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プロローグ

久しぶりにピアノを弾いてみた。 何もすることがないならやってみたら?と礼央(れお)が楽譜や練習曲の教本をたくさん用意してくれたのだ。 もう10年以上触っていないから、指は全然動かない。 でも何となく楽しくて夢中で鍵盤を叩いていたら気付かぬうちに辺りが暗くなっていた。 ドアが開いて礼央が入ってきてハッとする。 「ただいま」 「あ、おかえり」 「弾いてくれてたんだね」 「うん、暇つぶしにいいねこれ。気付いたら2時間も経ってた」 俺はピアノの蓋を閉じて立ち上がった。 「ごめん、ご飯これから作るね」 慌ててキッチンに向かおうとすると礼央が拗ねたように言う。 「美耶(みや)さん…また忘れてます」 「え?」 「おかえりのキス」 あ…そうだった。 一緒に住むにあたって幾つかルールを決めたんだ。 早く恋人らしくなれるように、行ってきますとおかえりの時俺からキスをすること。 俺は礼央に近寄り、少し背伸びをしてキスした。 「礼央、外の匂いがする」 「それは外から帰ってきましたからね」 礼央の腕が腰に周りホールドされる。 「離してくれないとご飯作れないんだけど…」 首筋に鼻先を埋めてクンクン匂いを嗅がれる。 くすぐったい。 「んー、この匂い嗅いだら疲れが取れます。ずっとこうしてたい…」 「はいはい、ほら離してって」 俺は胸を押しやって身体を離した。 顔が熱い。 あんまりくっつかれると恥ずかしいし変な気分になりそうだ。 だって礼央はすごくいい匂いがするから。 さっき外の匂いなんて言ってごまかしたけど、本当は礼央自身の香りに包まれると発情期でもないのにくらくらしそうなのだ。 礼央はαなのになんでこんなにいい匂いがするのかな。 俺はそもそもこんなふうに恋人とベタベタするのに慣れていなかった。 前の彼氏…というか元婚約者は俺にすごく冷たくて、ヒートの時以外は触れようともしなかったから。 「えー。もっとギュッとしたいです」 礼央は口を尖らせた。 この新しい年下の恋人は、スキンシップが大好きなようで一緒にいたら常にくっついてくる。 昔実家で飼っていたゴールデンレトリバーを思い出す。 礼央は髪の毛の色も明るめでふわふわしているし。 「ご飯を食べてからだ。礼央は手も洗ってないだろ?」 ぶーぶー言う声が背後で聞こえたが俺はキッチンに向かった。 野菜を切りながら、こんな穏やかな生活が訪れるなんて人生ってよくわからないなと思った。 少し前の俺は本当にどん底だったから。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ この世界には男女という2つの性別の他に、α、β、Ωの3種類の性がある。 α性は人口の10~15%を占めるいわゆるエリート性。知性も体力も他の性より抜きん出ている。 そしてΩ性は人口の数%しかいない生殖に特化した種で、男性も女性も妊娠可能だ。約3ヶ月に一回発情期があり、その間は生殖行動が最優先されるため普段どおりの生活ができないというハンディキャップを背負う。 そして残りのβはいわゆる普通の人々で、男性は妊娠出来ないし男女共に発情期もない。 このようにΩ性に発情期があるため序列で言えばα>β>Ωの順に優位といえるが、最近は医薬品の開発が進んで発情期の症状を上手く抑えることも可能であり一昔前であれば社会進出が難しかったΩ性の人々も他の性に混じって普通に仕事ができる環境が整っている。 なお、Ω男性が妊娠できると言っても、相手がβの場合は妊娠できず、相手がαの場合のみΩ男性も妊娠可能となる。 その他に、Ωの人間は発情中にαの人間にうなじを噛まれるとお互いが「番」の関係になり、一生解消することのできない絆のようなものが発生する。 また、Ωが発情期に発するフェロモンはαを強烈に誘惑するが、番が成立した場合そのΩのフェロモンは番の相手以外には効力がほぼ無くなる。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 見た目の美しさに反して嫌われ者のΩとして生きてきた俺はこのような性質に振り回され、翻弄されて今に至っている。 結局の所、こうしてαの礼央と恋人同士になれたのだからこの性質も悪くはないのかもしれない。 ただ、少し前の俺は自分のΩ性を心底呪っていた。

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