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雨露のバラード

 エンタメニュースの画面に、ブー、低いバイブ音とともに通知が現れる。 「仕事終わった。今、駅」  メッセージはたったそれだけ。今に始まったことではないが、飾り気も愛想もどこかへ捨ててきたような、電報さながらの簡潔さだ。 「メシは?」  「め」からの予測変換で一発。たったそれだけしか返さない自分も、まあ、似たようなものか。 「帰って食べる」  了解のスタンプを送ったあと、しばらく待っても既読の文字が現れず、スマホを鞄の上に伏せてぼんやりと窓の外を眺める。  満員のバスの中は、人いきれと効きの悪い空調で、むっとした不快さに満ちている。通り過ぎていく対向車のライト、街路樹のシルエット、その手前から見つめ返してくる半透明の自分の顔。何の変哲もない日々の、何の変哲もない夜だ。違うところがあるとすれば、給料日の前日ということくらいだろう。  一つ手前のバス停で降り、スーパーへ寄る。  タイムセールもとうに終わった時間、惣菜コーナーはがらがらだ。これといって食べたいものもなく、そのアルミ容器に手が伸びたのはだから食欲とか興味ではなく、強いて言えばシールの魅力だった。  赤地に黄色の文字で、半額、と大きく書かれている。  季節外れの鍋焼きうどんが、ちょうど二つ、売れ残っていた。  ほかに、今朝切らした食パンを棚の一番奥から取り、ついでにお買得の発泡酒を二本かごに入れる。半額商品を思わず手に取ったり、食パンの賞味期限を見たり、こんな日はビールではなく発泡酒を選んだり。いつの間にか、そんなことばかり板につくようになった。  スーパーからマンションまで、バス停一つ分と、そこから路地へ入って数分歩く。昼間以上に湿気がまとわりつくように感じる、日本列島は梅雨真っ只中だ。ここ一ヶ月床屋へも行っていないせいで、癖っ毛がうねってしょうがない。降水確率は毎日五十パーセントから八十パーセントの間で振れており、今日も鞄の中で眠ったままの折り畳み傘には出番がなかった。  同じくらいの時間に会社を出ても、バス通勤の自分のほうが電車通勤の彼よりもいつもいくぶん早く帰宅することになる。オレンジの照明が点いたエントランスをくぐり、階段を上ってすぐの二階の部屋が、二人の住まいだ。家賃が折半になるのだからと、少し良い物件を探した。もっとも、家具にこだわるわけでもなく、掃除が行き届いているわけでもなく、夜遅くに出来合いの鍋焼きうどんなど食べるような生活では、その甲斐がどこまであったかはわからない。  背広を椅子の背に引っ掛け、テーブルの上の煙草を掴んでベランダに出る。外で吸わなくなってずいぶん経ったが、朝と夜の一本ずつの煙草がいまだにやめられないでいる。べたつく風に吹かれながら煙草を咥えてどれほど経った頃だろう、ガチャリ、ドアの開く音がした。 「ただいま」 「――おかえり」  背広と鞄を小脇に挟み、シャツの袖を肘まで捲って、ネクタイも既に緩めている。出会った時こそ隙なくスーツを着込んでいたものだが、堅苦しい恰好が本当は苦手。営業部を離れた今はコンタクトもやめて、ありふれた形の眼鏡を掛けている。見かけの男前はきっと減ったのだろうが、俺は今の彼のほうが好きだった。  振り返った俺から短くなった煙草を奪い、すうっと盛大に吹かすと、口の端だけで小さく笑う。 「飯、何?」 「鍋焼きうどん」 「この暑いのに?」 「だからいいんだろ」 「そうかあ?」  疑わしそうに言う彼に煙草を譲り、準備を始める。今週の当番は俺。とはいえ、フィルムを剥いて、アルミの容器をコンロに乗せるだけ。スイッチを押せば、あとはほんの数分待つだけだ。  出汁のいいにおいが、キッチンにたちこめる。 「卵あったろ」 「あ、いいね」  一つずつ卵を落とし、ほどよく半熟になったところで、雑誌を敷いたテーブルに熱々の容器を置く。 「おつかれ」  発泡酒で乾杯し、遅い夕餉のスタートだ。  話題は主に、ニュースアプリで見たばかりの芸能ゴシップと、明け方の消防車の音の正体。健康診断を控えた悪あがきで彼へ海老天を差し出すと、見返りに椎茸が寄越された。 「あっつい……」  気づけば首筋に汗が流れ、それを拭いながらうどんを啜る。 「でもうまいな」 「うん」  空腹という調味料を差し引いても、蒸し暑い初夏に啜る鍋焼きうどんは悪くないらしい。 「なあ、手、出して」 「なに?」  あまりに何気ないトーンで言われたから。缶ビールの結露で濡れた左手をワイシャツで拭いて、はい、と、ぞんざいに手のひらを上へ向けて出す。  椅子の下でごそごそとポケットを漁っていた彼は、やがて、握ったこぶしをぱっと開いた。大きな手のひらの真ん中に、銀色の細い輪っか。そのまま俺の手を取って、摘んだその輪っかを俺の薬指に通す。関節で少し引っかかり、そのあと、するりと根元まで進んだ。 「言っとくけど、ただの指輪じゃないからな」 「……そう」 「……迷惑だった?」 「そうじゃないけど」 「じゃあ、なに」 「なんでこのタイミングなんだよ、とは思ってるよね」  こういうのって。お互い残業帰りのくたびれた夜、出来合いの鍋焼きうどんと発泡酒に見守られながら行う儀式ではないのじゃないかな。 「それは、まあ、一応理由があってだな」  彼は俯くように頬杖をついて、ちらりと笑った。 「今日でさ、俺たちが一緒に暮らし始めて、二年経った」 「……よくおぼえてるね」 「給料日前だったろ」 「そうだっけ……あー、うん、そうかも」  梅雨の時期だったのは憶えている。四月までに新居が決まらず、ちょうど空いたこの部屋に運良く滑り込んだのが六月だった。急に決まった引っ越しに、ずいぶんばたついたっけ。当日、いつまでも終わらない荷解きに先に不機嫌になったのは俺で、それを宥めるのが嫌になった彼もそのうちに不機嫌になった。険悪な空気のまま近所のラーメン屋に行き、少し並んだが思ったよりずっと旨かったおかげでどちらともなく機嫌が直り、なんだか奇妙な心地のまま段ボールだらけのこのキッチンでセックスをした。 「結婚しよう」  少しぶっきらぼうな声。らしくない。照れているんだ。 「はは、どうしよう……」 「嫌?」 「ううん」 「じゃあ、返事」 「――うん」  彼の細く吐いたため息は、少し震えているようだった。 「なあ、何か言えよ」 「だめ」 「なんで」 「これ以上喋ったら、俺、泣いちゃうよ」 「いいよ」 「やだよ、バカ」  同じように震える息でなんとかそれだけ言うと、俺は、きゅんと痛むような熱の溜まった目を手の甲で押さえた。  結婚とは縁のない人生だと思っていた。  俺なんかのことを好きになってくれる人がいるだけでじゅうぶんだって思いながら、種が結晶する性を羨み続けるのだと。食用の卵でさえ、有精卵だったりもするのに、なんてさ。  不意に、パラパラと小さな粒をばらまくような音が部屋じゅうに響き、どちらともなく暗いベランダの向こうを見やる。 「雨……」  呟いた俺の左手の上に、彼の右手が重なる。少し緩い指輪を軽く撫でて、 「幸せにする」  なんて言うから。堪えていた涙が、ぽろりと落ちた。 「――うん。俺も」

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