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第12話

 二軒隣に銭湯がある。全面タイル貼りの清潔な洗い場で、白帆は舟而の背中をへちまで擦っていた。 「今日もお疲れ様でございました」 「ああ、ようやく日比に言ってやることができた。晴れやかな気分だ」 舟而は陽気な声を上げた。  白帆は口元に優しい微笑みを浮かべ、舟而の背中を端から端まで丁寧に擦りながら、あやすように話す。 「先生、お気持ちはわかりますが、そこは嘘でも不愉快になさったほうがいいと思います」 「なぜ? 自分の作品を守れるようになったのに」  振り返った舟而に、白帆は切れ長な目を細めて笑い掛ける。 「相手をやっつけたのですから、嘘でも『後味が悪い』とおっしゃったほうがいいです。人を殺して気分がいいなどと言わないじゃありませんか」 「僕は誰も殺してないぞ」 舟而は口を尖らせた。 「気位の高い日比さんの心を殺しました。武士の情けはお持ちになった方が、先生の評判を落とさずに済みます」  ね? と首を傾げ、白帆は舟而の顔を覗き込み、濡れたおかっぱの黒髪がぱらりと零れた。 「ふむ。作品を守るためだったとはいえ、大の男に念書なんか書かせる事態にまで至って、後味が悪い。あの男もさぞ嫌な心持ちだっただろう。……こんな感じでいいか?」 「結構です。優を差し上げます」 少しあばらが浮く薄い胸の前で小さくパチパチと拍手をした。 「それはどうも。優秀な白帆先生のご指導の賜物だ」  舟而は身体ごと向き直ると、白帆の糠袋を取り上げ、今度は白帆の背中の真珠のように深い場所から輝く肌を、小さな肩に直接体温の高い手を置いて白帆の身体を支えながら、ゆっくり丁寧に磨き始めた。  三日後の朝、手で払いのけたくなるような鬱陶しい曇り空の下を、日比は甘い物も持たず、静かに原稿を取りに来た。白帆(しらほ)が丁寧に挨拶して迎えて客間へ案内したが、終始禅僧のように目も合わせず黙りこくっていた。 「ご苦労様ですね。今晩、雨なんて予報ですけど、あんまり降ると大川(おおかわ=隅田川)が溢れるんじゃないかって心配になります。今日の雨は大丈夫かしら」 白帆は掠れた声で一生懸命に明るく話しながら、日比の前に煎茶を置く。  そこへ舟而(しゅうじ)がやって来て、原稿の束を日比に向けて差し出した。 「ご苦労様。今回も三日分だ」 舟而の声は浮かれることなくいつも通りに穏やかだったが、日比はきつく口を結び、黙って原稿を受け取り目を通す。 「先生、お茶です」  白帆は舟而にも煎茶を差し出した。 「ああ、ありがとう」  舟而は表情を変えず、茶碗を持ち上げて口につけたが、一口含むと肩の力を抜いた。 「……うん、美味い。白帆は茶を淹れるのが本当に上手だ」 目を弓形に細め、さらに大切そうに煎茶を飲んだ。  日比は細い銀縁眼鏡の間から、一瞬だけ目を上げて舟而の表情を睨め上げた。  しかし小首をかしげている白帆の視線に気づくと、すぐに原稿用紙へ視線を戻した。前後のつながりを確認して、座卓の上で原稿用紙の縦と横を揃え、持参した油紙に包んでから黒革の鞄の中へ入れる。 「頂いて参ります。また三日後に伺います」  日比は低い声でそれだけ言い、立ち上がった。 「わざわざお運びいただきまして、ありがとうございました」  白帆は日比を追って玄関へ行き、釘に掛けてあったフェルトの帽子や、立て掛けてあったこうもり(洋傘)を渡して笑い掛ける。 「どうぞ、お忘れなく」  日比は白帆の姿もろくに見なかったが、白帆はさらに門の前まで追って出た。 「雨が降り始める前に会社へ着けるといいですね。お気をつけなすって」  日比は白帆の顔を見て何か口を開きかけたが、すぐに白帆から目を逸らして黙って歩き出し、煙草屋の角を曲がって見えなくなった。

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