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― 街での暮らし ⑥
跳躍者拉致未遂事件から三週間が経ち、海人が二回目の給料をもらった頃、領主であるサラディール伯爵が長い外遊から帰ってきた。
領主が戻ると屋敷から先触れがあったようで、海人はイリアスと共に駐屯地を出た。屋敷に向かう丘の並木道を進みながら、海人は馬上のイリアスに話しかけた。
「領主様ってどんな人?」
「会えばわかる」
「……」
まったく、なんだってこの人はこうなんだろう。
海人はひそかにため息を吐く。また笑った顔が見たかった。
柔らかな微笑を思い出すと、胸がどきどきする。
あれから少しは笑うことも増えるかと期待したが、何も変わらなかった。
パカ、パカ、という馬の足音を聞いていると、イリアスが話しかけてきた。
「王宮に行きたいという気持ちに変わりはないか」
見上げると、イリアスは正面を向いたままだった。相変わらず表情が読めない。海人は今の気持ちを素直に言った。
「うん、やっぱり会ってみたい。自分の世界の話ができるのは、アフロディーテ様だけだし」
イリアスは黙って続きを促した。
「前に、帰る方法はないのに会ってどうするんだって言ったよね。どうにもなんないんだけど、でも、その人がこっちに来た時の話とか聞けたらさ、おれもここで頑張っていこうって思える気がするんだ」
実のところ、海人はもうこの世界で生きていく覚悟はすでにできていた。
日本に帰りたいとイリアスに漏らしてしまったあの日、彼が困っているのがわかった。
何も言われることはなかったが、抱いてくれた腕からそれが伝わってきた。
この人をこれ以上、困らせちゃいけない。
もうひとりの跳躍者に会うのはけじめのようなものだ。一度だけ会って、この世界変だよねって笑って、それで終わりだ。
その後はイリアスの傍で、彼の役に立つことならなんでもしようと思っていた。
魔力の付与方法も早いうちに教わりたい。
そして王宮から戻ったら、辺境警備隊に入隊させてほしいと頼むつもりでいた。
自分に魔法は使えないけれど、攫われないだけの剣術を身につけて、自分の身は自分で守れるようになろうと決めた。このことはイリアスにはまだ内緒にしている。すべてはもうひとりの異世界人に会ってからだ。
海人がそんな決意をしているとは知らず、イリアスは問いかける。
「もし王宮で暮らせと言われたらどうする」
「え、嫌だって言うけど」
間髪入れずに答えた。
「なんで?」
問い返したが、イリアスはなんでもない、とだけ返した。
そっけない。その質問がなぜか引っかかった海人だが、追及する前に屋敷に着いてしまった。
これからイリアスの父君と対面だ。海人は幾ばくか緊張した。
屋敷に入るとにわかに騒がしかった。サラディール伯の外遊に付き添っていた屋敷の人たちも共に帰って来ていた。三か月半ぶりの挨拶が交わされている。みな笑顔だ。
イリアスが戻ってくると、外遊に出ていた者たちは丁寧に腰を折るが、イリアスは軽く手を挙げるだけで済ます。
海人が急ぎ足でついて行っていると、「あの方は?」という声が後ろから聞こえてくる。気にはなったが、後回しだ。
イリアスの部屋と反対の回廊の奥に向かう。グレンに教えてもらった領主の執務室だった。
イリアスが扉を叩くと、入りなさい、という声と共に、内側から扉が開いた。執事のグレンが中にいて、開けてくれた。
果たして、領主の部屋には執務机に座ったイリアスの父君がいた。
イリアスに似た金髪のロマンスグレーな感じの人が……と思いきや海人は予想外の事実に面食らった。思わずグレンを見るが、彼は何も言ってはいけません、とばかりににっこりと小さく首を振る。
「父上、長らくの外遊おつかれさまでした」
イリアスが言うと、息子の挨拶に伯爵はうれしそうに席を立った。
「おお、イリアス。留守中、世話をかけたな。問題はなかったか、と言いたいところだが。グレンから聞いたぞ」
ルテアニア王国の四大領主のひとり、サウスリー領サラディール伯爵は、イリアスには似ても似つかない、中肉中背で茶色い髪をした壮年男性だった。
(なんか、全然似てないんだけど!?)
内心の驚きは出さないようにする。
「ご報告が遅くなりまして、申し訳ございません。彼がルンダの森に顕れた跳躍者、フジワラカイトです」
海人は背筋を伸ばした。近寄って来た伯爵は海人よりも少し背が低い。
イリアスは海人に体を向ける。
「カイト、この方がサウスリー領主、マウイ=サラディール伯爵だ」
イリアスとは対照的に笑顔の伯爵である。
海人は緊張した面持ちで挨拶する。
「藤原海人です。イリアス……様に拾ってもらいました」
ペコリと頭を下げると、伯爵は声を出して笑った。
「ようこそ、我が領へ。私は君を歓迎するよ」
出された手を握ると力強く返してくれた。
「まあ、座って話そう」
ソファに促され、伯爵が座ると対面にイリアスが座り、イリアスの隣に座るように促された。グレンが紅茶を出してくれ、伯爵はひとくち飲んだ。
「外してくれるか」
領主の一声で、グレンが一礼をして出ていく。
ここからは聞かせられない話ということだ。海人は緊張した。
「さて、イリアス。彼の前でこんなことを言うのもなんだが、なぜ私が戻るまでこのことを黙っていた」
伯爵が足を組んだ。
「聞くところによると、彼は三か月も前に現れたそうじゃないか。私に連絡を取ろうと思えば、どんな手でも使えただろう」
笑顔が消えた伯爵は途端、凄味の増した人物に変わった。
「事が事でしたので。どこに密偵がいるかわかりません。手紙にしろ、伝達にしろ、危険だと判断しました」
イリアスは動じずに返答した。ふむ、と伯爵が頷く。
「一理あるな。ただ、おまえには別の思惑がありそうだが……まあ、そういうことにしておこう」
イリアスはしれっとしている。こういうとき表情が読めないというのはいいのかもしれない。別の思惑というのは気になるところだが。
「私にすら黙っていたということは、王宮にも伝えてないな」
これは質問というより確認だった。
「ええ、これからです」
全く悪びれもしない息子に伯爵は呆れた顔をした。
「おまえ……三か月もこんなことを黙っておいて、王宮になんて言い訳するつもりだ」
「それは先ほど申し上げた通り、父上が外遊から戻るのを待っていたからです。領主の許可なく、王宮に取り成すなど筋違いもいいところ。立派な理由ではありませんか」
人を食ったような淀みないセリフに、だが伯爵は怒らなかった。
「まったくおまえというやつは。歳を取るごとに性格悪くなってないか」
「それは腹芸の得意な父上に似てきたのでしょうね」
親子の応酬に最初はハラハラしていた海人だったが、険悪な雰囲気にはならない。二人ともなんとなく楽しそうだった。
「それで、彼をどうするつもりなんだ」
いきなり自分の話が出たので、緩みかけた姿勢を正した。
「カイトの希望は王宮にいるアフロディーテに面会することです。ひとまず、王宮に連れて行こうかと」
伯爵は軽く眉を寄せた。
「あの方にお会いしたとして、何があるわけではなかろう」
イリアスと同じ事を言ったので、海人はまた同じ事を繰り返し説明した。
会うことが自分自身へのけじめになるのだと。
伯爵は少し考えるようにして、海人に別のことを訊いた。
「ここでの暮らしはどうだ。何か困ったことなどないか」
伯爵の問い掛けに、海人はこの三か月間のことを思い返した。
皆がとても良くしてくれていること。グレン、マーシャ、屋敷の人たちだけじゃなく、辺境警備隊の皆にも優しくしてもらっていること。毎日遊びに行ってるようなものなのに、馬に乗りたいと言ったら乗馬を教えてくれ、厨房で料理も教えてもらっていること。街も明るくにぎやかで、人好きのする人ばかり。嫌な思いをしたことは一度もない。そして自分はこの街が好きだということを熱く語った。リンデの街を治める領主に掛け値のない言葉を送る。
伯爵は嬉しそうに頷くと、イリアスに顔を向けた。
「おまえの狙いがわかってきたぞ」
肩眉を上げ、面白そうな目で見る。
「なにはともあれ、王宮に行くということは決まりだな。さて、そうなると本来であれば私が連れて行かねばならないところだが」
一旦言葉を切るが、それはイリアスの言葉を待っているかのようだった。案の定、イリアスが口を出した。
「そのことですが、父上。私が王宮に連れて行こうと思っております」
「訳を聞こう。サウスリー領主を差しおいて、おまえが行く理由をな」
嫌味っぽい言い方だ。どうやらすべてイリアスの思惑通りに進んでいるとみて、面白くないようだった。
これまでの流れであれば、イリアスもまた人を食ったように言い返すかと思ったが、彼は真面目に言った。
「三週間前、カイトは何者かに攫われそうになりました」
伯爵は驚き、組んでいた足を解いた。
「おまえがついていてか!」
彼の強さは重々承知なのだろう。信じられない、と目が語っている。
イリアスは声を落とした。
「そこは私も申し開きができません」
海人は思わず、彼のせいではなく、自分が勝手に街に出たからだ、と言おうとしたが、イリアスが手で遮った。海人は開きかけた口を渋々つぐむ。
「どこの者だ」
伯爵の眼光が鋭くなる。
「わかりません。アルミルト法国の手の者かと思うのですが……断定できません。拉致の実行犯は魔獣にやられ、手がかりを失いました」
イリアスは膝の上で指を組んだ。伯爵は目蓋を閉じ、黙考してから言った。
「ならば、おまえが行くのが適任だな。誰に狙われているのかわからないようでは、私では守ることはできないだろう」
海人は内心ほっとした。イリアスが付いて来てくれるならこれほど心強いことはない。
ふう、と一息ついて、伯爵は続けた。
「王宮に行くにあたって、要望はあるか」
「二つほど」
「言ってみろ」
「一つは王宮内で起こるカイトの身の上に関することはすべて私に一任すると一筆ください」
伯爵は顔をしかめた。
「嫌な一筆だな。まあいい。もうひとつは」
「カイトの護衛に私の部下のシモンを連れて行きたいので、その許可をいただきたい」
イリアスは辺境警備隊の隊長ではあるが、警備隊の管轄は領主にある。隊の責任者ではあっても、個人的な理由で警備隊を動かすことは許されないのだと後で知った。
海人はシモンも一緒に行けることに喜び、嬉々として紅茶に手をつける。
伯爵はその言に了承しながら、思い出したように言った。
「シモンというのは、おまえを追って王都からやって来たとかいう変態か」
ブッと海人は飲み掛けの紅茶を吹き出した。
「変態ではありますが、被害を受けたことはありませんよ。狙われても私の方が強いので問題ありません」
シモン、かわいそうに……イリアスに憧れ、花形の近衛騎士団を辞めてまで来たのに。
この親子の会話は絶対に聞かせられないと海人は思った。
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