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第33話
◇
半年ほど後、リュドラーは馬丁としての衣服を与えられた。
性技に慣れたと判断された上に、主を主とも思わぬ堂々たる馬オルゴンがリュドラーを気に入り、彼の世話でなければ納得をしないようになってしまったからだ。
サヒサは馬丁からその報告を受けると面白がり、館の中で自分の意のままにならないふたつがリュドラーになついていると笑った。ひとつはオルゴン。もうひとつはティティ。
サヒサはティティがリュドラーに感心を寄せていると気づいていた。その根源がなにかはわからないが、性奴隷からすれば神に等しい身分の男が主のために、唯々諾々と体を拓かれることに興味を引かれていると考えていた。それがさらにサヒサの感心をトゥヒムとリュドラーに向かわせて、ティティはサヒサの意識を奪う主従の存在にますます固執していった。
肌を暴かれることが日常になってしまったリュドラーは、茶席に呼ばれるまでは馬丁として働き、召し出されれば淫靡な獣として妖しく乱れた。サヒサはトゥヒムのほかにはリュドラーを抱かせず、口吸いもまた、ほかの誰にもさせなかった。予想通りのなりゆきに、それでもティティは毎夜ホッとしながら自分の立ち位置を確認していた。
サヒサの興味をすべて自分に向けておきたいがためのティティの行動を、リュドラーはいつか館から逃れるための布石と受け止め、彼の合図で訪れるトゥヒムに抱かれた。
トゥヒムはリュドラーの扱いを覚え、性欲の発露に恍惚となりつつも溺れきることはなく、内面には喜びとも悲しみともつかぬリュドラーへの恋慕と悔恨を抱え続けている。それが勉学の原動力となり、見る間に彼は商売のいろいろを吸収していった。
トゥヒムは一流と呼ばれる品々に囲まれて育っていたので、審美眼は自然と備わっていた。目利きができる品物の中でも、商売はじめに扱うのは貴金属がいいだろうとサヒサは判断し、細工物の職人との交渉術や相場、利益率や客層を決める店構えと接客など細かな部分を教えにかかった。
寝物語でそれを知ったティティは、いよいよ彼らが独立する日も近いと判じ、そのときサヒサはどうするだろうと考えた。
ふたりを完全に手放してしまうのか。
それとも傘下の者として付き合いを続けるのか。
前者ならばティティの体内に渦巻くざわめきは解消される。しかし後者なら、この不愉快な感情は終わらない。うっとりするほど快い憎悪を満足させられぬまま、サヒサと過ごしていくなど耐えられない。だからティティは己の安寧のために、トゥヒムをリュドラーのもとへ行かせて主従の絆を深めていた。あのふたりのどちらかが、興味の一部をサヒサに向けてしまわないように。
自分を支配するのはサヒサであり、サヒサを支配するのもまた自分だと、性奴隷にはあるまじき感情と自負しながらもティティは硬く己に決めていた。その通りにならなければならない。それを阻害するものは穏便に排除する。そのためならば持てるものをすべて使う。
ティティはリュドラーもトゥヒムも気に入っていた。望んでも得られないものを持っているふたりがまぶしかった。ふたりのもともとの身分を知って、その気持ちが強くなった。主従の幸福を願うことが、自分の心の平穏を得る方法でもあることがうれしかった。
だから計画に迷いはなかった。
サヒサの館で、ティティの魅力に抗えるものはひとりもいなかった。どんな相手でもティティがほほえめば心をときめかせる。いままで培ってきた手練手管を持ってすれば、誰をも意のままに操れた。――彼らは簡単にサヒサを裏切り、ティティの望むとおりに動いた。
それがティティの憎しみを愉悦で満たし、ティティはますます計画に没頭した。あくまでも慎重に、サヒサには見つからないように。けれどウキウキとした心を、リュドラーとふたりきりになったときだけ発露した。
「ずいぶんと楽しそうだな」
オルゴンをブラッシングしながら、リュドラーはティティに声をかけた。背中越しの言葉に、ティティはちょっと首をかしげて「そうかな」と口元をほころばせた。オルゴンは泰然とリュドラーに身をまかせている。この後、リュドラーを背に乗せて軽く馬場を駆けるのが、近頃のオルゴンの日課になっていた。そしてティティは己の馬に乗って参加する。
「なにかいいことでもあったのか」
振り向いたリュドラーに、うーんとうなってからティティは人目を惹く笑顔を浮かべた。
「これから、いいことが起こるんだ」
「これから?」
「そう、これから」
ふふ、と意味深な息を漏らしたティティは自分の馬の首を撫でた。オルゴンと比べれば華奢に見えるが、しなやかな筋肉を持つ雌馬はやさしい目をしてティティに導かれ、馬場に出る。リュドラーもオルゴンを連れて馬場に出て、鞍を乗せた。ふたりは馬上に飛び上がり、ゆったりと手綱を握ってオルゴンの好きに歩かせる。ティティの馬はオルゴンの横にピタリと並んだ。
「こうして誰かと散歩をするのが日課になるなんて、想像もしていなかったな」
「どうしたんだ、いきなり」
「それももう終わるのかと思うと、ちょっと寂しくなったって言ったらどうする?」
驚き、リュドラーは手綱を引いた。オルゴンが不快そうに鼻を鳴らして立ち止まる。
「君の主は充分に知識を蓄えているし、とっても優秀らしいよ。僕は商売のことはよくわからないけれど、あの人がそう褒めていた。――もうすぐ手が離れるだろうって」
リュドラーはじっとティティを見た。彼の表情から心境を読み解こうとするが、掴みどころがなくてわからない。
「そうなると、どうなるんだ」
慎重に声を出したリュドラーに、ティティは気楽に返事した。
「約束通り、別の街に店を構えて違う名前で生きていくことになるんじゃない? 約束はきちんと守る人だから」
「どういう形でか、聞いているか」
ふっとティティの目元に陰りが差して、リュドラーはそれをよく見ようとオルゴンをティティに近づけた。
「完全に手放すか、傘下の支店として出させるか……。そっちは放っておかれるほうがいい? それとも、商売が軌道に乗るまで導いてもらいたい?」
「俺は……、商売のことはよくわからない。トゥヒム様がどれほどの知識を得られたのかすら、わかっていない。あの方がお望みになられる形であればいいと願うだけだ」
ふうん、とティティは予想通りの答えに唇を尖らせた。自我があるのかないのかわからないリュドラーの生き方は、ちょっと自分に似ている気がする。もしかしたらそういう部分も、彼を気に入っている理由なのかもしれない。
「おまえはどうなんだ」
「え」
「どちらであればいい」
虚を突かれて、ティティは目をぱちくりさせた。質問をそっくり返されるとは予想外だ。
リュドラーは真剣に、彼の望みを掘り起こそうとする目でティティを見つめる。
(ティティは俺たちと共に館を出るつもりだ)
半ば確信めいて、リュドラーはそう思っていた。性奴隷であることの不満を、身の程を教える名目でこぼすティティは自由を求めている。――それが自由を手にしたことのある人間の傲慢な想像であるとも気づかずに、リュドラーは決めつけていた。自由を知らない人間は、自由を想像してみても具体的な感覚を得られないとは知らなかったから。そして自由を知らない人間からすれば、それは究極のあこがれであり極上の絶望でもあるとは思いもよらなかったから。
当然、後者だという答えが返ってくるものと、リュドラーは思った。しかしティティは草の間に隠れる野花のように、ひかえめに笑っただけで話題を変えた。
「今日はちょっと遠出をしようか。ちゃんと許可は得ているから、安心して。夕方までに帰ればいいから」
「夕方?」
それでは茶席に間に合わない。察したティティがクスクスと肩を震わせた。
「ちょっと遠くに行くんだよ。この馬場を突っ切って、森の向こうの街に行く。馬を飛ばせば、夕方までにはギリギリ帰れる。だから、行こう。オルゴンだって、馬場ばかりだと狭くて退屈だろう?」
「だが……」
「大丈夫だって。僕もリュドラーも、逃げる理由がない、というか、逃げられない理由があるから戻ってくるって誰もがわかってる。ちなみに今日はお茶の時間はないよ。君の主を連れて、職人のところへ行ってくるって言っていたから、帰りは夜遅くになるよ。職人というのはなぜか、酒を飲むのが好きな連中が多いんだ」
「そうなのか」
「そう。だから館の連中はみんな、今日は羽を伸ばして好きにしていられるのさ。――つまり、自由ってことだね? 制限付きの自由。……これは、自由とは言わないのかな」
小首をかしげたティティに、リュドラーは「いいや」と首を振った。
「自由というのは制約があるものだ。それぞれの場面において、他者や状況との折り合いがあるからな」
「ふうん。なら、自由っていうものは僕の生活となんら変わりないんだね。制限の中でのみ、発揮できるものなんだ」
「そんなふうに考えたことはなかったな。――制限の中でのみ発揮、か」
繰り返したリュドラーは、それこそまさしく自由の本質であると思った。野放図に好き勝手をするのは、自由とは言えない。だからティティの言葉は真理となる。しかし、その「自由」という言葉に含まれる望みは、現在の自分やティティの立場にとっては羨望の的になりうるべき言葉で、ティティの認識とはやはり違うと言いたかった。
「ティティ」
「さあ、グズグズしていないで出発しよう。――オルゴン。君は頭がいいから、これから進む道をしっかりと覚えられるよね? さあ、僕についてきて」
なんと伝えればいいか迷うリュドラーを置いて、ティティは馬を走らせた。オルゴンはほかの馬のうしろに着くのが不満らしく、不機嫌に鼻を鳴らして走り出した。
(自由とは……)
はたしてなにかと、オルゴンの背に揺られながらリュドラーは考える。目の前を走るティティの姿が、それを体現しているかに見えて胸がきしんだ。
彼は「自由」とはほど遠い生き方を強いられてきた人間なのに――。
皮肉に頬をゆがめるリュドラーの前で、ティティは生き生きと髪を揺らして森を抜けた。
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