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第1話

 いつの頃からなのかは、分からない。  それが、私のこれまでの人生の何かしらの経験によるものなのか、それとも、身に受けた本能によるものなのか。ともかくも私は、大小にかかわらず家に棲みつく蜘蛛を見ると、あの姿にある種のエロティシズムを感じるようになっていた。  なぜ?  なぜだろう。それを考えたことは無い。  敢えて言うならば……そこに、魔性を見るから、だろうか。  魔性が私を虜にするというのなら、では、今私の目の前にいる青年は一体何なのだろう。  彼を見たのは今日で三回目だった。  最初は一昨日だった。二回目は昨日。そして今日だ。  同じ人物を三日連続で目にするというのは、決して珍しいことではない。  しかしそれが常に深夜の二時頃のことであり、彼がいるのが、人気のない神社の敷地に設けられたベンチだというのなら、話は変わってくるはずだ。  いや、そもそも、なぜこんな時間のこんな場所に私がいるのか。  それは、深夜までの仕事が終わると、少し離れた駐車場まで車を取りに行くのが私の日課だからであり、その途中でこの神社の森の中を通るのだ。その通り道には休憩スペースとベンチが設けられているが、まさにそこに、その青年は座っていた。  これまでにここで人に遭うということはなかった。  初日には、深夜そんなところに誰かが座っていることに少し驚いたものの、できるだけ気にする様子を見せず、私は青年の傍を通り過ぎた。  二日目には、少し横目で見てしまったが、相手がこちらを向くことは無かった。  しかし、三日目、つまり今日も彼は同じ時間の同じベンチに座っている。さすがに気になって顔を向けると、彼はうつむいていた顔を上げ、私を見たのだった。  そのような状況が故に……では無いはずだ。しかし私は彼の姿に、本能の奥底を|抉《えぐ》るような魔性を感じていた。  毛先が不揃いに切られたおかっぱの髪が、周辺で唯一の光源である街灯の弱々しい光に照らされて、|艶《なまめ》かしいほどの光沢を帯びている。青年にしては随分線の細い、触れるだけで折れてしまいそうな体つきをしていた。  サマーセーターは亜麻色だろうか。紺青のスキニーパンツをはいている。  頬にかかる横髪の隙間からは、上目遣いの流し目が私に向けられていた。それが、何かを訴えかける様にも、それでいて実は誘うようにも見える。  そんな彼を見て、私の足は自然と止まってしまったのだ。その細く長い眉はやや八の字に、口は真一文字に結ばれていた。  今、青年と目を合わしている。声を掛けずにはいられなかった。 「君、こんな深夜にここで何をしているのかな? 別に危ない場所ではないが、ずっと座っているような場所でもないと思うのだが」  深夜、人気のない場所、そこを通る見知らぬ男性。そんな状況で声をかけられたら、普通どうするだろうか。しかし彼は、私に警戒心を見せることもせず、自然な態度で、しかし不自然な返事をした。 「え? あ、すみません。実は……いえ、なんでもありません。すみません」  歳は二十くらいだろうか。しかしまるで少年のような声だった。意味有り気な様子で、少し目尻の下がった目を伏せる。前髪が顔に影を作った。 「あ、いや、こちらこそ、突然声を掛けて申し訳なかった。気をつけて」  私は、そうとだけ答え、その場を立ち去ろうとする。  この青年は私を試している。なぜか、そんな気がした。何を試そうとしてるのか、それは私には分らなかったが、彼はまるで、駆け引きを望んでいるかのようだ。 「あの……」  立ち去りかけた私を、彼が引き留める。 「ん? 何かな?」  わざとらしかっただろうか。掛けられた声にすぐ反応して、彼の方を向いた。 「それが……」  彼は、私の反応に少し戸惑いを見せている。 「困っているのなら、力になれないこともないと思うが」  そう振ってはみたものの、彼は口元に指を当て、上げた顔をまた伏せてしまった。しかし、彼の瞳は何かを窺うように不定期に私の方を向く。  それが何回か繰り返された後で、彼はとうとう何かを決心したかのように、私の方へと顔を上げた。 「見ず知らずの人にこんなことを言うのもどうかとは思うのですが……」  彼がまたそこで言葉を止める。 「そこまで言ってしまったのなら、全部聞かせてくれないと、気持ち悪いだろう」  私はそう言って、軽く微笑んだ。 「すみません、実は、事情が有って家に帰れなくなってしまって」  彼の唇が、街灯に照らされたからなのか、微かに艶を帯びる。小さくツンと立った鼻が、余り凹凸を感じない顔の中央で、その存在を一生懸命主張しているようだった。 「んー、それは困ったものだね。どこかホテルかネットカフェにでも泊まるお金は持っているのかい?」 「それが、お金を持ってなくて」  青年が、どこか申し訳なさそうな顔を見せる。  彼の中に、私への警戒心がどれくらいあるのかは窺い知れない。しかし私の中には警戒心のようなものは一切存在しなかった。  なぜ? 何かを失うことを心配するには、私は人生に倦みすぎていたからだ。深夜一人で真っ暗な鎮守の森の中を歩くことに何の躊躇いも恐怖もない私が、今更何を怖がるというのか。 「とりあえず、これで何日かは凌げるだろう。持っていくと良い」  私は鞄の中にあった財布から、万札を三枚取り出した。別に金持ちではないが、お金に対する執着心もない。  しかし彼は首を振り、受け取ろうとはしなかった。 「遠慮はいらないよ」 「お気持ちだけ、いただきます。お優しいんですね」 「ふむ、どうだろう、単なる偽善かもしれない」 「偽善で誰かが助かるのなら、それはもう偽善ではないと思います」  そう言って青年は、目を細めた。 「でも、お金も無しにどうするつもりだい」  その私の言葉に、彼は俯いて口をつぐんでしまう。 「じゃあ、家に帰れるようになるまでには、どれくらいかかりそうなのかな?」 「……帰るところは、無いんです」  彼はそう言って、私を上目遣いで見つめた。その瞬間、背筋に戦慄のようなものが走る。  これは、一体何だろう。この青年が、薄い二重瞼で上目遣いをする姿は、どちらかというと哀れな印象を見る者に与えるかもしれない。しかし私は、そんな彼の姿に限りない恐怖を覚えた。  恐怖……そう、恐怖だ。あの、入ってしまえば二度と戻ることのできない、樹海の入り口に立つかのような恐怖。それでいてその樹海は、奥へと歩みを進めずにはいられないほどに、人間の本能たる好奇心を煽り立てていく…… 「もし良かったらだが、私の実家が今空き家になっている。使うかい?」 「実家、ですか?」 「ああ、ここからすぐのところだ。以前、母親が住んでいたのだが、三年前に他界してしまってね。今では私がとりあえずの事務所として使っているに過ぎない」 「いえ、でも、迷惑でしょうから……」 「仕事道具が置いてあるだけの、何もないところだ。使ってもらって一向に構わないよ。ただ、まあ見ず知らずの人間の家に泊まるというのも、考えてみれば、できないことか」  そう言って私は彼に笑いかけた。しかし彼は、手を足の間に挟み、少し前かがみの態勢で、不思議そうに私を見上げている。 「さて、どうしたものか」  その彼からわざと視線を逸らし、顎に指を当て、考える振りをした。 「あの……」  しばらくして、彼が声を掛ける。 「ん? どうしたんだい」 「泊めていただいても、いいでしょうか」 「あ、ああ、私は構わないが、君は大丈夫なのか?」 「はい、実は本当にどうしていいかわからず困っていました」 「そうか。じゃあ、案内するよ。私は、棚橋真史。売れない小説家をやっていてね」  そうやって自虐的に笑ってみる。青年がつれて表情を緩ませた。 「ありがとうございます。ボクは、|神室《かむろ》と言います」 「『かむろくん』だね。じゃあ行こうか」  それが苗字なのか、それとも名前なのか。何かあるのかもしれないが、気にしないことにした。 「本当にすみません」 「気にしなくても大丈夫」  そう言うと私は、来た道を実家の方へと引き返す。彼はベンチから立ち上がると、黙って私の後をついてきた。  鎮守の森を後にし、アスファルトの車道へと出る。そこでふと、頬に濡れるものを感じた。 「雨、ですね」  神室が真っ暗な空を見上げ、手のひらを上に向けている。 「やれやれ。帰るのが億劫になるな」  そう言って肩をすくめると、神室に「急ごう」と声を掛け、走り出した。神室も後ろをついてくる。程なく、私の実家に到着した。 「ここだ」  私は三軒並びの真ん中の家を指さす。もちろん明かりはついていない。二階建ての普通の一戸建てだ。  雨が強くなってきている。慌てて家の中に入り、一息つく。そして電気をつけた。 「どうぞ」 「お邪魔します」  玄関からリビングへ。時計を見ると、深夜の二時半を指している。 「来客用の布団を敷くけど、部屋は母親が使っていた部屋しか空いていない。そこでもいいかな、神室くん」  そう言ってリビングに入ってきた神室の方を振り返ったが、彼は部屋の中をゆっくりと見渡していた。 「すまないね、ここは私一人で使っているところだから、あまり片付いてはいないんだ」 「いえ、そんなことないですよ。奥さんはいないのですか?」 「ここは実家だからね。嫁は大阪の家にいる。とりあえず座って待っていてくれ。用意してこよう」  以前母親が使っていた二階の部屋へと向かう。ところが、彼も私の後をついてきた。 「待っていてもらっていいよ、神室くん」 「それでは悪いので手伝います、真史さん」 「そうか、なら、お願いしようか」  一体彼がどんな思惑で私についてきて、今何を考えているのかは分からない。  では私はどうだろう。なぜ、見知らぬ青年を家へと連れてきたのか。  何の変哲もない今の日常から私を救い出してくれるような蜘蛛の糸が、空から垂れてくるのをただ待っているだけの人生には、本当に倦んでしまっていた。だから、何かが起こることを期待して、彼を連れてきたのだろうか?  何が? ……私は何を期待しているのだろう。  ただ、どんなことであれ、何も起こらないくらいなら、何か起こってほしいと思っているだけなのかもしれない。それがどんなことであったとしても。  私は彼を部屋に通し、エアコンをつけると、押し入れから布団を取り出した。 「ベッドじゃないんだ、すまないね」 「いえ、ボクは布団の方が好きです」  その言葉通りというべきか、神室は慣れた手つきで、布団にシーツを被せた。 「へえ、手慣れたものなんだね」  私の出番はなかった。目の前で布団がまるで旅館の様に綺麗に敷かれるのを見て、私は苦笑した。  作業を終えた彼に、入る時に使った家の鍵を差し出す。 「出るときは鍵を閉めてくれ。ポストに入れておいてもらえれば大丈夫。明日の昼にはまたここに来るよ」  差し出された鍵を彼はしばらく見つめていたが、おもむろに手を出すと、私の手を包み込むように両手を添えた。  彼がまた私をあの上目遣いで見ている。まるで、私に対して極めて効果的な表情であると知っているかのようだ。  彼はしばらく、そのままの状態で、私を見続けていた。  ふと、彼の手を取り、少し力を入れる。彼は抵抗することなく、いやそれどころか、自ら飛び込むように、私の胸へと顔をうずめた。神室の体を抱きとめたが、勢い余って、二人ともが布団の上に倒れ込んでしまう。  神室の体は軽かった。『華奢』という形容が似合っているようだ。彼の髪の毛からは、何か、雨が降る直前に大地が放つ芳香のようなものが漂っている。いつまで嗅いでいても飽きない、そんな匂いだった。 「大丈夫かい」 「すみません。あ、あの、洗ってないので、ボク、あまり綺麗じゃ」  そう言いながらも彼は、体を起こそうとした私に体を寄せる。 「余りそういう風には感じないが、気持ち悪いのなら、シャワーでも浴びるかい」  屋根に打ち付ける雨音が、エアコンから噴き出す風の音を消すほどに大きく響いていた。 「くさくは、ないですか」  神室が私に覆いかぶさるような態勢になっている。それでもなお、この子は私を上目遣いで覗き込むように見るのだ。 「いや、別に」  彼の瞳が、部屋の明かりを反射している。その表情は穏やかであるようで、それでいて、抑えきれない興奮を隠しているようだ。  彼が唇を軽く内側に巻き込み、元に戻す。唇が湿り気を帯びた。手が、私のシャツの内側へと入り込んでくる。ひんやりとした感触が腹から胸へと上ってきて、そこで手が止まった。  また彼が、唇を内側に巻き込む。何かを探るように、何かを待つように、私の目をじっと見つめていた。  不思議な……それは不思議な感覚だった。まるで操られるように、私の手が神室の体へと伸びる。いつの間にか、神室が横たわり、私が彼の上にいた。  まくり上げられたサマーセーターの下から、無駄な贅肉の全くない身体が現れる。胸部にうっすらと浮いて見える肋骨に顔を寄せ、その一本に舌を這わせる。神室の身体が、与えた刺激に呼応するように、断続的に震えた。  そこで私は、這わせていた舌を彼の肌から離す。 「あ……」  まるでお菓子を取り上げられた子供のような瞳を、私に向けた。 「真史さん」 「何、かな」 「電気を、消してもらえませんか」  私は体を起こし、天井から垂れさがる照明のスイッチのひもを二回引いた。オレンジ色の非常灯だけが灯る。 「それも……消してください」  言われるまま、もう一度引く。部屋は外の街灯の灯りが薄く差し込むだけの暗がりになった。雨音は、一層激しさを増している。 「これでいいかい?」  そう言うと私はまた彼の体に覆いかぶさる。すると彼は私の首に腕を絡め、そのまま引き寄せた。  ただ欲望のままに抱き合い、口づけをし、彼の服を脱がせる。お互い、生まれたままの姿になって、また抱き合った。  さっき会ったばかりだということが信じられないくらい、お互いを求め、むさぼり合う。  驚くほどに固くなった自分のものを、彼の入り口に押し当てた。次の瞬間、今までにないくらいの力で、神室が私を後ろへと押し倒し、上から押さえつける。  その時、白い光が部屋の中に差し込んだ。その光によってできた影が、一瞬、部屋の壁へと映される。  か細い上半身のシルエットとは対照的に、腰から下が異様に大きく丸くなっており、そこから伸びた何本かの足が、山形の影をそこに加えていた。  影が消え、雷鳴が轟く。 「こ、怖い、ですか? ボクのこと、怖い、ですか?」  さほど長くはない髪が下に垂れ、彼の表情を隠している。雨音ですら隠せないほどの荒い息が、彼の口から洩れた。 「神室くん……」  再び雷光が瞬く。壁に映し出された異形の影から伸びる八本の脚。それが暗闇に溶けると、また雷鳴が轟いた。 「ボクと、ボクと一つに、なってくれますか?」  私にそう尋ねながら、神室はゆっくりと、少し苦痛に喘ぎながらもゆっくりと、腰を下ろしていく。粘膜が作り出す襞が、私のものを咥えこんだ。包まれるような、それでいて飲み込まれるような感覚。その刺激が私の脳を震わせる。  私のものが、その根元まで神室の体の中へと納まった。苦痛ゆえなのか、それとも全身を走る快感ゆえなのか、神室は体を反らせて天井を見つめている。 「ああ、これが」  神室の口から言葉が漏れた。その瞬間、強い力で私のものの根元が締め付けられる。するとまた神室の口から、「ああ」という声が漏れ出た。  神室がゆっくりと腰を上下させ始める。そのたびに私のものに咥えられる刺激が上下し、得も言われぬ快感を与えてくる。  神室の口から洩れる声が次第に大きくなり、やがてそれは悶え声に変わった。腰の動きが激しさを増し、神室はとうとう本能の命じるままに嬌声を上げ始める。  その姿に、私は震えた。  これが……魔性か。  私は、声にならない|呻《うめ》き声を上げながら、そのまま彼の中へと精液を吐き出してしまった。彼の中に咥えこまれている私のものが、痙攣するように、何度も何度も脈打つ。その度に彼は、苦し気にも聞こえる声を上げ、ついには私の胸へと倒れこんでしまった。  しばらく荒い息を吐きながら、脳を貫くような快感の余韻に浸る。そして、私の上に倒れこんでいた彼を、強く抱きしめた。 「神室、君はとても美しい」 「ああ、うれしい……とても、うれしいです。ボクを追い払ったり、しませんか?」  私の胸で、まるで怯えるようにつぶやく彼の髪に、私は優しく口づけをした。 「居たいだけ、ここに居るといい」  そして再び、狂気じみた宴が、二人の間で始まった。 ※ ※  朝起きると、神室はいなくなっていた。ふと視線を感じて天井を見上げると、少し大きめの蜘蛛が部屋の隅の天井にへばりついている。  私は少し微笑み、そして嫁宛てに昨夜帰れなかった謝罪のメールを送った。 「今日の夜はさすがに帰らないと嫁に怒られそうだ。とりあえず夜まではここで仕事だけどね」  天井に向かってそう言うと、私は一階へと降り、リビングで仕事を始める。いつの間にか、その蜘蛛はリビングの壁にいた。  今日はほとんど仕事に手がつかない。締め切り間近の仕事をなんとか終わらせたのは、深夜の一時頃だった。  ふと気が付くと、蜘蛛はリビングからいなくなっていた。少し落胆したが、今日は家に帰らないといけないのだから、いたとしても相手はしてあげられない。  仕方なく帰り支度をして、車が置いてある駐車場へと向かった。  愛し合った後の、神室の微笑みを思い出す。  私は……糸に捕らえたのか、それとも、捕らわれたのか。  もう、どちらでも構わなかった。  次の日、駐車場に車を止め、実家へと向かう。扉を開けると、玄関に神室が立っていた。 「お帰りなさい」  そう言うと彼は、目を細めて微笑んだ。 了

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