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第1話

「嘘…だろ?」  人間、心底驚いた時にはごくつまらない言葉しか口から出ない。そしてまた、とっさの行動もできないのだと初めて知った。  見合いの相手と約半年の交際期間を経てプロポーズして、周囲に祝福され結婚式を挙げた。ここまで、平凡そのものの流れだったと思う。披露宴の会場で新郎新婦と参列者が和やかに席につき、友人のスピーチが始まるまでは。  司会からマイクを渡されて立ち上がった新婦の親友は、黒髪に黒いドレスのきりっとした顔立ちの美人だった。 「聡さん、理穂さん、ご結婚おめでとうございます。お二人がこの晴れの日を迎えられたことを心から嬉しく思います」  最初はそんな感じだった。無難に、かつ温かな言葉を連ねていた彼女のスピーチが突然止まった。「何事か」という低いざわめきの中、ゴトンという音が響く。マイクを置いて、彼女がつかつかと高砂へとやって来た。 「響子? どうしたの?」  眼を丸くした新婦が呼ぶのを聞いて、そういえばそういう名前だったな、とぼんやり思う。 「やっぱり私我慢できない。理穂が好き。結婚なんかしないで。…私と一緒に来て!」 「ちょっと冗談きついっていうか、何かの余興? 理穂ちゃんこんなの頼んでたんだ」  笑いながら隣を見る。そして固まった。彼女は、今にも泣きそうな顔で俯いていた。 「…聡さん、ごめんなさい」 「え? 理穂ちゃん?」  理穂がガタンと席を立つ。白いプリンセスラインのドレスの花嫁と黒いドレスの女性とが、手に手を取って駆け出し会場を去った。  二人の姿が消えて、BGMのクラシック曲が流れるほかは数秒間沈黙に包まれていた披露宴会場が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。新婦の両親が慌てふためいて会場から出ていく。  呆然としたまま一人高砂で座り込んでいると、静かに司会者が近づいてきた。 「松本様。…新婦様に急用が発生したという風に説明申し上げた方がよろしいでしょうか?…このままでは少々…」 「あ…、はい…。すみません、ちょっと両親と話を」 「承知いたしました。少々お待ち下さい」  司会者と会場の担当者が低く言葉を交わし、やがて打ち合わせが終わったらしく司会者が高砂に、担当者が両親のいる親族席へと分かれて来る。 「一旦控室にお戻り下さい。ご両親様もお呼びしてありますので。私はアナウンスを入れて、後でお話を伺います」 「わかりました」  雲を踏むような危うい心地で、お色直しの時に出入りする予定だった奥のドアを開ける。  控室で青ざめた両親と顔を見合わせたが、ここは司会者の提案にのってやり過ごすことしか思いつかなかった。詳しく事情を聞こうにも、花嫁とその親友の行方はわからない。探しに行った新婦両親もまだ戻ってこない。 「父さん母さん、こんなことになってごめん。叔父さん達にも謝っといて。俺からもちゃんと言うから」 「いや、よく事情はわからないがお前が悪いわけじゃない。後のことは後で考えよう」  母も涙ぐみながら黙って頷いた。コンコンとノックの音がして、「失礼します」と司会者が入ってくる。 「お話はお済みでしょうか?」 「はい。とりあえず彼女にちょっとしたトラブルってことで…身体の不調とか。食事会に変更ってことでお願いします」 「わかりました」  こうしたトラブルには慣れているのか、落ち着いた様子で頷いた彼が足早に出て行った。  その後のことは、あまりはっきりと覚えていない。「腫れ物に触るような」という表現がぴったりの参列者の態度も、すべて終わって控室で土下座した理穂の両親の謝罪の声も、自分の周りに薄膜が張ってそれを通して見聞きしているようで、何だかピンとこなかった。  じわじわと感情の起伏が戻ってきたのは、翌日の夜になってからだった。  ホテルの部屋をチェックアウトして、新婚生活を送るはずだったアパートの部屋に戻る気にならず適当にほっつき歩いて、昼飯を食べそこねたのに気づいて眼についた居酒屋に入った。テーブル席に案内される。 「あー、クソッ」  ビールを一息に半分ほど干して、小声で悪態を吐く。空腹にアルコールが染み渡る。どうせこれから数日間は休みなのだ、とことん飲んで自堕落に過ごしてやろうと思う。今朝出発予定だった新婚旅行は、理穂の両親がキャンセルの連絡をして料金も負担すると言っていた。それも今はどうだっていい。 「松本様?」  適当に頼んだ料理をつつきながら何杯目かの焼酎のグラスをぐいぐいと呷っていたら、声をかけられた。 「ん? あー…、誰だっけ?」  仕事関係者だったらまずいかと霞んできた頭の片隅で思いながら相手を見上げると、洒落た眼鏡をかけた男性だった。 「却って失礼かな、とは思ったんですが。…その、昨日司会をさせて頂いた…」 「…どうも。えっと確か」 「益子です」 「あー、そうだったそうだった。益子焼の益子」 「よくご存じですね。若い方だと知らない人も多いんですが」 「仕事で近くに行ったことがあるんで。まあどうぞ、座って下さい」 「いいんですか? それじゃ相席させて頂きます」  心なしかいそいそと、益子が向かいの席に座る。 「おにーさん、焼酎ロックおかわり! それとこちらさんに…ええと、とりあえずビール? 生中ひとつ!」 「あの…、あまり飲みすぎない方がいいですよ」 「うるさーい! これが飲まずにやってられるかー!」 「…気持ちはわかりますけどね」  さすがにプロの司会者だけあって、かすかな溜息混じりでも通るバリトンのいい声だ。  それが、その夜最後の記憶だった。 「ん…」  瞼を持ち上げて、最初に映ったのは見慣れない天井だった。飛び起きようとして、割れるような頭の痛みにまたシーツに沈む。 「どこだ…ここ」 「起きました?」  落ち着いたバリトンの声に仰天した。そろそろと視線だけ動かしてみれば、ベッドサイドでこちらを見下ろしているのは益子だ。出勤の支度なのか、きちんとしたカッターシャツにネクタイを結んでいるところだった。 「あんた…何で」 「すみません、仕事の打ち合わせでどうしても出かけないといけないので。早ければ二時間ほどで戻ります」 「いや、でも」 「ここに水置いておきますから。二日酔いだと思うので、そのまま休んでて下さい」  口早に言って、ビジネスバッグを片手に彼が出て行った。遠くでガチャリと鍵の閉まる音がする。  水、と言われて渇きを意識した。ガンガンと痛む頭を宥めて何とか起き上がり、ベッドサイドの小引き出しに置かれたペットボトルを取って蓋を開け中身を喉に流し込む。  ボトルを置いて横になると、涙がじわりと滲み出した。まるで、今飲んだミネラルウォーターが喉だけでなく眼まで潤したみたいだ。情けなさとか悔しさとか困惑とか怒りとか、ごちゃごちゃと絡み合う感情が喉の奥からせり出して嗚咽に変わる。枕カバーに涙を吸わせて一頻り泣いて、いつの間にか眠りに落ちていた。  …冷たくて気持ちいい。  そう思いながら眼を開くと、視界は白いもので覆われていた。それが濡れたタオルらしいと気づいて手でずらす。途端、間近で見つめている益子の顔が飛び込んできて、反射的に後ずさった。…頭の下は枕で、それ以上動かしようもないのだが。 「な、何っ、あんたいつ、っていうかここ」 「一時間ほど前に戻りました。ここは俺の家です。たぶん覚えてないと思うんですけど、昨夜松本さんすごく酔ってて帰れそうもなかったので」  仕事中でもないのに相変わらず丁寧な口調で言って、彼が落ちたタオルを拾い上げた。 「帰って様子を見たら、眼元が腫れてたので。…泣いてました?」  いきなり核心に迫られて、親切にしてくれているのは百も承知で猛烈に苛立ちがこみ上げてきた。 「…何なんだよ」 「はい?」 「あんた昨夜から何だってんだよ! 放っときゃいいだろ? こんな…情けない男なんか」 「情けないなんて、別に思ってませんよ」 「情けなくないなら、俺って何。負け犬? 逆に俺が邪魔者? 恋人たちの仲を踏みにじった悪魔? 頭下げて有給とって、部屋探して式場予約して、結婚式で花嫁に逃げられて。…ははっ。」  乾いた笑いと涙が一緒に出た。カウンセラーとか、他人に聞いてもらった方が本音を吐きやすいというのは本当のことだと思う。相手が友達だったら、とてもこんな姿は見せられない。 「彼女が好きでしたか?」  ベッドに腰かけた益子が手を伸ばし、髪に指を差し入れてきた。何のつもりかよくわからないが、繰り返し髪を撫でられるのが妙に心地良い。 「…恋愛感情だったかって聞かれると自信はない、けど。でも俺は理穂を妻として大事にしよう、この人と温かい家庭を作っていこうっては思ってた」  結婚前提のつき合いで、価値観が合えばうまくやっていけると思っていた。ゆっくり好きになればいいと思っていた。それが駄目だったのだと言われたらどうしようもないけれど。 「泣いてもいいんですよ。怒って当然です。たとえ彼女たちが道ならぬ恋に落ちて悩んでいたとしても、あなたをあんな風に傷つける権利はなかった。大人には大人としての責任と振る舞いがあります」  泣いてもいい、と言われてぶわっと涙が溢れてくる。俺が泣き止むまで、益子は髪を撫で続けていた。  溜まっていた感情を爆発させたらすっきりして、生理的な欲求が蘇ってきたようだった。トイレを借りて用を足し、「なんか腹減ったな」と呟くと益子が「食欲が出てきたならよかったです」と笑って台所に行った。  「どうぞ」と彼が出したのはオムライスだった。サラダとアイスティーも一緒に並べられて、遠慮なく「いただきます」とスプーンを手に取る。 「ん、美味い」 「そうですか、よかった」 「今さらだけどさ、何であんたそんな親切なの? アフターサービス?」  冗談を飛ばしたつもりだったのに、益子は気まずそうな顔をした。 「…なんです」 「え?」  滑舌のいい彼の言葉が聞き取れないなんて珍しい。 「俺、耳フェチなんです。…初めの打ち合わせで、松本さんの耳に一目惚れでした」 「はあ!?」  固まっていると、彼がぐっと迫ってくる。 「この世に人の耳ほど美しいものはありません! その中でもあなたの耳はまさに究極の理想! 色も形も大きさも完璧です!」 「へ…、変態…」 「こういう嗜好がマイナーなのは認めます。…が、痛いのが快感だとか排泄物が好きとかじゃないので、変態と呼ばれるのは心外です」  不本意そうに言った彼が、いきなり俺の耳をはむっと咥えた。 「え、ちょ…っ」  輪郭をなぞるように舌を這わされて、背中がぞわりとする。スプーンを持った手で慌てて押し返そうとしたが、益子はめげずにさらに耳の奥に舌を突っ込んできた。水の音と湿った感触に、下半身にむずむずとしたものがこみ上げてくる。  …何だこれ。  それが性的な快感だと気づいて焦る。益子を振りほどこうとしたが、彼は事もあろうに股間に手を這わせてきた。 「ン…ッ、やめ、益子…っ!」  ジッパーを降ろされ、下着の中に侵入してきた指に昂ぶったものを包まれ擦られる。手と舌を同時に動かされて、今まで味わったことのない快感に思わずぎゅっと眼を瞑った。 「あの、突然すみませんでした」  益子の手で達した後、乱れた服を整えて黙々とオムライスを頬張る俺に彼がおろおろと謝った。 「…っつかさ、あんた耳フェチなだけじゃなくてホモ?」 「彼女がいたこともあるんですが、基本はそうかもしれません。初恋が小学校の時の先生だったんですが、男性でしたし」 「耳がよかったわけ?」 「はい。先生以上の耳に出会ったのは、松本さんが初めてです」 「…あっそ」  ちょっとした怒りはあるけれど、ここまで来ると呆れるしかない。 「改めてお願いしますが、俺と恋愛前提でおつき合いしてもらえませんか?」 「俺は男と寝る趣味はないんだが」 「そういうことは、俺を好きになってもらってからでいいんです」 「さっきのは何」 「あれは…、すみませんでした。松本さんの耳を見てたらムラッとしてしまって。触ったら反応したから可愛いなって。…いえっ、もう合意なしに触ったりはしませんから!」 「なら、まあ」  互いのスマートフォンを出して、連絡先を交換する。 「変な奴だって思われてるとは思いますけど…、俺にとってその人の耳は生涯変わらない愛情の対象なんです。太っても痩せても、耳は変わらない。俺は松本さんの耳に永遠の愛を誓いたいんです」 「あんた、マジで変。交際より先にプロポーズかよ」  本気でそう思ったのに、愛を囁かれた俺の耳はジンと熱を持った。  こうして、俺と益子のつき合いは始まったのだった。 終わり

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