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第6話 こぼれた水(7/13)
どうしてと問われて、浮かんだ理由はどれも、俺がルスの情に縋って、甘えただけの事実だった。
俺がいつまでも、しつこくお前を思ってたから。
俺がお前を、ずっと諦められなかったから、お前は仕方なく俺を許してくれただけなんだ。
お前は俺に、負い目があったから。
この後頭部の怪我に、あの子との結婚に、あの日の一撃……。
俺はそうやって、少しずつこいつに恩を売り続けて、真面目なこいつは、俺を受け入れざるを得なくなった。
でも、今俺の前にいる、目の前のルスにはそれがない。
俺に負い目のないルスに、俺を受け入れる理由はひとつも無かった……。
「どう……して、なんだろうな……。お前が、優しくて……俺が、卑怯だったから……かな……」
夢のような幸せが、確かにここにあったのに。
俺の迂闊さがそれを泡沫の夢に変えてしまった。
俺があの時、調子に乗って剣を手放したから。
俺が、ルスの体を、もっと労わってやれなかったから。
俺がルスに無理言って、背を怪我をしたから。
後悔は止めどなく胸に溢れる。
「……っ」
軋み続けた胸は、後悔を内に堪えきれず、嗚咽となって零れた。
「ま、待て待て、別に君を責めているわけじゃない。そう思い詰めてくれるな」
そう言って俺を見つめる黒い双眸。
俺を励ますように、俺の肩にルスの手がそっと添えられる。
ルスの手は、変わらず温かかった。
ルスは心底弱った様子で、俺に言う。
「……すまない。私の配慮が足りなかった。私と君は恋仲だったのだな。団長に君の名を問われた際に、もっと聞いていれば良かった……」
つか……団長、俺の事ルスになんて言ったんだよ……。
ルスはなおも申し訳無さそうに謝る。
お前が俺に謝る事なんか、いっこもねぇよ……。
「恋人に忘れられてしまうなど、さぞ辛かったろう……。中々言い出せなかったのも、仕方あるまい」
ルスはほんの少し迷いながらも、俺をその胸に抱いた。
ルスの胸は、やっぱり広くて、温かくて、柔らかい。
「私はどうも、鈍感なようでな、時折こう言う事をしてしまう……。いや、悪気は無いのだが……」
「……知ってるよ……」
俺の呟きに、ルスの声が少しだけホッとした響きになる。
「もう少し待っていてくれ。医者も、一過性のものだろうと言っていたし、私も思い出せるよう努力する」
ああ、ルスは記憶を失っても、やっぱ男前で、優しいんだな……。
そう、ルスは優しい。誰にだって。
……見ず知らずになった、俺にも。
だから、今までだって、俺にだけ優しかったわけじゃないんだ……。
記憶を失ったのが、もし俺だったら、ルスはどうしただろうか。
恋人だと、言ってくれただろうか。
恋人に戻りたいと、思ってくれただろうか。
『俺はお前に愛してもらって、とても嬉しい。俺を好きだと思う事を、お前が恥じたり申し訳なく思う必要は、どこにもない』
花とともに渡された、ルスの言葉が胸に蘇る。
でも、俺にそう伝えてくれたルスは、もうどこにもいないんだ。
そう気付いた途端、足元が崩れた。
膝にも腰にも力が入らなくて、俺はその場にへたり込んだ。
よいしょ。と杖を下ろして、ルスが目の前にしゃがみ込む気配がする。
「……参ったな。今の私では、君になんて声をかけてやれば良いのか分からないんだ……。君の知る私は、君になんて言っていたんだ?」
俺に……?
「……俺を、幸せにしてくれるって、言ってた……」
ぼろぼろと溢れる涙と共に、優しい思い出が胸から溢れる。
溢れたそれが、涙とともに消えて無くなってしまう気がして、俺は必死に胸を押さえ付けた。
ふ。と小さく笑う気配がして、顔を上げれば、ルスは優しく微笑んでいた。
「それなら私も、君を幸せにすると誓おう」
「な。ん……で……」
俺は、言葉が止められなかった。
「お、っお前にとって、俺なんて、昨日名前を知ったばっかの、何も知らねー奴だろ!?」
「だが、記憶を失う前の私がそう言ったのだとしたら、そうする義務が、私にもある」
俺を見る黒い瞳は、苦しげに眉を寄せる。
「義務……。っ、そんな義務、俺はお前に背負ってほしくねーんだよっっ!」
伸ばされた手を、温かいその手を、握ってしまわないように、振り払う。
「いいよもう、放っといてくれよ! 俺のこと、忘れちまったんだったら、もう……っっ」
夢のようだった。
けれど、本当に、それは一瞬の夢だったんだ。
俺が、こんな優しいやつ独り占めして良いわけない。
まだルスは足が不自由なだけで、体だって心だって元気なんだ。
相手が俺じゃなきゃ、子どもだってまだできるだろう。
ルスは、子どもが好きだし、絶対いい父親になれるんだから。
「ああそうだ。これを機に、誰か良い女性を探すのもいいな。……っ俺が、良い人紹介してやるよ!! だから……っっ」
ぐい。と顎を引かれて、俺は口を塞がれた。
ルスの分厚い唇が、俺の唇に重なっている。
……え……、な、ん……。
「落ち着け。取り乱すな。少し待ってくれと言っただろう?」
ルスは、辛そうに眉を寄せている。
「俺だって、思い出せるものならすぐに全てを思い出してやりたい。……だが、どうしても……、出来ないんだ……」
言葉の最後は、絞り出すような声だった。
俺はハッとする。
俺が不安になって、泣き喚いて、ルスを追い詰めてどうすんだよ!!
本当に不安なのは、何も思い出せないルスだろう!?
「わ、悪ぃ、俺……っ」
ゴシゴシと乱暴に顔を擦る。
「そう手荒にするな、せっかくの綺麗な顔が傷んでしまうぞ」
「お、おま……っっ」
俺が顔を赤く染めると、ルスはどこか悪戯っぽく目を細めた。
「だが、そうだな。思い出せなくとも、分かったことならある。お前は、俺のことが随分と大事なようだな。自分を犠牲にしてでも相手の幸せを願うだなんて、なかなか出来ない事だ。その気持ちはとても嬉しい。お前のことを覚えていない俺が、その気持ちを受け取って良いのかと、戸惑うほどにな」
「そ……、んな……、っっお前っっ、人ごとみてーに言うけどな、お前が怪我したの、俺を庇ってなんだからな!!」
「そうなのか? 頭部強打としか……」
「そーだよっっ! 俺のこと庇わなかったら、ルスは頭なんて……、打たな…………っ」
そこまでで、またじわりと滲んできた後悔の涙を、今度はルスが指で拭った。
「泣くんじゃない。お前が泣くと、俺は胸が痛い」
そういや、『私』とか言って『君』とか呼ばれてたのが、『俺』と『お前』に戻ったな。
少しは俺に、気を許してくれたって事か……。
痛む胸に、それでも確かに、小さな喜びが生まれる。
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