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第14話

 舟而(しゅうじ)は『芍薬幻談・上巻』を上梓するため、過去九か月分の原稿と新聞を見比べ、手直しする作業に追われた。  毎日少しずつ読むものと、一冊の本として読むものでは体裁が変わってくる。しかも文章を読み返すと調えたくなる。日比に勝手に直された箇所は戻したいが、読み返してみると存外、悪くない表現だったりもして認めたくはないから、さらに上回る表現をと考える。その一々にペンを入れて、思っている以上に時間がかかっていた。 「すまないけど、木曜日は夜八時頃に取りに来てくれないか」  連載中の原稿を渡しながら、舟而は日比に告げた。 「かしこまりました。……その木曜日の夜なのですが」 日比は一枚のチラシを鞄の中から取り出した。 「先生はお忙しいのでお誘いできませんが、白帆(しらほ)さん、いかがですか」  日比はお茶を出していた白帆に声を掛けた。 「はい? 私?」 「洋琴(ピアノ)独奏会にいらっしゃいませんか。実は思ったほど席が埋まらなくて、困っているんです。ただ椅子に座っていてくだされば結構ですから、お願いいたします」  チラシを差し出されて、白帆は恐る恐る両手で受け取った。 ーーーーー 総べての好樂家の必ず参聴すべき音樂會! アンリー・レヴイ氏 洋琴大演奏會 日日新報社の招聘により 仏國大洋琴家 アンリー・レヴイ氏 来朝 於 大帝國劇場 前賣 各樂器店、大帝國劇場切符發賣掛 ーーーーー 「ええと……。私は西洋の音楽には詳しくなくて」 「ご心配なく。ただ椅子に座って音楽を聴くだけですから心配は要りません。わたくしがこちらまでお迎えに上がって、ご案内致します」 日比は眼鏡の奥の目を優しく細めたが、白帆は舟而の顔を見た。 「先生、どうしましょう」  舟而はチラシを見て、目を弓形に細めた。 「見聞を広めるいいチャンスじゃないか。行っておいで。残念だけど、日比くんにこんなにたくさんの宿題を与えられていては、僕はとても一緒に行ってやれそうにない」 その言葉に白帆は頷き、日比の方へ振り返った。 「演奏会に参ります。勝手がわかりませんので、案内をお願い致します」  日比はしっかり頷いた。 「せっかく西洋の音楽を聴くんだから、洋装にしようっと」  白帆は少し悩んで、柳行李から一張羅の背広を取り出した。  太陽が透ける曇り空のような明るい灰色の三つ揃いに白いシャツを着て、空色のネクタイを締める。おかっぱの髪はポマードで潔く後ろに撫でつけた。 「お夏さん、行って参ります」 ジャケットを片手に持ち、茶の間へ顔を出すと、「はーい」と返事をしながら顔を上げたお夏は目を見開いた。 「え、白帆ちゃん? どこの殿方かと思っちまったわ。よっ、銀杏屋っ!」 「ありがとうございます」 白帆は切れ長な目を細めて笑った。  お夏の大きな声に、舟而も書斎から出てきて、腕組みをして白帆の姿を見る。 「なるほど。白帆はかつらでも、ポマードでも、顔をむき出しにすると迫力が出るんだな」 「怖い顔をしてますか?」 「いいや、ハンサムだよ。楽しんでおいで」 舟而は白帆の背中をポンポンと叩いた。 「日比さん、お待たせ致しました」 玄関に腰掛けていた日比が立ち上がって振り返る。 「洋装もよくお似合いです」  白帆は革靴を履き、ポマードの髪に帽子を乗せて家を出た。 「白帆さん、帝劇へ行ったことは?」 「まだありません。女形ではなく女優さんが演じるお芝居があると聞いていて、お勉強のためにも観なくてはと思うんですけど、なかなか」 「そうですか。今日はピアノですが、今度、女優劇もお連れしますよ」  吾妻橋を渡り、市電で上野駅へ行き、山手線に乗り換えて有楽町駅で降りる。皇居のお(ほり)に向かって歩くと、お濠に面した一角に大帝國劇場があった。 「まだ時間がありますから、隣のミルクホールに行きましょう」  白帆はガラスケースの中を端から端までしっかりと見て、頬に揃えた指をあてる。 「シベリヤか、あんぱんか……」 悩まし気にため息までついている。 「そんなに悩まなくても、両方食べればいいじゃないですか」  日比は笑って両方とも注文した。  テーブルに着き、皿に乗ったシベリヤとあんぱんを見て、白帆はまた頬に揃えた指をあてる。 「どっちから食べようかしら」 人差し指を小さくどちらにしようかなと交互に動かす。口の中で歌い終わったときにあんぱんを指したので、素直にあんばんを割って口の中へ入れた。 「はあ、美味しい」 コーヒーを飲みながら一部始終を見ていた日比は、意外にも太陽のようなはつらつとした笑顔を見せた。 「白帆さんの姿を見ていると、幸せな気持ちになります」 「恐れ入ります。甘い物ばかり与えられて育ったものですから」 「白帆さんを見ていたら、誰でも甘い物を食べさせてあげたくなります。わたくしは、ほかの誰よりも、白帆さんに食べさせたいとすら思います」 日比はコーヒーカップを口から外すと、眩しいような笑顔を見せた。

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