に動かした瞬間大きく裂けた制服の下から剥き出しになった皮膚が除く。  室内に響く義人の悲痛な声と幸喜の笑い声、それが同じ身体から同時に発せられている。  痛みは、間違いなく幸喜にもあるはずだ。  それなのに。 「……っやめろ……っそんな真似……!」 「ぁー……うるっせえなぁもう……準一ってばほんとこういう時はヘタレなんだからなあ……」 「義人の身体はお前の身体でもあるんだろっ!」  そう、それだ。ずっと、見ていて痛々しかった。  いくら悪霊であろうが、自分の敵であろうがそれは自分の一部には違いないのだ。  けれど、幸喜は否定も肯定もせずにただおかしそうに喉を鳴らした。 「関係ねえよ、俺は俺だからな」  ほんの一瞬のことだった。満足そうに笑う幸喜が引き抜いたナイフを自分の首筋に突き付けた。  「幸喜っ」 「ぅ、ぐ、ううあああッ!!」  咄嗟に手を伸ばすが、一足遅かった。  ぱっくり開いた首筋から勢い良く溢れる黒い血。人間のものとは思えない声が響く。  赤く染まる義人の手からナイフが滑り落ち、その手足からも力は抜け落ちるように全身が傾く。  間一髪それを抱きかかえた時、自分の血液で真っ赤に汚れた義人の口元に笑みが浮かぶ。  幸喜だ。 「……準一、義人はなぁ……もういないんだよ、どこにも」  空気が混ざったような掠れた声。  咄嗟にやつの目を見れば、幸喜は力なく微笑んだ。 「残ってんのは俺たちみたいなカスだけだよ」  その言葉を最後に、糸が切れたように幸喜は目を閉じる。  幸喜の言葉が、頭の中でぐるぐると巡る。  義人がいない。だとしたら、この学生服の少年は誰だというのか。  幸喜は義人を食った悪霊だと言った。だとしたら、何故その悪霊が幸喜を狙うのか。  わからない。わからないけど、眠っている幸喜を起こす気にはなれなくて。  そっと、部屋の中、幸喜を寝かせたその時だった。 「……なるほど、わざと吸収されて乗っ取るのですか」 「ッ!」  すぐ背後、頭上から落ちてくるその柔らかい声に全身が凍り付く。  いつになっても、神出鬼没なやつに慣れることはないかもしれない。  音もなく現れた花鶏は「そのような方法もあるのですね」と興味深そうに頷いた。 「あんた……いつから……」 「さあ、いつからでしょうね?私が姿を現したのは今ですが、この部屋にいたというのならもしかしたらずっと昔からかも知れません」  この男がそういうやつだというのは分かっていた。  それでも、こんな状況下、全てが終わるのを黙って見ていたと思うと不快感しか感じなくて。  茶化すその人を「花鶏さん」と睨めば、花鶏は肩を竦める。 「幸喜のことならご安心下さい。精神力の増減時には少々思考停止するものです。……しかし、流石の幸喜も無茶をしたようですね」 「変わりませんね」と呟く花鶏。  気のせいかわからない、けれどその目はどこか慈しむようなものさえ感じられた。 「あんただろう、義人に……妙なこと吹き込んだの」 「吹き込む、とは」 「幸喜を取り込めば、記憶が戻るとか」 「ああ、そのことですか。ですが嘘はついてませんよ。あの方は記憶を欲しがっていた。自分が何者か、分からずに一人悩んでましたので教えて差し上げたのですよ」  あっけらかんとした調子で続ける花鶏にやはり悪びれた様子はない。  そんな花鶏の態度が癪に障る。 「……幸喜を食えばいいってか?」  込み上げてくる怒りを抑え、尋ねればにこりと微笑んだ花鶏は「はい」と頷いた。 「あんたなぁ……っ」 「言っておきますが準一さん、元はといえば貴方と藤也があの扉を壊したのが原因ですよ」 「せっかく寝かしつけていたというのにあなた方が無理矢理起こしたのですから」ふ、と笑みを消した花鶏の言葉に、以前斧で扉を壊したあの部屋のことを思い出す。  寝かしつけていた、その言葉に嫌なものを感じたが、それが本当だとすれば何も言えなくなってしまう。  押し黙る俺に、やれやれと言わんばかりに扇子を取り出しては仰ぎ始める花鶏。 「そうですね、……少し興味があったんですよ。ここ最近の二人の変化に、ほんの少し」 「自分の育ててきた子供が独り歩きしているのを見たらその背中を突き飛ばしたくなるでしょう、それと同じです」そして、誰となく語り始める花鶏。  普通ならばそんなバイオレンスな励まし方にならないはずだが、花鶏が言わんとすることはなんとなく、わかった。 「って……独り歩きって」 「義人さんが死んで二人が分裂した時点で既に一つの人格として成り立ってます。いえ、死ぬ以前、義人さんの中にいた時点で頭の中に個々の部屋を持っていたようですからね」  部屋?  花鶏の言葉の意味が分からず、いや、その意図すらも俺には理解出来ないものだ。  花鶏と話していると、幸喜とはまた違う意味で不安になる。それが何故なのかは分からないが、花鶏の思考を理解できるようになったらそれでこそ、自分が自分ではなくなってしまうような気がするのだ。 「……あんたが言うのはいつも理解出来ない」 「私は、人の生命力というものの限界を見てみたい」 「……は?」 「貪欲に生にしがみつく姿を、ひたむきに前向きに生きていく姿を、あるのならば、その限界の先をこの目で見てみたいんですよ」  そして、扇子を閉じた花鶏は呆気にとられる俺を見るなり薄く微笑んだ。 「これなら如何ですか?理解力に乏しい準一さんにもお分かり頂けたでしょうか」 「……悪趣味だな」 「お褒めに与り光栄でございます」  やはり、花鶏の考えは理解できそうにない。  そのためには死にかけても食われかけてもいいと言うのだから。 「しかし、今回の件、一部始終見ていて思いました。……やはり、貴方には素質があるようですね」  不意に、真剣な顔をして妙なことを言い始める花鶏に「は?」と聞き返す。  するとやつは先程までと変わらない笑みを浮かべた。 「いえ、独り言です。貴方が好きだと言ったんですよ」 「な……っなんだよ、それ……」  はぐらかされた。  さらりと気色の悪いことを口にする花鶏に全身が凍り付く。  慌てて距離を取ろうとしたとき、近付いてきた花鶏に腕を掴まれた。 「それと、もう一つ」  いきなり掴まれ、逃げるタイミングを失う俺の耳元、そっと口を寄せた花鶏は俺にだけ聞こえるような声量でそれを口にした。  告げられた事実に、俺は固まる。 「な……ッ」 「それでは、幸喜のことは私が連れていきます。貴方も疲れたでしょう、兄弟喧嘩に巻き込まれて」 「どうぞゆっくり休んで下さい」と、俺に構わず気絶した幸喜の片足を掴んだ花鶏はそのままずるずると幸喜を引き摺り歩き出した。  雑すぎる。……じゃなくて。 「ちょっと待てよ、おい!花鶏さん!」  慌てて呼び止めるが、後を追いかける様に部屋を出れば既に花鶏の姿はどこにもない。 「……っああ、もう」  なんであの人逃げ足あんなに早いんだ。  ずるい、ズルすぎる。自分の言いたいことだけ言って立ち去るなんて、そんなの。  先程、耳朶に触れた花鶏の唇の感触とともに、囁かれた言葉が頭の中に蘇る。 『義人さんはまだいます』  幸喜たちには内密にお願いしますね、と笑う花鶏を思い出しては俺は透けた少年のことを思い出してはいても立ってもいられなくなって、俺は自分の髪を掻き毟った。

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