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第16話

 ピアノから溢れ出す音の連なりが、白帆(しらほ)に様々な光景を見せた。  宵闇、月の光、高まる感情、月を見上げる人の姿、恋うて涙する夜、接吻を交わしてひしと抱き合う昂奮と体温と息遣い、異国を巡る旅、憧憬、望郷、思慕、混乱、困惑、安寧。  すべての演奏が終わっても、白帆はしばらく席に座ったまま、ぼんやりした。 「ピアノ一台と、人間一人が、何人もの役者が演じる芝居と同じくらい、人の気持ちを動かすんですね……」 日比はゆっくり頷いた。 「そう感じ取れる白帆さんの感性を、わたくしは素晴らしいと思います。もっと感想を聞かせてください」  レストランでライスカレーを食べながら、白帆は促されるままに喋った。 「舟而(しゅうじ)先生が稽古のときに仰ったんです。『衣装を変えても、役の名前や、筋書きを変えても、言いたいことはいつだって変わらない、人間にとって大切なことはそんなに多くないからです。皆さんは普遍の部分を掴んで演じてください』って。 西洋の人も、人を恋しく思うし、月や星を見るんだってわかりました。 楽器が違っても同じことを、普遍を表現してるって思いました」 熱っぽく話す白帆の話を、同じ温度で真面目に耳を傾け、日比は頷く。 「人を恋しく思ったり、月や星を見上げたりするのは、太古の昔から変わっていないんでしょうね。万葉集でも、古今和歌集でも、歌われています。 時代が変わっても、国が違っても、繰り返し表現し続けているんですね」 きちんと相手をしてくれる日比に、白帆はさらに話した。 「一度言ったから、もう言わなくていいっていうものじゃない、絶えず人の心の中にあって、どうしても言わずにはおれない、強い気持ちというのが誰の心にもあって、だから人は同じことを繰り返し表現するんじゃないかって思いました」 「わたくしもそんな気がします。 人を恋しく思ったら、隠そうとしても隠しきれなくて、『忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思うと 人の問うまで』などという歌が残されて、今日まで味わわれてる。 そのくらい強い気持ちは、やはり胸にしまっておけなくて、表現せざるを得ないんでしょう」  帰り道もひたすら話し、市電を降りて吾妻橋を渡りながらも話したが、不意に日比が足を止めた。 「白帆さん、月が綺麗です」 教えられて白帆は顔を上げた。紺碧の空に真珠色の半月が光っていた。 「この月も普遍ですね。大昔からずっと見上げて来たんですね」 「白帆さん。もう隠しきれていないでしょうから、正直に言います。わたくしは、あなたを恋しいと思っています」 「え?」 白帆は振り返って日比を見た。日比は真剣な顔で、まっすぐに白帆を見ていた。 「あなたにお会いできると思うと、気持ちが弾みます。 ついぼんやりして、気がつくとあなたのことを考えています。 原稿を取りに伺う道すがら、今日もあなたはお宅にいらっしゃるだろうか、また門の外まで見送りに来てくれるだろうかと考えて、帰りの電車の中では、何度もあなたの姿と言葉を繰り返し思い出します。 あなたの手を握れたらと、そう思います」 「え、ええと……」 白帆は胸の前で右手を握りこぶしにして、守るように左手で包んだ。 「お返事は急ぎません。 ただ、よろしければまた誘わせてください。 あなたと音楽を聴くのはとても面白かった。 だからいろんなものをあなたと一緒に観たいです。 見聞を広めるお手伝いにもなると思います。 だから、またわたくしと出掛けてください」 白帆はまっすぐな瞳に耐えられなくなって目を逸らした。 「……せ、先生がいいとおっしゃったら」 「わかりました。先生は白帆さんを可愛がっていらっしゃるから難しいですが、お許しを頂いてみせます」 「難しくはないと思いますけど」 「そうですか? 舟而先生は白帆さんを好ましく、特別に思っているようですが」 白帆は首を横に振った。 「それはありません。行き詰まった私に、手を差し伸べてくださってはいますが。……先生は『結婚するつもりはなくて、特定の相手を定めるつもりもない』そうです」 白帆は涙をこらえて月を見上げ、かえって涙が頬を伝う。 「白帆さん」  広い胸に抱き締められた。 「好きです。泣かないでください。わたくしがあなたを愛しますから!」 頬に熱い息が掛かった。 「日比さん……」 「心配しないでください。わたくしがあなたを愛します」  白帆は何も言えず、何もできなかったが、日比は催促もせず、大きく一つ深呼吸をすると白帆を解放した。 「さあ、帰りましょう。先生から原稿をいただかなくては」 力強い笑顔を見せて、歩き出した。 「どうした、白帆?」  明かりを消した寝間で、白帆はめずらしく舟而に背中を向けて、床についた。 「何でもありません。ちょっとピアノの音に酔っちまっただけです……」 そう、きっと。日比もピアノの音に酔ったのだ。きっと。  わたくしがあなたを愛します。  日比の言葉が何度も何度も思い出された。

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